インタビュー 『社会リーダー』の軌跡出雲充氏 株式会社ユーグレナ 代表取締役社長

小学校の理科で習った「ミドリムシ(学名:ユーグレナ)」を覚えているだろうか? 藻の一種であり、体長わずか0.05ミリ。顕微鏡でやっと見える小さな存在ながら、豊富な栄養素や油分を含み、健康食品やバイオ燃料として活用できる。出雲充氏はミドリムシの持つ可能性にいち早く着目して2005年にユーグレナを設立し、同年12月、それまで困難とされていたミドリムシの屋外大量培養に世界で初めて成功。2012年に東証マザーズに上場し、2014年には東証一部へ市場変更。現在はミドリムシを使ったサプリメントや食品、化粧品などの製造販売を事業の柱とするほか、航空機向けバイオ燃料の研究開発にも力を入れ、国内外の大企業との業務提携も相次いでいる。

ミドリムシを好きになるのに
合理的な理由なんてなかった

全力で「ミドリムシ推し」なのだ。東京・飯田橋(※)のオフィスビルの一角にあるユーグレナ本社の扉を開けると、フラスコで培養中のミドリムシが目に飛び込んでくる。受付は、タッチモニターのミドリムシクイズに答えて訪問先の社員を呼び出す仕組み。内装にもロゴにもミドリムシカラーがあしらわれ、現れた出雲氏のネクタイやスーツの袖のボタンホールまで緑。奇をてらっているわけではない。そこには大学時代からミドリムシの可能性を信じ、25歳で設立したユーグレナ社をさまざまな困難を経て軌道に乗せた出雲氏のミドリムシへの情熱がほとばしるように表れている。出雲氏はいかにしてミドリムシに出会い、なぜそこまで惚れ込んだのだろうか。
※2015年3月に田町に移転。

なぜミドリムシを好きになったのか。それは私にも謎です。恋愛や結婚の相手を、「この人をなぜ好きになったのか」と合理的な理由を考えたりはしませんよね。それと同じで、科学的なアプローチではないんです。

もともとは、国連に就職して世界の貧困や飢餓を解決する仕事がしたいと考えていました。都心から1時間ほどの多摩ニュータウンで生まれ育ち、会社員の父、専業主婦の母、弟1人の4人家族。一般的な日本の家庭で生活を送り、周りも似たような家庭が多かったせいか、将来は会社員か公務員の二択だとなんとなく思い込んでいました。海外への漠然とした憧れがあったので、公務員になるなら、国連本部で働きたいと夢を描いていたんです。

東京大学文科三類に進学したのも、国連の職員に東大文三出身者が多いと聞いたのが大きな理由です。ところが、大学1年生の夏に訪れたバングラデシュで見た光景が進路を考え直すきっかけになりました。それまで僕は、途上国の貧しい人々は、空腹で苦しんでいると思っていましたが、実際には、バングラデシュには炭水化物は山ほどあるんです。ただ、ほかの食物がないためにそれ以外のあらゆる栄養素が不足していて、国連もその問題を解決できていませんでした。そんな現実を目に当たりにして、途上国の貧困や栄養失調をなくしたいなら、国連に就職するよりも栄養の問題に取り組む方が根本的な問題の解決につながるのではないかと考えるようになりました。

そのときに僕が思い描いたのは、漫画『ドラゴンボール』に登場する「仙豆(せんず)」。ひと粒で10日間飢えをしのげて、疲れやけがも一瞬で回復するという架空の豆です。「仙豆」のような豊富な栄養素を含む食材を見つければ、世界の栄養失調に苦しむ人々がいなくなるのにという思いが募り、まずは農業や栄養素について勉強しなければと大学3年生の時に農学部に転部。「仙豆」を求めて栄養素の豊富な食材を調べ、周囲にも相談しましたが、手がかりはなかなか見つかりませんでした。

唯一わかったのは、「人間が生きていくには、動物性と植物性の栄養素の両方をバランスよく摂ることが重要」という当たり前のこと。両方を兼ねそなえる食材なんて存在しないのではと思いかけていたころ、当時、サークルの後輩だった鈴木(健吾氏、現・ユーグレナ社取締役)が、「ミドリムシなら目指すものに近いんじゃないですか。植物と動物の間の生き物ですから」と言ったんです。理系に所属していた鈴木にとっては何気ない言葉でしたが、僕には大発見でした。

さらに過去の研究論文を調べてみると、驚きました。ミドリムシは豊富な栄養素を含むだけでなく、油分を多く含んで燃料としても利用でき、さらには光合成で二酸化炭素を吸収するため環境問題の解決にも活用できるというのです。「これこそが僕が探し求めていた仙豆だ!」とミドリムシについて知れば知るほど気持ちが高まりました。一方、「ミドリムシの魅力は昔から知られているものの、屋外での大量培養が非常に難しく、世界中で研究が頓挫している」という事実も知りました。にもかかわらず、まさに恋愛のようなものだったんでしょうね。「何とかして、ミドリムシを世に出したい。10年、20年頑張れば、できるはずだ」と信じて疑いませんでした。

大手銀行での1年間は
学びの宝庫だった

大学卒業後は東京三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に就職。1年で退職し、2005年8月に「ユーグレナ社」を設立した。銀行に就職した大きな理由はふたつ。ひとつは、資金調達について学ぶなどの起業の準備ができると考えたから。もうひとつは、大学を卒業する時点ではミドリムシの大量培養の目処はまったく立っておらず、「いきなり起業する度胸がなかったから」だと、出雲氏は著書『僕はミドリムシで世界を救うことに決めました。』で明かしている。「官僚になるか、大企業に就職するかといったいわゆる"東大卒エリート"のコースから外れる勇気がなかった」と。

「自分にはミドリムシしかない」と口では言いながら、どこかでミドリムシのことを信じきれず、起業は先のことだと思っていました。でも、それでは何も動かないんですよね。銀行在職中は休日に全国の研究者を訪ね、ミドリムシについて教えを請いましたが、ある先生がこうおっしゃったんです。「出雲君はミドリムシについてよく研究しているけれど、銀行員だからね」と。何のリスクも取らない自分が「ミドリムシを世に出したい」と言っても、思いは伝わらないんだと気づかされ、何の目処もないまま1年で銀行を辞めました。すると、思いがけないことに、学会でリーダー的な存在の先生が、「若い人たちが、僕たちのできなかったことをやろうとしているのだから、協力してやってくれないか」と声をかけてくれて。それで研究が一気に進んだこともあって、起業したその年に大量培養に成功したんです。

1年で銀行を辞めた理由は、銀行の仕事に真剣に取り組む人たちに出会い、中途半端な気持ちで業務に臨むわけにはいかないと感じたからでもあります。職場の居心地の良さから、このまま銀行で働き続けるのもいいなと思いました。そのくらい好きな職場でしたし、1年という短い期間でしたが、学ばせてもらうことばかりでした。

学生時代の私は何も知らず、膨大なマニュアルに従って行なわれる銀行の仕事というのは、非効率な業務が多いものだと思い込んでいたんですね。だから、自分の斬新な視点で銀行のマニュアルや制度の非効率なところを指摘し、どんどん改善してやろうと入行前は意気込んでいたんです。ところが、実際に銀行で働いてみて、自分がいかに驕っていたかを思い知らされました。結論からいえば、職場の業務に無駄なものはひとつもなかったんです。「これは無駄な仕事なんじゃないか」と思っても、現場で業務に携われば携わるほど、無駄どころか、逆に無駄が削ぎ落とされた結果としてこういうマニュアルに落ち着いたんだと腑に落ちました。そこにはたくさんの人の仕事の跡があって、非常によくできたシステムだと思いました。

今のユーグレナ社がもし、ビジネスプロセスの部分で慎重にうまくいっているところがあるとしたら、それは私が銀行で学ばせてもらったことを全部移植したからにほかなりません。そうでなければ、東証一部に上場というところまでは来られなかったし、その先に社会の公器たる企業になりたいというビジョンも描けませんでした。上場のための「何でここまで」と言いたくなるような細かい条件や手続きをクリアできたのも、企業というのは社会の中でどれほど責任のある存在なのかということを銀行で体感したからだと思います。人はなかなか、見たことのないものを目指そうとはしません。だから、どこで、どんな人たちと出会うのか、環境というのは大変重要ではないでしょうか。

あきらめなければ、
手伝ってくれる人は必ず現れる

起業したその年にミドリムシの屋外大量培養に成功。「大量培養さえクリアすれば、大きな可能性を持つミドリムシのこと。あとは黙っていても引く手あまただろう」と胸を躍らせた。だが、事業化しようとしていた矢先、起業時に出資を受けていたライブドアで不祥事が起き、それまで商談が進んでいた会社から交渉を絶たれた。それからは約500社に営業をかけたが、断られ続けたという。転機は、ライブドア事件から約2年半が過ぎた2008年5月。1年かけて交渉してきた伊藤忠商事からの出資が決まったのをきっかけに新日石(現・JX日鋼日石エネルギー)、全日空といった日本を代表する企業との提携が相次いだことで経営が軌道にのり、2012年には東証マザーズ上場を果たした。

「会社がどん底の状況にあったときに、なぜやめようと思わなかったのか」とよく聞かれます。「もうダメだ」と思ったことは何度もありますが、やめるにやめられなかったんですよ。ミドリムシに問題があって世の中からそっぽを向かれるなら、仕方ないかもしれません。でも、ミドリムシには何の非もないのに、僕らがミドリムシを見捨てていいのかと思ったんです。

それに、ここであきらめたら、長年のミドリムシ研究の成果を僕たちに託してくれた先生方や、会社の仲間たちに合わせる顔がありません。とてもひとり暮らしはできないような給料で地道に研究を続け、かつては夢物語だったミドリムシの屋外大量培養を実現してくれた鈴木や、もうひとりの創業メンバーでマーケティング担当の福本拓元にも申し訳なさすぎると思いました。やはり何としてもミドリムシを世に出し、みんなで喜びを分かち合いたい。その気持ちだけで踏ん張りました。

海のものとも山のものともつかないミドリムシの会社に、伊藤忠商事が出資をしてくれたのは奇跡だと私は思っていますが、奇跡が起きたのは、仲間や応援してくれる人たちの励ましがあったからです。美談でも何でもなく事実として、私ひとりでは何もできませんでした。起業だってしようと思っていたわけではありません。ミドリムシに出会って、その可能性を世の中に知ってもらいたいと思ったけれど、私は鈴木のように優秀な研究者でもなく、福本のような営業力もなく、できることといえば経営しかなかったのです。

経営者として、僕は自分がリーダーに向いていないことをよくわかっていました。中学、高校をともに過ごした親友が自然と人をひきつけ、周りを巻き込んで物事を実行していく人物で、すごいなあと思う反面、彼のようにはなれないとコンプレックスを抱いていました。経営をする立場になって、唯一のよりどころになったのは、大学時代に尊敬していた先輩の言葉。私が所属していた学生ビジネスコンテストを主催するサークルのリーダーで、周囲の信頼の大変厚い人でした。その彼が、「出雲くんが将来、何かをやりたくて、ほかの人に助けてもらいたいなら、まずは自分が誰かを手伝ってみるといいよ。そうすれば、自然とみんなが助けてくれるから」と。つまり、リーダーとは必ずしも人をぐいぐい引っ張っていく人ではなく、ほかの人を応援して支える人だということです。私の理想のリーダー像は、常に彼の教えの中にあります。

ただ、私が十分に人を支えられているかというとやはり自信はなく、むしろ支えられてここまで来られました。なぜたくさんの人たちが支えてくれたのかというと、私自身をではなく、「ミドリムシが地球を救う」というアイデアを手助けするためにそれぞれの役割を果たしてくれたのだと思います。

最近は少しずつミドリムシが世の中に知られるようになってきました。「ミドリムシなんて」と言われ続けた時期を思うと、本当にありがたいし、うれしく思います。だって、今だから言えますが、やはり先が見えないというのは不安じゃないですか。生活できなかったらどうしよう、って。でも、あきらめなければ、手伝ってくれる人は現れる。社会に対する信頼値は、以前と比べて格段に高くなりました。日本の社会は失敗に対して寛容とは言えないけれど、少なくとも死ぬことはない。そんな国にいて、文句があるからやらないという選択肢を今の私はまったく排除しています。ミドリムシの力はまだまだこんなものではありませんから、私たちがやるべきこと、やりたいことは次から次へと出てきますが、絶対に実現できると思っています。

まずはやってみれば?
見守る人の存在が、若い人を伸ばす

出雲氏はリブセンスの村上太一氏やマザーハウスの山口絵里子氏、認定NPO法人フローレンスの駒崎弘樹氏といった同世代の起業家とも親交があり、自分たちの特徴は、「社会に対してネガティブな思いを持っておらず、純粋に面白いことをして、周りを喜ばせたいという気持ちが強いところ」だと分析する。

時代背景の影響だと思います。私たちより上の世代の経営者は大なり小なり貧しい時代の日本を知っていて、ハングリー精神を持った人が多い気がします。「もっといい暮らしをしたい」とか、「社会の不条理を何とかしたい」というすごい熱の固まりのようなものがあって、寝ないで一生懸命働き、ものすごいことを成し遂げる。彼らに比べると、私たちの起業の動機は強いものではありません。

私にしたって、悲壮な覚悟で世界の貧困や飢餓をなくしたいと思ったわけではないのです。
ミドリムシで貧困や飢餓が解決できれば、元気に成人して社会に羽ばたいていく途上国の子どもたちが今よりももっと増え、その中でものすごい才能を発揮する人材も出てくるかもしれない。そうなったら楽しいなというくらいの、言ってみれば「カジュアルな」動機なんです。上の世代に比べて苦労知らずの面もあるのかもしれませんが、その分素直なので、心の底から「人に喜んでもらえるのが楽しい」と思えるのが強みです。

私は1980年生まれですが、80年代以降に生まれて大人になった人たちは経済がシュリンクしていく日本しか知りません。経済が右肩上がりで、社会全体が豊かになっていく時代なら、流れに乗ってほかの人と同じことをしていても、そこで頑張れば成果が出せます。でも、人口が減り、経済がシュリンクしていく社会では、ほかの人と同じことをしていては、みんなと同じように少しずつ縮んでいきます。そういう社会で面白いことをしたいなと思ったら、リスクを取ってほかの人と違う、自分だけのストーリーを編まなければいけません。「自分だけのストーリーを編む」というのは、「ここで勝負する」という分野を決めてそこで抜きん出るということです。私がこのことに気づき、言葉にして説明できるようになったのはつい最近のことですが、私が編んだのはミドリムシと一緒に「人と地球を健康にする」というストーリーでした。

自分だけのストーリーを編める人なんて限られていると考える人もいますが、そんなことはありません。可能性があるのに人が気づいていない分野を見つけて、一番になるまであきらめなければ、誰だって自分だけのストーリーを編めます。まずはやってみて、失敗したら、別の角度からまたやってみればいいのです。できないのは、「そんなことをしても意味がないよ」「くだらないから、時間の無駄だよ」という周囲の言葉に、「やってみよう」という気持ちをつぶされてしまうからなのではないでしょうか。

しかし、出雲氏の気持ちは、消えることはなかった。ミドリムシに対する愛着、国連で働くことへの憧憬……そうした想いは、つぶされることなく育まれていった。それは、身近な大人に「まずはやってみれば?」と見守ってくれる人が少数ながらいたからだという。

そのひとりは母です。私が子どものころに多摩ニュータウンの沼でザリガニ取りに夢中になって服を汚して帰っても叱りませんでしたし、「勉強をしなさい」と言われた記憶もありません。あまりに何も言わないので、一抹の不安を感じて「宿題くらいはやらなきゃまずいだろう」と自分から勉強をせざるを得なかったくらいです。中学、高校時代を駒場東邦という男子校で過ごしたこともよかったと思います。男子校ならではの環境で、面白いことをしようとする人をみんなで盛り上げて楽しむ校風がありました。当時の先生もよく印象に残っていて、私がパソコン研究会を立ち上げたり、いきなり「国連に行きたい」と言い出したときも否定するようなことはひと言も言いませんでした。

若い人が突拍子もなく「何かをやりたい」と言ったときに、たいていの大人たちは何か口を出します。僕ももし、高校2年生で国連に興味を持ったときに、「あなたね、国連というのはどうすれば入れて、実際に何をやっているのか知ってるの?知りもしないで、国連を目指してどうするの?」と大人たちに寄ってたかって言われたら、あきらめていたかもしれません。そんなことになっていたら、東大に入ることも、バングラデシュに行くことも、ミドリムシに出会うこともなかったでしょう。「大人たちがちょっと口出ししたくらいであきらめるようではダメだ」と言う人もいるかもしれません。でも、何も知らない高校生の動機なんて、吹けば飛ぶようなか弱いものなんですよ。そのか弱い動機も経験を重ねることで強固になっていくかもしれないのに、大人がその可能性をつぶすということが、皮肉なことに善意から行われることが多いと思うんです。

ありがたいことに、ミドリムシのおかげで私も「新しいことにチャレンジしている人」として次世代育成のための場に呼んでいただくことがあります。国民生活金融公庫の高校生ビジネスコンテストの審査員や文部科学省の出前授業プログラムといった場で全国の若い人たちと接するのですが、元気があって、面白いことを考えている子が日本にはたくさんいます。この間、沖縄の高校を訪れたときも、ひとりの生徒さんが話しかけてきて、その子が沖縄中で集めた海藻やきのこを見せてくれたんですよ。きのことか海藻にはβグルカンという多糖類が多く含まれていて、免疫力を高めたり、抗がん作用もあると言われて医学的にも大きな可能性を持っているんです。その子は多糖類にすごく興味を持っていて、自分なりに研究しているのに、先生や親には「きのこやもずくを拾っているだけでは受験で大変な目にあうから、それよりも英語を勉強しなさい」と言われてしまう。でも、「ミドリムシの人ならわかってくれる」と思って、「どうすればいいですか?」と私のところに相談に来てくれたわけです。

「ミドリムシなんて」と言われ続けた私なら、どんなことをやりたいと言っても否定しないということが、高校生にも直感的にわかるんですね。若い人たちの力を伸ばして、日本がもっと元気になるために必要なのは、「くだらないものなんて、ない」とひとりでも多くの人が気づくことだと思うんです。大人には自分の生まれ育った時代の「成功の法則」が染み付いているので、なかなかそれを捨てることは難しいんですけど、芽が出た瞬間に摘み取られるアイデアがあまりに多いことが私には残念でなりません。何かをやろうとしている若い人に出会ったら、ミドリムシのことを思い出してほしい。「ミドリムシだって世の中の役に立つんだから、この子のやっていることもいつかは日の目を見るかもしれない」と考えてくれる大人がひとりでも増えたら、ミドリムシも私も本望です。

プロフィール

出雲充
株式会社ユーグレナ 代表取締役社長
1980年広島県生まれ、東京都・多摩ニュータウンで育つ。1998年東京大学文科三類入学、3年進学時に農学部に転部。在学中に「アジア太平洋学生起業家会議」の日本代表を務め、2002年同大学卒業後、東京三菱銀行に入行。退職後に米国バブソン大学「プライス・バブソンプログラム」修了、経済産業省・米国商務省「平沼エヴァンズイニシアティブ訪米ミッション」委員を務め、2005年株式会社ユーグレナを創業して代表取締役に就任。2012年、中小企業基盤整備機構Japan Venture Awards 2012「経済産業大臣賞」受賞、世界経済フォーラム(通称:ダボス会議)Young Global Leaders 2012に選出される。2015年、第1回日本ベンチャー大賞「内閣総理大臣賞」受賞。著書に『僕はミドリムシで世界を救うことに決めました。』がある。

TEXT=泉彩子 PHOTO=鈴木慶子