Works 197号 特集 活躍寿命を延ばせ
シンガポール:老化は問題ではなく機会。健康長寿社会への国を挙げた教育
健康長寿医学の世界的権威であるシンガポール国立大学教授のアンドレア・マイヤー氏は、健康長寿社会を実現するための「本物の知識」の重要性を説く。教育プログラムを開発、提供する最前線の話を聞いた。

シンガポール国立大学 ウン・チュウ・セン記念医学教授職
同大学 アカデミー・フォー・ヘルシー・ロンジェビティ 共同創設者 兼 ディレクター
アンドレア・マイヤー氏
Prof.Andrea Britta Maier
リューベック大学(ドイツ)で医学修士、ライデン大学(オランダ)で博士号取得。アムステルダム自由大学医療センター教授・老年医学部長、メルボルン大学医学部教授などを歴任。老化のメカニズム解明から、エビデンスに基づく臨床への応用までをリードする国際的なトップ研究者・臨床医。
シンガポール国立大学(NUS)は、2023年にジェロサイエンス(老化科学)やプレシジョン・ジェロメディシン(精密老年医学)といわれる健康長寿医学領域の教育・研究を推進するためのアカデミー・フォー・ヘルシー・ロンジェビティを医学部内に設立した。
アカデミーの共同創設者のマイヤー氏は、アカデミーの意義をこう語る。「日本やシンガポール、スイスなどは高齢化が進み、人口の21%以上が65歳以上という『超高齢社会』に突入しつつあります。一方で、今や暦年齢(実際の年齢)ではなく、生物学的年齢が『高齢社会』に対して意味を持つようになってきています。生物学的年齢の若返りを図った結果、個人は20年後、30年後、あるいは50年後にどのくらい機能的に動けるのか。その状況を踏まえて、将来の高齢者は社会にどう貢献していけるのか。企業はどのようなビジネスプランを描いていくのか。アカデミーは老化に関する科学的な研究と、その研究結果の社会への実装を推進していく最前線の場です」
同アカデミーは、老化を遅らせる、あるいは生物学的年齢の若返りを図る臨床試験を行うと同時に、医療関係者のみならず、起業家や経営者、健康関連の政策策定者などに対し、健康長寿医学の教育を行う幅広いプログラムを提供している。なかでも2026年8月に開講するマスターコースは、ジェロメディシンに特化した世界初の修士レベルのプログラムとして注目を集める。
シンガポールが国として健康長寿医学の領域に注目した背景には、600万人という人口の規模感が長く続くなかで、いかに国の機能を維持していくか、という事情がある。マイヤー氏は「シンガポールの首相もメディアでのインタビューで明言していましたが、現在の出生率(0.97、2023年、世界銀行)や人口構成(65歳以上13.6%、2026年、世界銀行)では、シンガポールが人口1000万人に達することはあり得ません。国の安定を図るには、AIを賢く活用することと、個人個人が人生を長く楽しむこと、この2点が必要なのです。そのために、シンガポールは健康長寿医学の推進に長年、熱心に取り組んできているのです」と説明する。
一方で、アカデミーの取り組みは、必ずしもシンガポールだけを対象としたものではない。マイヤー氏は、シンガポールは高齢社会の課題を考え始めるきっかけにすぎず、世界に向けた活動であるという。「研究はシンガポールで行っていますが、研究者も受講生も世界中から集まっています。出身国に関係なく、私たちがどのように老いていくか、その軌道を変えたいという『意欲』や『インスピレーション』をもたらしてくれるかどうかが重要なのです」。アカデミーも、研究者・受講生がグローバルにネットワークを築き、ロンジェビティの取り組みの共有や研究で協働することを奨励している。このグローバルを捉えた視界は、欧米のロンジェビティ教育とは一線を画している。
2026年2月に行われたロンジェビティインテンシブコース。
「身体の内面の美」を磨き身体を機能させる
マイヤー氏が老化科学を追究することになったきっかけは、幼少の頃から芸術に興味があったことだった。芸術作品をいかに美しいまま保存するか、その観点は「人間の身体をいかに美しく維持していくか」という「生物学のアート」「医学のアート」に重なるという。だからこそ、人々が普段食べているものがいかに自分の身体の美というものを破壊しているのか、いかに外側の美にしか注目していないか、ということに懸念を抱く。「たとえば、日本人は非常に若く見える美しい肌に覆われていますが、それは表面にすぎず、身体の中身、臓器には加齢によるシミやシワに相当するようなものがあります。その臓器もぜひケアしてほしいと思います」
マイヤー氏は特に脳のメンテナンスの重要性を説く。「脳も臓器の1つで、やはり加齢によるシミやシワのようなものができています。そのシミ・シワを取り除き、重要な資産である脳を機能させるには、昔のPCでやっていたような『デフラグ(プログラムの最適化により空きスペースを作る)』が必要なのです。そのためには、睡眠が最も効果的で、レム-ノンレム睡眠のサイクルにより、私たちはすべてのたんぱく質を修復し、身体を確実に機能させ、人生や脳のなかで得たすべての印象(記憶)を確実に正しい場所に配置します」
こういった知識が、健康長寿を可能にしていくのだ。
国、企業、個人一体でのロンジェビティ推進
老化科学を追究し、社会を健康長寿に向けて推進していくうえでの課題は何か。マイヤー氏は、「過大広告などのマーケティング活動を、本物の知識とは切り離して見極めること。世間の人々があまりにも多くのノイズに惑わされ、適切なロンジェビティの理解が進まなくなったり価値が見えなくなったり聞こえなくなったりしていること」だという。
そのためには、たとえば前述のような睡眠に関する正しい知識を持つこと(教育)と同時に、いかに個人がロンジェビティそのものに高い関心を抱いていくか、も課題だ。「ロンジェビティは誰の責任か、というのは非常に難しい問いです。『健康管理』はとかく個人の責任とみなされがちですが、健康管理を完全に個人任せにしてしまえば、健康長寿社会の実現は難しいとも感じています。個人が本物の知識を得るには、国や企業が情報をしっかりと共有すること。そのうえで、一緒に健康長寿に向けた取り組みを実践していくこと。そして、その取り組みによる身体的・精神的な報酬を人々が実感すること。この一体としての取り組みが、サステナブルな社会を実現し、健康長寿に向け、国家全体のマインドセットを変えていくと考えています」
正しい知識と正しい取り組みの実践により健康長寿が実現された「高齢社会」。そこでは、医療だけでなく、政策、金融、労働、あるいは消費構造など、あらゆる領域で新たな環境が構築されているとマイヤー氏は予測する。彼女は老化を問題ではなく「機会」と捉え、アカデミーという場を通じて、健康長寿社会に向けた「知識」という基盤づくりを主導している。
Text=佐々木貴子 Photo=マイヤー氏提供
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