インタビュー 『社会リーダー』の軌跡家本賢太郎氏 株式会社クララオンライン 代表取締役社長CEO

家本賢太郎氏がクララオンラインを起業したのは1997年。家本氏が15歳の時だ。大病の手術後に体が麻痺し、車いす生活を余儀なくされた若者は、世界をつなぐインターネットに夢を描いた。以来、紆余曲折を経ながら、日本を飛び出してアジアのかけ橋を目指すネット企業へと成長を遂げてきた。「インフラの仕事が好き」という家本氏は、どんな体験を経てそう思うようになったのだろうか。

ホスティングサービスの会社から
国内外のブリッジとなる役割へ

アジアの各地で、サーバのホスティングサービスを提供してきたクララオンライン。近年は海外進出する日本企業や、日本に進出する海外企業へのコンサルティング業務、エージェント業務に力を入れている。「ビジネスの基礎的な部分に橋をかけること」を、自分たちの役割だと自負する。

創業してから10数年は、サーバのホスティングサービスを提供する会社としてやってきました。ここ数年、それに加えて海外進出する日本企業や、日本に進出する海外企業へのコンサルティング業務、エージェント業務に力を入れています。特にゲームやデジタルコンテンツを扱う企業のお手伝いに焦点を絞っています。クララオンラインでこれらの業務に携わる社員が約70人、北京の現地法人が約20人。そのほかスポーツのチームや競技団体にITソリューションを提供するスポーツITソリューションという会社に約25人いて、全体で約120人の会社です。海外は中国、韓国、シンガポール、台湾などにオフィスやデータセンターを展開しています。

私たちが海外展開を始めたのは10年ほど前。2004年の台湾が最初でした。最初は私たちも大失敗を続けました。海外に進出しようとする日本のお客さまのお手伝いをしていく時に、私たちはサーバのホスティングというインフラのお手伝いをしてきたのですが、進出先でお客さまのビジネスがうまくいかなければ、私たちのビジネスは、途中で「もういらないよ」ということになってしまう。国境を越える事業の成功率を少しでも上げてもらうため、私たちが泥水をすすった経験を活用していただけるのではということで、コンサルティング領域のビジネスを始めました。コンサルティングとかエージェントとか言っていますが、結局自分たちの仕事はブリッジなのだと思っています。ビジネスの基礎的な部分に橋をかけるという仕事が、私たちの役割なのです。

サーバのホスティングなど、クララオンラインが展開する事業のキーワードは「インフラ」だが、学生時代にももう一つ、インフラ作りに挑戦している。キャンパスの交通の便を改善しようと、NPOによるコミュニティバスの運営を構想したのだ。この時は規制の壁にはばまれ、挫折した。

大学は慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパスに通いました。最終的には体育の単位が足りずに中退しましたが(笑)。このキャンパスは交通の便が悪く、みんなのためにとバス会社を作ろうとしたのです。NPOを設立し、特定の路線の免許だけを取得するコミュニティバスの形態を考えていました。ところが話を進めているうちに、排気ガスの規制が厳しくなりました。コストを下げるため中古バスの活用を考えていましたが、規制によってそれが難しくなり「ごめんなさい」することになってしまいました。今から思うと、インフラの仕事が好きだったんですね。サーバのホスティングもそうですが。

小学生のころから、目立ったり、リーダーシップを取ったりが好きということではなく、誰かの役に立っている状態が、純粋に楽しかったり、やりがいがあったりしました。もちろん、その状態にフィードバックがあればなおうれしいですが、サポートした誰かの結果が出ているのを見るのがうれしいというのは、常にありました。この性格は子どものころから変わっていないと思いますし、それがインフラ好きにつながっているのでしょう。

誰かの役に立っている状態にやりがいを感じていたことが、「インフラ好き」につながっているという家本氏。そうした性格形成に影響を与えた要素として、カトリック信者の両親によって育てられたことと、脳腫瘍と闘った上に、車いすでの生活を強いられたことを挙げる。

誰かの役に立つのがうれしいという性格の形成には、一つは両親の影響が大きいと思います。私は両親がカトリックの家で育ちました。今では12月24日にしか教会に行かない「クリスマス信者」になってしまいましたが、「誰かのためになることをする」ということの意義を、両親からずっと言われ続けて育ちました。今から振り返れば、私に言うだけでなく、両親も誰かのためになる行動を続けていたのだなと感じます。

もう一つは、脳腫瘍を患い、車いすで生活した経験が大きかったと思います。小学校6年のころ脳腫瘍を発症し、治療に必要な手術の後、自力で座れないほどに体が麻痺してしまいました。リハビリで回復し、車いすでは動けるようになりましたが、高校進学は断念。15歳で起業する道に進みました(18歳のころに、足を動かす神経が奇跡的に回復。不自由なく歩いたり走ったりできる状態に回復している)。

車いすで仕事を始めてみると、「自分一人の力で生きられるものではない」という人間の本質を、身にしみて理解することができました。それから病院の中では、亡くなってしまう同世代の友達もたくさん見てきました。当たり前のように健康で五体満足だと思っていた人たちが、突然病に冒された時の変化も見てきたので、「何のために生きるのか」を考えるきっかけは多かった。こうした経験も、「誰かのためになることをする」ということにつながっていると思います。

インターネットとの出合いは
偶然ではなく、与えられたもの

家本氏は、「自分は人として生かされている」という思いがあるといい、社会への貢献によって恩返しをしたいと考えている。そして15歳の時にインターネットに出合ったことも、偶然ではなく、「与えられたものだ」と感じている。

自分は人として生かされているという思いが、まず大前提にあります。その上で、生かされているのは社会に生かされていると思っているので、自分に何かをしてくれた人に返すのではなくて、社会に対して返したい、貢献したいと思っています。社会への貢献にもいろいろなパターンがありますが、私は自分の生業を通して貢献することを選んでいます。

私が15歳の時にインターネットという存在に出合ったのも、それは自然に巡ってきたものではなく、タイミングも考えると、与えられたものだと思っています。なぜかというと、それより2年前にインターネットに出合っていても多分起業できなかったし、そういう風潮でもありませんでした。2年後にはネットバブルが始まっていたので、やはり自分がそれをやろうとは、おそらく思わなかった。あの1997年というタイミングでなかったら、インターネットの仕事を15歳から始めなかったと思います。

インターネットはコミュニケーションだけではなく、人間の活動の質を大きく変えてきました。政治の世界でいえばチュニジアで起こったジャスミン革命もそうですし、先日の香港のデモもそうですが、インターネットが人の言葉を増幅させる力になっています。ポーランドのワレサ元大統領のように、かつての革命にはリーダーが存在しました。それがみんなでスマホを使って動画を撮り、SNSでシェアする。そんな革命の時代になってきました。一つの国を揺るがす存在にもなりえるインターネットの無限の可能性を、まだまだ探らせてもらっています。

この会社を通じて果たせる使命が、まだたくさんあると思うので、インターネットの仕事を続けているのだと思います。経済・社会が変化する1サイクルは、約30年という話を聞いたことがあります。インターネットが広がり始めた社会はまだその半分くらいだから、半分でここまで来て、残り半分何が起こるのかワクワクしています。20年近くインターネットの世界で仕事を続けてこられたのは、このワクワク感があるからかもしれません。

学ぶことはもともと好きだったが
コミュニティに育てられた部分もある

15歳で会社を始めた時は、車いす生活だった。17歳では業績が低迷し、従業員を全員解雇するなど、経営危機も何度かくぐり抜けてきている。それでも常に前進を続ける家本氏だが、その「へこたれなさ」は、いったい何が支えているのだろうか。「もともと持っているものと後から与えられたもの、両方がある」と、家本氏は説明する。

頭のネジが何本か足りないだけかもしれませんが(笑)。もともと持っているものと、後から与えられたもの、両方あると思います。もともと持っているものはそんなに複雑なものではなくて、新しいことが好きで、学ぶことが純粋に好きだということです。新しい知識に対して常に欲求がある。新しい知識を学ぶことを「面白いな」と思える感覚があります。

もう一つは、やはりコミュニティに育ててもらっている部分があると思っています。同じ世代で刺激を受ける人たちが周りにいると、そこから得られるものはたくさんある。たとえば、病児保育のNPO法人フローレンスの駒崎弘樹さん。大学で1学年上にいて、昔、一緒に中国へバックパックを背負って旅行もしました。同じ世代でいえば、発展途上国でアパレル製品や雑貨の企画・製造し、先進国で販売しているマザーハウスの山口絵理子さんもいます。

ただ、刺激を受けられそうな環境を見つけて自ら飛び込めるかどうか、というのはあります。「刺激を受けたい」と思っていなければ、そういう場所に行かないですから。刺激のありそうなところに突っ込んでいくのは、それなりにしんどいですよ。みんな大人しくはありませんし、いろいろなものがあちこちからたくさん飛んできますから。でも、それを楽しめる部分が自分にはあります。

小学生時代の家紋、大学生時代の朝鮮舞踊。「ハマったものはとことんまで調べる」姿勢は、子ども時代も経営者になってからも変わらない。「何も答えが見えていないなかで、それを探求することを怖いとは思わない」という家本氏。「答えを見つけてやるぞ」という意欲も、ひと一倍大きいという。

新しいことや学ぶことが純粋に好きだと話しましたが、小学校6年生の時には、家紋にハマっていました。面白くてしようがなくて、とことんまでやり切ろうと思っていました。大学時代は北朝鮮側の朝鮮舞踊の歴史です。当時住んでいたアパートの半分以上のスペースは北朝鮮の歴史や音楽の本で占められていました。音階など、どのように音楽が設計されているのか、ひたすら調べることだけやっていた年もありました。

戦後に日本から北朝鮮に帰国した方などを通じて、朝鮮舞踊は日本のモダンバレエの影響を受けています。当時の様子を聞くため、自由が丘のバレエ教室へ聞き取り調査にも行きました。生き証人の方々のお話を聞けるのは、もう最後のタイミングかもしれないという時期でした。「今しかない」と勝手に一人で盛り上がり、ひたすら図書館に行って、昔の新聞広告をフィルムで見て、ある特定の舞踊家が1930年代後半から40年代に、どんな演目を踊っていたのかを調べるといったことが、もう楽しくてしようがなかったです。

歴史学のように、過去を論理的に組み立てたものに対して惹かれるところがあります。歴史は構成される要素を調べていけば、答えは必ずそこに見えてくるという部分に、ハマりました。本を読んだり、ひたすら調べたりというのは、まったく苦になりません。何かにハマったら、あとはひたすらその時取りうる手段で、やれることはやり切るという部分は、昔からあります。まだ何も答えが見えていないなかで、それを探求することを怖いとは思いません。そして答えを見つけてやるぞという意欲は大きいほうだと思います。

学び好きな姿勢は、仕事でも一緒です。たとえば中国での事業を進める上で、私自身、中国の法律の研究はかなり深めました。法律用語はもともと嫌いではありませんし、日本の法律も中国の法令もかなり勉強して、「お客さまにアドバイスできるレベルまでやってみよう」というくり返しで、ずっと来ています。

ただ、プロフェッショナルの経営者がやるべきことは、ひょっとしたら「こうじゃないかもしれない」とは感じています。自分で何でも勉強するのではなく、専門家を採用するべきなのかもしれません。「徹底的に調べる」は誰かに任せたほうがいいのか、経営者の役割と両方兼ね備えられるように、うまくバランスを取れるのかは、まだ今の私にはよく分かりません。今のところは、両立できるように頑張ってみようと思っています。

売上や利益の大きさよりも、「アジアのインターネット環境に関しては、一番私たちが知っている」という評価を、顧客からもらいたいという家本氏。アジアに根差した会社になるため、まだまだやるべきことはたくさんあると意気込む。

アジアでナンバー1の、インターネットサービスプラットフォームカンパニーになりたいと思っています。売上や利益の大きさというよりは、実行力×スピードでお客さまから信頼されることを目指しています。「アジアのインターネット環境に関しては、一番私たちが知っている」ということを、お客さまに評価されるようになりたい。一つひとつの国がインターネットに対する姿勢も違えば、宗教も言葉も民族も違うというのがアジアです。ですが、アジアのインターネットユーザーは、世界の45%を占めるようになっており、これからもますます増加していきます。このようなアジアに身を置く企業として、カバーする範囲をもっと広げていきたいと考えています。

日本や韓国にいると、インターネットはそこそこ普及していて、便利なツールだと感じます。先日、当社のビジョンの説明文に「アジアではすでにネットが普及している」といった趣旨のことが書いてあり、「東京だからそう書けるが、ミャンマーやカンボジアに行くと、同じことはまったく感じられない」と議論になりました。私たちはアジアに根差した会社になりたいので、まだまだここから先、やるべきことはたくさんあると思っています。

日本から出ていく日本企業だけを支援するのではなく、アジア内のある国から別の国へ、アジアの外からアジアに進出する企業のお手伝いもしていきたい。これだけ民族や歴史背景が国によって違う地域なので、私たちのような多国籍チームだからこそ実現できる価値があるのです。

TEXT=五嶋正風 PHOTO=刑部友康

プロフィール

家本賢太郎
株式会社クララオンライン 代表取締役社長CEO
1981年名古屋市生まれ。2001年9月慶應義塾大学環境情報学部に入学、2006年3月同中退。2007年3月早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修了。

11歳で株式市場・経済に興味を持ち、13歳のころからはパソコンやIPネットワークに関心を持つ。14歳のころ、脳腫瘍の摘出後に車いす生活になる。1997年5月20日、15歳でクララオンライン設立。1999年に入り、生涯車いすと宣告されていたにもかかわらず奇跡的に両足の運動神経が回復。車いすなしでの生活が可能になった。2001年には身体障害者手帳も返納。

1999年、米Newsweek誌にて「21世紀のリーダー100人」、2000年、新潮社Foresight誌にて「次の10年を動かす注目の80人」、2012年、世界経済フォーラム主催「Young Global Leaders 2012」に選ばれている。

現在、内閣府 男女共同参画会議議員、一般社団法人日本インターネットプロバイダー協会理事、公益財団法人日本ユースリーダー協会理事なども務める。