Works 195号 特集 経営とインクルージョン

経営学を学んだ医師による患者も職員も幸せになるクリニックの作り方

2026年04月17日

『「幸せなクリニック」の作り方』(講談社)の著者、やちよ総合診療クリニックの院長の沖一匡氏は、職員の幸せの追求に重きを置いた組織づくりに取り組む。インクルーシブな経営を成立させる要諦とは。そこでのリーダーの役割とは。沖氏とCHO(Chief Happiness Officer)の梅澤慶太郎氏に聞く。

沖 一匡氏と梅澤慶太郎氏の写真

やちよ総合診療クリニック 院長
沖 一匡氏(写真左)
2007年琉球大学医学部卒業後、国内での病院勤務を経て、2014年赤十字病院の派遣事業によりウガンダ共和国で外科医として活動。その後「国境なき医師団」としてイエメンに派遣されたが、病院の爆破により断念。帰国後、クリニック開業を志し、2020年11月に実現、現職に就く。
 
統括マネージャー
Chief Happiness Officer
梅澤慶太郎氏(写真右)
2020年、やちよ総合診療クリニックに放射線技師として入職。2021年より現職。組織開発、人材採用・育成に携わる。

千葉県八千代市のやちよ総合診療クリニックは1日350〜500人の患者を受け入れ、救急車の受け入れ件数は市内第2位。それだけの負荷を抱えながら、沖氏は「日本でいちばん笑顔が多いクリニック」を掲げ、それを実装しようと努めてきた。「患者が安心すれば、その家族も穏やかになる。スタッフが幸せに働けば、地域医療の質も上がると信じています」(沖氏)
 
沖氏は高校卒業後、将来の目標が定められずフリーターをしていた時期に、写真家ケビン・カーターが撮影した、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている写真を目にした。困難な状況にある人を助ける存在になりたいと感じ、「国境なき医師団」を目指して医学部に入学。救急医療と外科を専門に選び、実際に赤十字病院の派遣事業によりウガンダ共和国で外科医として活動した。
 
研修医時代には、現場の過酷な勤務を体験した。「医療現場には負のオーラが充満し、イライラして疲弊し、時には心の病まで患う。本来スキルもホスピタリティも高い人たちが、どんどん辞めていってしまう。医療の志が、組織によって削られていく。その構造を変えたいという思いが、クリニックの開業へとつながりました」(沖氏)

同時に、総合診療クリニックとして、患者の幸せの追求も目指す。「患者がどの科に行けばよいかわからず、たらい回しになる現実を変えたい。“断らない医療”を掲げています」(沖氏) 

だが、それは安易な患者満足度の追求とは異なる。たとえば単に話を聞いてほしい人もいて、そこに時間をかけると本当に医療が必要な人を診ることができなくなる。「適切なトリアージと適切な医療がより重要で、診療に必要以上の時間をかけません。できるだけ多くの患者を受け入れたいし、職員の労働時間の抑制も念頭に置かなければなりません。実際、職員の平均残業時間は月10時間程度にとどまっています」(沖氏)
 
沖氏のこうした考え方には、開業を決めてから徹底的に学んだ経営学が影響している。「診療ができることと、経営ができることは別です。僕自身は、特に『 7つの習慣』をバイブルのようにして学びました。そして、学べば学ぶほど、人が経営の中心だと確信したのです」(沖氏)
 
給料を多く出して休みを増やすだけでは十分ではないと気づく。試行錯誤を経てたどり着いたのが、「働きやすさ」と「働きがい」の両立だった。

沖 一匡氏と梅澤慶太郎氏がトライアスロンの大会で万歳をしながらゴールをしているところセミナーやイベント、入社式を担当する「幸せ係」というチームがある。彼らは、「どうすればみんなが楽しめるか」を本気で考える。そのプロセス自体がマネジメントの“練習”になり、人材育成の機会ともなっている。
沖 一匡氏と梅澤慶太郎氏がクリニックのメンバーとディズニーランドにて撮影した集合写真

経営の中核機能CHOが仕掛ける組織設計とカルチャー

沖氏のこの思想を、日々の組織運営のなかで具体化しているのが、統括マネージャー兼CHOの梅澤慶太郎氏だ。医療機関において、CHOを正式役職として置く例はほとんどない。しかし同院では、このポジションが経営の中核機能の1つだといっても過言ではない。梅澤氏は自身の専門領域である放射線技師としての仕事の傍ら、クリニックで働く職員全員の幸せをキーワードに、組織開発、人材の採用・育成などをメインに担当する。

「働きやすさ」の基礎に置かれているのは、良好な人間関係だ。梅澤氏は「人間関係に全力投球しているクリニック」と表現する。

まず、お互いなんでも言い合える職場づくりのために、組織設計を工夫している。医療は高度な専門職であり、指揮命令系統は絶対だ。同クリニックでも、診療における判断は医師が絶対的な責任と権限を持つなど専門領域は厳格に守られている。しかし、クリニックの経営に関わること、たとえば採用・人材育成、各種イベントやSNSの運営などは別だ。それらの改善提案については、立場に関係なく意見を言い合える状態を目指している。
 
日常的な工夫もある。1つは朝礼だ。ここでは、「ハッピー&ニュース」を各人が共有する。内容はたとえば、患者から感謝された、子どもがはじめて自転車に乗れた、読んだ本が面白かったなど公私問わず日常的に出合ううれしかったこと、よかったことだ。それを全員で拍手して承認し、全員でハイタッチを交わす。「医療の現場では、何もしなければ、忙しさや大変さが際立ってしまう。だからこそ、意図的にハッピーな空気で満たすのです」(梅澤氏)
 
宿泊研修旅行や日帰り旅行、新卒入社式、スポーツイベントも、同じ文脈にある。「宿泊は無理でも日帰りなら参加できる。トライアスロンや登山などハードなものは、応援参加も歓迎、というように、誰もが自分の都合や志向に合わせて楽しめるように工夫しています」(梅澤氏)

情動を律してミスを責めない 責任はリーダーが取る

「働きがい」の設計の基盤は、成長の道筋を明確にしていることだ。キャリアラダーを整備し、半年ごとに面談を実施する。そこでは業務評価だけでなく、将来の方向性や価値観についても対話する。「業務に追われていると、自分のキャリアを言語化する時間はなくなります。あえて考える機会を作ることが大事なのです」(梅澤氏)
 
医療技術だけでなく、心理的安全性、マネジメント、自己理解、ファイナンスなど、多様な勉強会を開催し、院外のセミナーへの派遣も行っている。また、職員自らが勉強会の講師になることもある。副業や起業を志向する職員を支援するなど、キャリアの可能性を広げることにも力を尽くす。「囲い込むのではなく、成長を支援する。これが働きがいを生むと考えています」(梅澤氏)
 
加えて、学生のインターンシップや外国人材としてミャンマー人の受け入れを始めている。その目的は、人材不足を補うためというよりは、彼らから得る視点や知識が貴重だと考えているからだ。ミャンマー人受け入れにあたっては、できるだけ豊かなコミュニケーションを図ろうと、壁にミャンマー語を貼り出して、全員が勉強中だ。
 
すべての人に適応を求めるのではなく、すべての人が自ら楽しめること、他者に寄り添う仕掛けを作ること。これが、全員の幸せと成長に寄与しているといえそうだ。
 
沖氏に、こうした組織のリーダーの役割を聞いてみた。その答えは、「空気を作ることに尽きる」。
 
前述の通り、心理的安全性を重視しているが、医療の現場で求められるのは完璧さであり、それによる緊張感はどうしても高くなる。「小さなミスは日々起こります。でも、情動を律して、決してイラッとした自分を表に出さないように努めます。ミスを責めない。最終責任は僕が取る覚悟はある。皆に求めるのは、どうすれば次はミスにならないかを考えてもらうことです」(沖氏)
 
2020年の開業時点で17人だった職員数は、今や55人にまで増えた。離職率は年間1割弱。人材不足が常態化し、人材が流動的な業界において、この数字こそが沖氏の「幸せの追求」の有効性の証左だといえそうだ。

Text=入倉由理子 Photo = 今村拓馬、やちよ総合診療クリニック提供