Works 192号 特集 2026年-2035年 次の10年 雇用の未来を描く
「壁」を撤廃し、すべての働き手に社会保険の適用を
2025年6月に改正年金制度改革関連法が成立し、年収換算106万円以上(月額賃金8万8000円以上)という社会保険の加入要件、いわゆる「年収の壁」の撤廃が決まりました。ただ「週20時間以上」という労働時間要件をどうするかが、課題として残されています。
将来、最低賃金が引き上げられて時給が1300円、1400円といった水準に達すると、労働時間が週20時間未満でも、年収は被扶養者の認定基準である130万円を上回る可能性が出てきます。そうなれば働き手は、扶養から外れるうえに厚生年金の加入要件も満たせず、自分で国民年金保険や国民健康保険に加入しなければなりません。自ら保険料を負担し、厚生年金の上積みも受け取れなくなるため、年収が130万円を超えないよう再び就業調整を始める恐れがあります。
一方で事業主側も、保険料負担を免れるため「週20時間以下」という条件で求人を出すなど「雇い方調整」をしているケースも少なくありません。「週20時間」が働き手と事業主の双方の壁となっている以上、労働時間要件を20時間から10時間に引き下げるなどして、この障壁を取り除く必要があります。週10時間以上20時間未満で働く労働者は410万人にのぼり、加入要件が週10時間以上へと拡大されれば、これらの人々は厚生年金・健康保険に移行します。基礎年金と厚生年金という「2階建て」の年金を受け取れる人が増えれば、低所得の高齢者が減ることも期待できます。
今回の法改正では、従業員50人超という企業規模要件の廃止が決まりましたが、小規模事業者の経営への影響を和らげるため、10年間の経過措置が設けられました。企業規模要件が残っていると、たとえば大手スーパーが保険料を負担する一方、フランチャイズの小規模事業者は負担を免れるなど、競争上、不公正な状態が温存されてしまいます。このため、経過措置を待たずに中小事業者の加入を促すことも重要です。
「皆保険」で働き方、企業経営の歪みをなくす
現行制度の最も大きな問題点は「社会保険に加入せず、保険料負担を避ける」という選択肢が存在することです。だからこそ労働者は就業調整を行い、企業側も本来雇用すべき人を業務委託の形で活用しようとする。制度が労働者の働き方や企業の人材戦略を歪めているのです。
たとえば輸送業界では、事業主はドライバーと業務委託契約を結んでいても、実際は業務を管理し労働者と同様に扱っているケースが多数あります。雇用すべき人材を業務委託にするケースは、他業界のギグワーカーなどにも見られます。こうした歪みをなくすためにも、すべての働き手に社会保険を適用することが必要です。現行の仕組みになじまないフリーランスについては、新たな類型を設ける必要もあるでしょう。
中小企業にとって、社会保険料は経営の重荷になるかもしれません。しかし「皆保険」の状態になれば、保険料負担を前提に経営戦略を考えるのが当たり前になります。サービスや商品に保険料分の価格を転嫁することに対する、消費者や取引先の理解も得やすくなるはずです。
これからは中小の事業者も、セルフレジやデジタルツールなど省人化に投資して必要な人数を減らしつつ、従業員には一定の賃金と社会保険というセーフティネットを提供し、人材を集める必要があります。そのためには、人件費を削って価格を下げるデフレ時代の戦略から脱却し、質の高い製品やサービスを提供して相応の対価を得る、というマインドに転換しなければなりません。同時に働く側も、スキルを磨いて正社員を目指す、賃金の高い企業へ転職するなど、所得を増やすための自律的な行動が、今まで以上に求められます。
社会保険の適用拡大や働く女性の増加に伴い、専業主婦を中心とした「第3号被保険者」は減っていくでしょう。ただ3号制度そのものは、働きたくても働けない人に年金を保障する仕組みとして存続させるべきです。自身の健康状態や、育児や介護など「働けない」理由はさまざまで、行政が個別に支援の必要性を判断し、実行するのは非常に困難です。要件を問わずに年金を保障する3号制度は、将来、高齢者の困窮を防ぐためにも必要だと考えています。
Text=有馬知子 Photo=高橋氏提供
高橋俊之氏
日本総合研究所特任研究員。
1987年、厚生省(現厚生労働省)入省。老健局介護保険計画課長、年金局長などを経て2022年に退官し現職。著書に『年金制度の理念と構造―より良い社会に向けた課題と将来像』(社会保険研究所)がある。
メールマガジン登録
各種お問い合わせ