Works 197号 特集 活躍寿命を延ばせ
イギリス:人々の幸せとビジネス創出を両立するロンジェビティシティ
イギリス政府が設立した「国立加齢イノベーションセンター(NICA)」は、国や街、そして「職場」という環境そのものを変革して健康寿命を築こうとしている。その取り組みから、ロンジェビティ社会の本質的な成長戦略を解き明かす。

英国立加齢イノベーションセンター(NICA)ディレクター
ニコラ・パルマリーニ氏
Prof. Nicola Palmarini
大学で政治学を学び教授職を務めるなど社会・コミュニケーションの視点を培う。IBMでは約14年間、アクセシビリティやスマートシティの設計を牽引し、データサイエンティストとして「MIT-IBM Watson AI Lab」のプログラムマネジャーも務めた。2019年より現職。
長寿社会における新たなモデルを提示しているのが、イギリス政府によって2015年に設立され、ニューカッスル大学に設置された「NICA」だ。本格的に稼働し始めたのはディレクターを務めるニコラ・パルマリーニ氏が加わった2020年のことだ。
NICAの最大の特徴は、その管轄とミッションの定義にある。「このセンターを設立したのは医療福祉省ではなくビジネス、イノベーションを管轄する省で、民間企業も多く投資・参加しています。従来の生物学的な老化プロセスや医療・福祉の枠組みを超え、テクノロジー、ビジネスモデル、生活者のエンゲージメントなどの領域を俯瞰して、ソリューションを開発・提供することを目指しています」と、パルマリーニ氏は説明する。
このNICAが拠点を置くイングランド北東部の都市ニューカッスルは、歴史的に造船業や石炭鉱業といった産業に支えられてきたが、40〜50年前にそれらが力を失って以降、再興に苦労してきた背景を持つ。イギリスで最も貧しい地域の1つであり、平均寿命や健康寿命は国内最低水準だ。このような歴史的・構造的な課題に対し、現在、行政や大学、地域社会が一体となった市全体の取り組みとして動き出している。
具体的にはどのような取り組みなのだろうか。「1つ例を挙げると、人々の健康を損ねている真の原因をデータによって突き止め、インフラや教育を総合的に変革するプロジェクトがあります。AIを使って交通の利便性、食事の選択肢、地域の教育レベルといった環境要因のデータを分析し、人々の健康を阻害している最も本質的な原因を科学的に特定できるようになりました」
このデータ分析をもとに、学術機関も具体的なソリューション開発で市を強力にバックアップしている。ニューカッスル大学とノーザンブリア大学という2つの市内の大学からは、地域の大きな課題である糖尿病の標準的な治療や予防手順が研究から生まれ、実際の街のヘルスケア現場に導入されている。
こうした経済からデータ、テクノロジー、市民のライフスタイルまで連なる包括的な取り組みによって、ニューカッスルは「長寿の都市」としての「再発明」を懸命に進めている。
個人からシステムへ 長寿を規定する環境要因
NICAがこのような多様なステークホルダーを巻き込んだプラットフォームになり得たのは、大学で政治学を修め、その後はIBM、MITのラボでAIやIoTに関する研究やプロジェクトをリードしてきた、というパルマリーニ氏の異色のバックグラウンドも大きく影響している。「私は常に社会のシステムに目を向け、課題をデータで解決しようとしてきたのです」
パルマリーニ氏がシステム的な視点とデータ分析から導き出した長寿社会の本質は、「長寿は個人レベルの問題ではない」という事実だ。多くの人は健康的な生活や遺伝子が長寿に最も影響すると考えがちだが、「『郵便番号』のほうが、はるかに正確に寿命を予測できる」というのだ。「イングランドの南部とニューカッスルのある北部では10〜15年の平均寿命の格差があります。シカゴではわずか8マイル(約13キロ)しか離れていない富裕層が多い地区と貧困層が多い地区では、平均寿命に30年もの差が存在します。これらは、教育、世帯収入、周囲のネットワークといった社会的環境が、個人の行動や細胞レベルの老化を決定づけていることを示しています」
現在、サプリメントや測定デバイスといった自己管理の産業が急増しているが、それはコミュニティの重要性を低下させるリスクをはらむ。「『私、私、私』よりも前に、まずは『私たち、私たち、私たち』。それなくしては、ロンジェビティの実現は難しいのです」
「VOICE(Valuing Our Intellectual Capital)」という市民に活動へのエンゲージを促すコミュニティも、NICAが運営している。シニア層を含む市民がイノベーションの研究や議論に主体的に参加する仕組みで、現在はイギリスを超えて台湾、中国、シンガポール、カナダ、イタリアへと拡大し、文化横断の対話を通じて異なる視点を融合させるグローバルなハブとなっている。世代間の対話を生み出す仕組みは、異なる世代の人々が共通の課題を通じて出会い、「私たち」のための価値を創出する優れたトリガーになり得る。

「ザ・カタリスト」は、NICAの物理的拠点として、ビジネス、アカデミック、地域社会、テクノロジーなど多様な知が集まり、次世代のイノベーションの創出を目指す場となっている。
働くことを通じた目的、生きがいの提供が企業の最大の使命だ
環境がロンジェビティに影響するならば、職場の環境を作る経営者、人事の責任も大きい。「従業員は、会社の外に出れば市民の1人です。そう考えれば、企業が従業員の長寿をケアすることは1社の福利厚生を超えて、社会全体の負荷を低減することにつながります。従業員の健康や幸福を維持する責任にコミットすることは、国全体の持続可能性に直結する社会的インパクトがある、という意識をぜひ持ってほしいです」
では、会社には何ができるだろうか。
パルマリーニ氏がまず挙げるのは、ファイナンシャルな基盤を築く支援だ。NICAが日本を含む12カ国1万3000人を対象に行った調査では、人生100年を想定すると、回答者の75%が財務的準備が足りないと回答したという。「お金は幸福な長寿を支える重要な基盤であり、人が稼ぐ手段である企業は、働く場を提供し続ける必要があります」
人が働くことは、お金以上に生きがいの獲得に寄与するとパルマリーニ氏は強調する。「生きがいがないと死亡リスクが男性で15%、女性で24%高まるというデータがあります。企業がシステムとして生きがいを見つける手助けをすべきなのです」
ロンジェビティエコノミーのチャンスは、交通、不動産、エンターテインメント、金融などあらゆる分野にまたがって存在している。実際に、欧州最大級の銀行の1つ、ウニクレディトとともに長寿戦略のブループリントを構築し、長寿関連ファンドの立ち上げや、ATM画面への長寿に関するメッセージの表示といった具体的なビジネスへの落とし込みを成功させている。「企業で取り組もうとするならば、CEO、人事、マーケティングなどあらゆる部門の連携が必須となります。従業員を健康に、アクティブに保ち、人生に目的を提供することが、崩壊しつつある社会保障制度を抱える国にとって、また、成長を志向する企業にとって、最大の機会になると思います」
Text=入倉由理子 Photo=NICA提供
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