Works 197号 特集 活躍寿命を延ばせ

AIとロンジェビティは社会と人生をどう変えるか。キャリアの再発明とは

2026年08月17日

ロンジェビティの実現と同時に、AIは爆発的に進化する。40年前からAIの最前線を切り拓き、現在はスタンフォード大学医学部で長寿科学を講じるロンジョン・ナグ氏。同氏の視座から、労働力不足の未来とそのさらに先、私たちは組織と人生をどう「再発明(Reinvent)」していくべきかを探りたい。

ロンジョン・ナグ氏

スタンフォード大学 医学部 遺伝学科客員教授
大英帝国勲章(OBE) PhD 英国工学技術学会フェロー(FIET) 英国王立医学会フェロー(FRSM)
ロンジョン・ナグ氏
Dr.Ronjon Nag

ケンブリッジ大学で博士号、MITで修士号を取得。音声認識や手書き文字認識、スマートフォン向けアプリストアなどの先駆的技術を開発し、創業した企業はApple、BlackBerry、Motorolaに買収された。現在はAIと生命科学の戦略的融合領域に注力し、AI、遺伝学、ロンジェビティ・サイエンス、ベンチャーキャピタルを教えるほか、AIを活用した創薬プラットフォームや老化ワクチンの開発にも取り組む。


1970年代以降、世界は「人口過剰」を深刻に懸念してきた。「しかし、現代の私たちが直面するのは、一転して先進国を中心とする急激な人口減少という正反対の危機です。若い世代が働き、その税金で高齢者を支える社会保障モデルは、既に多くの国で機能しなくなっています」と、ナグ氏は話す。

一方で、ライフスタイル医学の進化に伴う、人々の健康的な長寿化が同時に起こっている。「労働力が物理的に不足するこれからの社会において、企業が健康で経験豊かなシニア層の力を借りることは、単なる多様性の推進ではなく生存戦略です」

ここで私たちが脱却すべきは、「シニアは効率が落ちるのではないか」という固定観念だ。「彼らは豊富な専門知識を持ち、仕事の進め方を熟知しています。真の組織競争力は、若い世代の最新スキルと、シニア層が持つ大局的な知恵が融け合う世代間学習のダイナミクスから生まれます」

25歳と60歳が対等なペアとなり、共に問いに向き合う組織構造をいかにデザインできるか。それは若年層の減少に悩む私たちが、今まさに足元から挑戦できるイノベーションの第一歩だというのだ。

デジタルと物理の融合がもたらす資本主義の地殻変動

しかし、シニアの活躍による労働力補完は、あくまで過渡期のシナリオにすぎない。ナグ氏によれば、その背後からは「AIの爆発的な進化」という、より巨大な波が押し寄せているからだ。

1980年代に既に、最初のAIシステムを構築し、音声認識や手書き文字認識の先駆者として複数のスタートアップを立ち上げてきたナグ氏の目には、現在の「AIブーム」は過去のそれとはまったく異質に映る。AIは自ら情報を生成し、100人の博士に匹敵する「スーパーインテリジェンス」の領域へ足を踏み入れつつある。さらに、AIは画面のなかのデジタルツールを超え、「フィジカルAI」はより大きなインパクトをもたらすと、ナグ氏は考える。

医療における新薬の開発といったデジタル領域にとどまらず、家を建てる、調理する、あるいは介護を担うといった、人間に残されたはずの物理的な作業までもがロボットに代替される世界。もし機械がすべての非効率を排除し、人間の仕事を代替し尽くしたとき、社会はどうなるのだろうか。

「産業革命以降、200年以上にわたり保たれてきた労働者と企業の株主との均衡が崩れ、資産家や超巨大企業へ富が圧倒的に集中する不均衡の世界が訪れることは、否定できません。それは、私たちが依って立つ資本主義の構造そのものを根底から揺るがすものです」

人間に求められる役割はどこへ向かうのか。今やプログラミングのコストはゼロになり、コードの知識がなくてもアプリケーションを開発できる時代だ。ナグ氏も現在、2億本の論文を読み解き、がんの治療戦略を自律的に組み立てる「AI科学者」を構築している。しかし、このようにスキルの賞味期限が劇的に短くなるなかでも、私たちに最後に残される「AIの弱点、つまり人にしかできない隙間」があるという。「インターネットが登場したとき、多くの職業がなくなるといわれましたが、その多くは依然として残っています。AIがいくらネット上から膨大な情報を集められたとしても、一部の人しか持ち得ない知識や、人のクリエイティビティをもってしかなし得ない分析があります。電気があっても、電気を使って動かすモーターや機械が必要なように、人による介入は求められ続けるでしょう」

一方で、私たちは「思考の退化」という罠にも自覚的であるべきだと、ナグ氏は指摘する。電卓の登場で計算力が、GPSの登場で地図を読む力が失われたように、すべてをAIに丸投げすれば、人間の脳という筋肉は確実に萎縮していく。だからこそ企業や社会は、従業員に対して「学び方を学び直す(再教育)」ための投資を惜しんではならない。60代、70代であっても、新しい友人を作り、目的を再定義することは十分に可能であると、ナグ氏が教鞭をとるスタンフォード大学でのシニア向けプログラムを通じて確信しているという。

「急ぐ必要のない人生」をどう豊かに生きるか

人生が100歳、120歳まで引き延ばされる世界において、人生のスピード感は劇的に変化する。

「これまでは、20代で早く修士や博士を取り、早くキャリアを確立しようと、誰もが急いでいました。しかし、もしより長い時間を生きるのだとしたら、じっくりと物事を行い、人生のなかでいくつもの異なるステージを経験すればいいのです」

工学博士からスタートし、50代で自ら再教育のコースを受けて医学部の教授へと自分を「再発明」したナグ氏の歩みは、その生きた証拠といえる。

そして、この「マルチステージ」の人生において、仕事が持つ意味もまた再定義されることになるだろう。「人間には生存のための危機感が薄れたあとも、生きる目的と社会的なつながりが不可欠です。今後企業が提供すべきは、人生の後半戦での輝く目的と、あたたかなコミュニティなのです」

ナグ氏は最後に、ビジネスリーダーが描くべき未来として、2つの極端なシナリオを提示した。

1つは、「これまで通り、新しい技術を上手にやり過ごせる」という現状維持のシナリオ。もう1つは、「すべてが根本から変わる」というゲームチェンジのシナリオだ。後者の世界では、人間がデジタル的・物理的に行うあらゆる非効率なプロセスが、AIとロボットに代替されることになる。

正解は誰にもわからない。しかし、ナグ氏がいうように「実際にそれが起きてから考えたのでは手遅れになる」のは、紛れもない事実だ。自社の教育、製品、そして組織の配置をどのように再発明(Reinvent)していくべきか。迫りくる地殻変動を恐れるのではなく、人の豊かさと組織の可能性を広げる好機として捉えられるか否かにかかっている。

Text=入倉由理子 Photo=ナグ氏提供