インタビュー 『社会リーダー』の軌跡宮城治男氏 NPO法人ETIC. 代表理事

ETIC.(エティック)という法人名は、Entrepreneurial Training for Innovative Communities の頭文字を取ったものだ。意味どおり、次代を担う起業家型リーダーを育成し、社会の変革に貢献することを活動理念とする。宮城治男氏がこの活動をスタートさせたのは1993年、大学2年生の時だった。以来20年間、若い世代に様々なプログラムを提供し続け、アントレプレナーシップにあふれる人材を多く輩出してきた。この領域の先駆者として広く知られる宮城氏の根源にあるものは何か。その軌跡をひもとく。

社会の既成価値に、
違和感を持ち続けた少年時代

1972年生まれの宮城氏は、ドンピシャの団塊ジュニアだ。世代人口が多く、あらゆる場面において競争の激しい環境下で育ってきた。その最たるものが受験だが、聞けば、宮城氏は早くから「勉強して受験に勝つこと」「その先にある既成価値」に疑問を抱いていたという。中・高時代を通じて、宮城氏の胸にずっとあったのは"大きな違和感"である。

高校受験が視野に入ってきた中2の頃でしょうか。受験戦争で頑張らなきゃいけないという、当たり前的な空気に違和感を覚え始めたのです。そもそも何のために勉強しているのか。受験に勝っていずれ就職し、お金を稼ぐとか出世するとか、そこにある意味は何なのか。疑問に感じるばかりで、どうにも腑に落ちない。自分にとって、そして私たちの世代にとって、そういう未来が幸せにつながるとは思えなかったんですよ。

私が「世代」を意識するようになったのは、家庭環境によるものでしょう。幼い頃は4世代が同居していたので、ロングスパンで世代を見ることができた。つまり、「何に対して価値を感じるか」の違いが身近にあったのです。明治生まれの祖父母、戦後の復興を知る両親、それぞれに世代の価値観というものがある。一つ卑近な例を挙げると、父なんかにしてみれば「おなかいっぱい食べること」がこの上ない価値であると。でも、私たち以降の世代は、そこに対しての価値をそんなに感じていないわけです。

団塊ジュニアというのは日本が高度成長を成し遂げた時代に生まれており、物質的な貧しさをほとんど知らずに育った最初の世代です。だからモノやお金、社会的地位などに対してのモチベーションがそう高くない。もちろん嫌いなわけじゃないけれど、じゃあすべてを投げ打ってでもそれらが欲しいかといえば、相対的にかなり違う気がするのです。

育った家庭環境は、別の角度からも宮城氏に影響を及ぼしている。徳島県にある実家はスーパーを営んでおり、子供の頃から手伝いに駆り出されていた宮城氏は、今でいうコミュニティビジネスに触れていた。社会寄与的なマインドで経営にあたる父親の姿は、「振り返れば、私の一つの素地になっている」。

惣菜などもつくって売っていたので、近所の主婦やおばあちゃんたちがやって来て、いつも忙しく働いていました。そんな日常にあると、働くということがすごく身近で、かつ当たり前の感覚になる。そこにはヒエラルキーも関係ありません。父は、地域への貢献意識が高かったようで、人それぞれの幸せを大切にする仕事の仕方をしていました。だから、スタッフに怒ったりする場面は一度も見たことがないし、むしろ「働いてくれてありがとう」という感じ。こういう現場を見て育ち、学んだことは、振り返ればなんですが、影響が大きかったように思います。

そんな世界観もあったから、なおのこと、「受験戦争を越えて成功しなければならない」という社会構造に違和感があったのです。それが幸せにつながるのだろうか? 起きて然るべき価値観の変化に、世の中が対応していない――そう感じる苦悩のようなものが常にありました。

脱却の糸口が見つからないまま、結局、原付の免許取得がOKだからという単純な理由だけで、高校を選んだのです。それが進学校で、周囲は勉強熱心な学生ばかり。当然、環境はまったくフィットしません。友人は全然いなかったし、より孤独な状況が訪れて、高校時代はずっとたそがれていましたねぇ。でも、今思えばよかったのかもしれない。この時期に自分と向き合わざるを得なかったから、多くを考え、のちの原動力を培うことができた。負のエネルギーを吸い取ってくれた時間だったような気がします。

使命感にかられ、
「学生と起業家をつなぐ」アプローチを開始

「何かを変えなければいけない」。高校3年生になる頃には、そんな思いが芽生えていた。将来の進路をあれこれ考えるなか、一つ矛先を向けたのがマスメディアである。世論を形成しているマスメディアを変えることができないか。「初めて受験戦争に乗っかる意味を見いだした」宮城氏は、受験に臨み、マスコミ就職に有利な早稲田大学に進学する。

大学生になってから、マスメディアを知るためにバイトもしたんですけど、テレビの世界なんかをのぞくと、封建的で古い体質であることがよくわかったのです。その後変わってはきましたが、少なくとも当時は、自分が正面玄関から入って好きなことを言えるような場所ではなかった。マスメディアを変えるという仮説は成り立たないと。

早々に割り切ってしまった私は、自分ができる最善のアプローチを考え、子供たちを相手に塾を始めたのです。自分の思いを個人に直接伝えることで、小さなところからでも社会を変えていけるんじゃないかって。マスメディアで考えていた空中戦から、ベタな地上戦に"逆ぶれ"した感じなんですけどね。

そんな頃、「起業家になるという生き方」に出合ったのです。第2次ベンチャーブームの時代でもありました。会社って、自分で起こせるものなんだ。決められたレールをなぞるのではなく、自分の人生は自分でつくっていいんだ――それは大変なインパクトでした。

早稲田には、演劇にはまったり、海外に出たりと好き勝手やる連中が多いのに、いざ就職を考える段になると、皆足を洗って、自分をなくすようにして窮屈な就活を始める。もったいないというか、「これでいいのか」という思いは強くあったのです。もともとやんちゃな人たちが、起業家になるという別の選択肢を知れば、すごく頑張ったり伸びるんじゃないか。なのに、誰も教えていない。「知るべきヤツがいるのに、知らされていない現状」を変えるのは自分だという、ある種使命感のようなものを持つようになっていました。

宮城氏は、仲間と共に「学生アントレプレナー連絡会議」(ETIC.の前身)という団体を立ち上げる。大学生と起業家が触れ合う機会を設け、就職とは別の選択肢、生き方があることに気づいてもらうための活動に尽力するようになった。

当時から有名だったカルチュア・コンビニエンス・クラブの増田宗昭社長や、孫正義さんらも手弁当で駆けつけてくれました。起業家って、あらゆる人生の選択肢のなかから、どこにも依存せず、自分で仕事や道をつくることを選んだ人たちで、究極に能動的な生き方をしているわけです。そういう人たちの話を直接聞くと、学生たちの目が輝くんですよ。

実は学生だけでなく、話をする起業家の目も輝く。今でこそ、勉強会やセミナーはあちこちでありますが、当時は、彼らにとっても学生に人生を伝える機会などなかったですから。だから忙しくても時間を割き、熱く語ってくださった。そして、きっと本人も楽しかったのでしょう。次から次へと起業家を紹介してくれて、数珠つなぎに活動が広がり、年間50~60回の勉強会を開催していました。

持ち出しの運営でしたけど、儲かる・儲からない、仕事にする・しないという発想はありませんでした。「話したい人と聞きたい人をつなげられる自分がいる」、そんな感覚です。いきなり社会を変えられるとは思っていなかったけれど、ただ、マスメディアでの空中戦や塾で子供に教えるのとは違ったアプローチに出合い、そのツールを手にした面白みは確かに感じていました。

社会的なインパクト、
価値の創出を第一義に

活動規模が大きくなるのに、時間はかからなかった。従前に例のない活動ということでメディアに取り上げられ、行政からも支援を得られるようになった。例えば95年、経済産業省と協働で開催した全国横断セミナーや、起業家精神を啓蒙するイベントでは、延べ5000名以上の学生を動員している。

数年のうちにすごく忙しくなって、気がついたら、自分の就活時期は終わっていました(笑)。仲間たちとサークルのようにやっていたので、いずれ代替わりがあって、活動は引き継がれていくと考えていたのですが......。もともと起業家を目指しているとか、「自分でやりたい人たち」の集まりなので、これも気づけば、バトンを渡す相手がいなかった。なら、このままやるかと。役割として、お節介な私の性に合っていると思ったのです。

その時の自分が持っていた可能性と力を掛け合わせれば、企業に就職するより、また塾経営を続けるより、このポジションにいたほうが社会に与えるインパクトは大きい。そんな手応えも得ていました。

というのは、自分たちの利益を追求するのではなく、社会へのインパクトを最大化することを前提に動けば、意外に世の中のほうが動く、つまりレバレッジが効くということを知ったからです。当時はNPOという言葉もなかったけれど、志を立て、ニュートラルな姿勢で働きかければ、お金も人脈もない20代の若造にだって起業家たちは無償で協力してくれるし、メディアや行政も支援してくれる。NPO的なスタンスで仕事をする面白みに気づいてしまったのです。何を得られるかはわからないけれど、最大のインパクトを追求した先には、最大の可能性があるだろう。そんな感覚で選んだのが、この道です。

事務局機能の拡大に伴って名称をETIC.に統一し、2000年には、NPO法人の認証を取得。かつての学生団体は"社会の器"として機能し始めた。ただ、宮城氏は形態にこだわっているわけではない。常に意識にあるのは、「世の中に最大のインパクトを生み出す手法は何か」であり、それが現在、NPOというかたちと合致しているのである。

我々がやっていることは、人材の育成ではなくアシストです。だから、ビジネス社会に存在するような様々な思惑を限りなくゼロにした状態でいたいのです。例えば、ベンチャーキャピタルが企業に投資をすれば、当然、一定期間で成果を求め、利益回収したいじゃないですか。そうなると、向き合う企業や起業家にバイアスがかかる。それは望むかたちではありません。思惑ゼロと仕事を両立させるのは難しいですが、NPOなら、スポンサーの利益より、社会的なインパクトや価値の創出、人が最大に成長することを第一義とするスタンスを貫きやすいのです。

むしろ我々は、起業家側に立つべきだと考えています。促成栽培的に事業を育てる必要はないし、もし、メディアや投資家が過度な期待をして、不必要な加速を求める場面が訪れたら、そこから守らなければいけない。

何の思惑も持たず、ニュートラルに、ありのままの姿で向き合うということ。だからこそ、意欲ある若者たちも耳を傾けてくれるのです。我々を支援してくれる起業家のなかには、目先の利益にかまけてダークサイドに落ちそうになった時、「ETIC.に来ると自分に立ち返ることができる」と言う人もいます。「あなたのままでいい、本来やりたいことをやればいい」と向き合える関係って、実はそう多くないですからね。いわく言い難い信頼感というか、本当の意味での影響力は、そういうところから生まれるかもしれないと思うんですよ。

起業家精神に火を灯す活動を
続けていく

ETIC.の主たる活動は、20代、30代を対象にした長期実践型のインターンシップで、若者が「社会をつくる現場」に挑むチャンスを提供してきた。それらプログラムはベンチャーだけでなく、ソーシャルビジネスや地域活性、そして東北の震災復興現場へと拡大され、20年間で、参加者総数は約7000名となった。

最初に始めたアントレプレナー・インターンシップ・プログラムでいえば、2700人以上が参加し、卒業生150 人が起業。ほかにも様々な起業支援のプログラムなどから、社会問題の解決に先陣を切る社会起業家や、震災復興リーダーが毎年50名以上生まれ、挑戦を始めています。

我々は20年間、「社会を少しでもよくしたい」という若者を、変革や創造の現場にひたすらつなげてきましたが、社会変化のスピードを考えれば、まだまだ足りていません。ゴールはないかもしれないけれど、今後も、いろんな場所で起業家精神に火を灯す活動を続けていくことが使命だと考えています。

私たちが考えるアントレプレナーシップとは、かたちとして独立する、起業するということに限りません。形成したいのは、社会の課題やニーズに対して当事者意識を持ち、新たなビジネスや仕組みなどの価値創造に挑む「マインド」です。ビジネスパーソンであっても行政の職員であっても、起業家精神のもとに能動的な生き方を選択する――そういう人材が増えれば、課題が自律的に解決されていく社会、地域が実現すると思うのです。

宮城氏が語ってきたように、物質的に豊かになった社会は一方で複雑化し、もう「幸せになる道」を社会が教えてくれるわけではない。自分で見つける力が求められている。教育者としての視点も持つ宮城氏は、今なお続く従来型の教育に警鐘を鳴らす。

欧米に追いつけ追い越せとか、戦後の復興のなかで、とにかく走り続けないと「食えない」ということを前提につくられた教育シテスム。その規格大量生産的なシステムは、もはや機能しない時代です。豊かな時代を生きている人たちは、「別にそこまで頑張らなくてもいい」と思っている。なのに、相変わらず物質的な豊かさを求める教育がメインです。最も大切な、何のために働くのか、どう生きるのかを、学校教育のなかで伝えていかなければいけないと思いますね。

ただ一方で、放っておいても子供たちのほうが進化してしまう気もするのです。インターネットが、社会の変化をアシストする意味において重要な機能を果たしているし、大人が考えている以上に、子供たちは早く気づき、自分で道を見いだしていくのではないかと。

これからは、個人に選択を委ね、それを認めていくアプローチが大切になってきます。そして、それぞれが自由に意思決定して、行動し、ポジティブに未来をつくる人たちが増えれば、素敵じゃないですか。その結果、最大のスピードで進化が起こり、その総和で「よい社会」が創られる。結局のところ、私は、そういう人の本来持つ力が花開く場面に出くわすことが好きなんですよ。その感覚が、今の仕事に辿り着かせてくれたのでしょうね、きっと。

TEXT=内田丘子 PHOTO=刑部友康

プロフィール

宮城治男
NPO法人ETIC. 代表理事
1972年徳島県生まれ。93年、早稲田大学在学中に、学生起業家の全国ネットワーク「ETIC.学生アントレプレナー連絡会議」を創設。2000年にNPO法人化、代表理事に就任。01年ETIC.ソーシャルベンチャーセンターを設立し、社会起業家育成のための支援をスタート。02年より日本初のソーシャルベンチャー向けビジネスプランコンテスト「STYLE」を開催するなど、社会起業家の育成、輩出にも取り組む。04年からは、地域における人材育成支援のチャレンジ・コミュニティ・プロジェクトを開始、50地域に展開を広げる11年、世界経済フォーラム「ヤング・グローバル・リーダー」に選出。