インタビュー 『社会リーダー』の軌跡御手洗瑞子氏 株式会社気仙沼ニッティング 代表取締役

東日本大震災の被災地に住む編み手が作ったセーターを販売する、気仙沼ニッティング。1着7万円超という高価格帯ながら申込み殺到の人気を呼んでいる。代表取締役の御手洗瑞子氏は、ブータン政府で初代首相フェローの経験も持つ。周囲が驚くような遠隔の地に単身乗り込み、住民たちと一緒に地域の活性化を進める御手洗氏を動かすのは、いったいどんな思いなのだろうか。

困窮する隣人を助ける
思いは誰でも持っている

被災地に新しい産業を創出することを目指す気仙沼ニッティング。ブータンの初代首相フェローにせよ同社の経営にせよ、それに取り組む動機は、まず「隣に困っている人がいたら助けようという、誰でも持っているような思い」だと、御手洗氏は語る。

自分としては「社会リーダー」といわれても実感がなく、「はあ、そうですか」という感覚です。自分で自分を「社会リーダー」だとは位置づけていませんし。誰か困っている人が隣にいるなら力になりたいという思いは、多かれ少なかれ、どの人の中にもあるのではないでしょうか。

私はたまたま動ける立場にいたこともあって、2012年6月に創業した気仙沼ニッティングの経営に携わっています。でも、たとえば小さな子を育てている状況だったなら、同じような気持ちを持っていても起業に踏み切るのはなかなか難しいかもしれない。また1度も転職経験がなくて、1つの会社で定年まで勤めるのが当たり前という職場にいたなら、会社を辞めるハードルは高いでしょう。もしくは専門性が非常に高い職業で、たとえば自動車会社でトランスミッションの開発をしているエンジニアの人は、震災が起こって何かしたいと考えても、自分のできることで本業を活かせることを探すのは大変だったかもしれません。

みんなそれぞれ事情がありますから、何か誰かの力になりたいと思ったときに、その意思の発露の仕方も、人それぞれでしょう。でも、「隣で転んでいる人がいたら、ちょっと手を差し伸べる」という思いは、どの人の中にでもあるものではないでしょうか。

もう1つ、「その仕事が自分にとって意味があり、面白いかどうか」が自分を動かしているという。気仙沼ニッティングに関して言えば、被災地での新しい産業の具体例を創出することや、人件費の高い国がこれからどうやって仕事を創るのかといったことに、御手洗氏は意味と面白さを見いだしていると話す。

高校生のころ、各国の若者が集まるフィリピンでのカンファレンスに出席しました。フィリピン人でそういう場に出席する子はとてもお金持ちだったりするのですが、会場の隣のスラムでは同年代の子が大変な暮らしをしている。高校生だった私は、この状況には違和感を持ちましたし、「どうにかできないものだろうか」と思いました。いまでも私は、立場が低くなっている地域が自立していくための仕事には、意味ややりがいを感じています。

2010年9月から1年間、ブータン政府で初代の首相フェローを務めました。ブータンの人々が経済的に自立していくことに貢献する仕事は、自分にとって非常に意味があると感じて、オファーを受けることにしたのです。

ブータン政府からは当初、「経済的に自立するための産業育成の仕事をしてほしい」とは言われていたものの、具体的にどんな仕事をするのかはまったく決まっていませんでした。政府の第10次5カ年計画の進捗などを見て、「1年間、自分の時間を観光産業の育成に使うのがもっとも有効だと思います」と大臣や長官に話し、具体的な職務内容を決めることから始めました。ブータンの産業の柱は、水力発電と観光産業と位置づけられていましたが、観光産業において観光客をどう増やしていくかについては具体的な策がほとんどない状態でした。そこで、ブータンへの観光で問題となっていることを観光客や旅行会社などにヒアリングし、課題を洗い出して整理し、ブータンの同僚たちと一緒に解決策を考え、実行しました。たとえばブータンへのアクセスを改善するため、航空会社のフライトスケジュールを変更しました。航空会社と政府の観光局が一丸となって進めたおかげで、観光客の方にとってはずいぶん便利になりました。

気仙沼ニッティングについては、自分にとって2つの「取り組む意味」があります。まず1つ目は、「被災地に、こういう会社が出てくるといい」と具体例を示すことです。「ただ復旧ではだめだ。新しい産業を興さなければいけない」と抽象論を言うのは簡単ですが、具体的にそれがどういうものかという事例がなければ、永遠に抽象的な議論が続いてしまいます。「たとえば、こういうことです」と1つ例があれば、考えも具体的になりますし、その例を自分の事業に活かしていく人も出てくるかもしれない。そういうロールモデルになるような会社を創出することができれば、被災した地域にとって意味がある。それは取り組む自分にとってもわくわくする仕事です。

もう1つ考えていたのは、日本全体や先進国に関することです。人件費の高い国が、これからどうやって仕事を創っていくのかは個人的にとても興味があるテーマでした。それはこれから世界の大きな課題になるとも思っています。経済のグローバル化が進むなか、人件費の安さからある国が1度生産の拠点になっても、経済が発展してある程度生活水準が上がると賃金水準も上がり、人件費の安い別の国へと生産拠点は移っていきます。その国の賃金水準が上がれば、また別の国に移るといったことが起こっているのです。ですから、日本のように生活水準が高くなってしまった国で仕事を創るには何が求められるのかということは、経済成長を果たした国に共通する、大きな課題になっていくのではないでしょうか。

私は、「これが実現できたらすごい、意味がある」と思うことができ、取り組む自分がわくわくする仕事を選ぶようにしています。「わくわくする」の中には「それが実現すれば世の役に立つ」という思いは入っていますが、世のためにという義務感で動いているわけではなく、それが自分にとってはエキサイティングな仕事だから動いている。やはり、義務感だけでは続かないと思うのです。「わくわくする」という感覚を、私は大切にしています。

行った先には、そこの価値観がある
それを自然に受け入れている

「マッキンゼーでバリバリだったあなたが、気仙沼で働いているのは想像がつかない」という大学時代の友人に、御手洗氏は、「マッキンゼーの人も、気仙沼の人も一緒だよ」と返した。マッキンゼーの同僚と話すときも、ブータンの人と話すときも、気仙沼の人と話すときも、御手洗氏はいつも同じスタンスだからだ。

ある時、大学時代の友人と話をすることがありました。学生時代から地域の活性化に取り組むのが好きで、いろいろな地域を回っていた友人です。その人に、「たまちゃんが気仙沼ニッティングのような仕事をするとは思わなかった」と言われました。「大学でもすごいキレキレで、マッキンゼーに行ってバリバリやっているイメージなのに、そんなたまちゃんが田舎のおばちゃんのコミュニケーションに合わせてやっているのが、全然想像つかない」という印象を伝えられて、最初、ぽかんとしました。私はその大学の友人と話すのも、マッキンゼーの同僚と話すのも、ブータンの人と話すのも、気仙沼の人と話すのも、いつも同じだと思っていたので、「おんなじだよ」と返しました。

ブータンに行く前と、ブータンから帰国して気仙沼に行く前にはマッキンゼーで働いていました。ブータンに行く前には、応援してくれる同僚がほとんどでしたが、「ブータンなんて小さい国に行くのではなく、MBAでも取ってグローバルにネットワークをつくった方がいいのでは」と言う上司もいました。2度目のマッキンゼー勤務のときは、「もう少し働いたら次の昇進なのに、これで辞めてしまうのはもったいない」とも言われることがありました。それらは、マッキンゼーの中の価値観に基づいた考えなのだと思います。

でも、ブータンに行けばそこにはそこの価値観があり、仲間がいて、友だちもいる。気仙沼にもそこの価値観があり、仲間がいます。彼らにとっては、マッキンゼーのアソシエイトもマネジャーも関係ありません。ある世界を一歩出れば、そこにはまた別の価値観があるのだと思います。

ある価値観を持つ世界を一歩出れば、別の価値観を持つ世界が広がっている。そしてどんな世界に行っても、仲間や友だちをつくることはできる。こうした御手洗氏の考え方には、子ども時代に参加した、国際子どもキャンプでの経験が影響している。ただのカタカナだった外国の地名が、友達が暮らしている場所になったのだ。

小学生5年生のとき、CISVという国際ボランティア団体が開催する、ポルトガルでの子どもの国際キャンプに1カ月参加しました。私の家は兄弟が3人いて母親も働いており、夏休みに子どもの面倒を見るのは大変だとか、学校以外の世界にも触れさせたいといった理由から、例年どこかのキャンプに行かされていました。そして5年生のときに、たまたまこの国際キャンプに参加したのです。特に「国際交流が大事」といったことは意図していなかったと思います。

共通語は英語ですが、スペイン人の子はスペイン語で話しかけ、イギリス人はそれに英語で答えるといった調子です。みんなお互いに自分の言語で話して、それぞれ違う言語を使っているのに、どうにか通じてしまう。一緒に生活するうちに、何も話さないよりは、日本語であっても話した方が通じることがわかってきます。文化的に感覚の近い韓国人の子と、アジア人同士で仲よくなったりもしました。まるで異世界のように楽しい1カ月のキャンプが終わり、日本に帰ってきました。夏休み明けの2学期からは、また元の生活が始まるのですが、教室で席に座っていると、世界がとても小さくなった感じがしたのを覚えています。

キャンプから帰ってからは、海外ニュースの見方も変わりました。事件や事故の報道を見ると、「あ、友人の〇〇の国だ。大丈夫かな」と思うようになりました。たとえばスペインで山火事があったというニュースを見たら、キャンプに行く前であればスペインという国名もただのカタカナとして自分の耳には聞こえたでしょうが、キャンプ後は「あ、イサベルのいる国だ。大丈夫かな」と想像力が働くようになりました。

小学校時代のキャンプは楽しい思い出だが、中学生で参加した国際キャンプは、苦い思い出となった。キャンプミーティングの議長を務めるなかで、価値観の違う者同士でルールを話し合い、行動を起こすことの難しさを知った。

15歳で参加したキャンプで、キャンプミーティングの議長を務めたことがありました。キャンプは大荒れに荒れたのですが、その中で私は議長なので、「みんな朝起きて、こういうプログラムをやると決めたのだから、ちゃんとやろう」と呼びかけます。すると、「いや、それは日本の価値観だろう」と、コロンビアから参加した子は反対します。「Tamakoは日本から来ているからルールや時間を守ることが何より大切と考えるのかもしれない。けれど、僕たちの国では時間に正確であることがそんなに美徳だとは思われていない。それよりはみんながリラックスできる方がいいし、ここには仕事や勉強に来ているわけでもない。だから眠いやつは寝ればいいし、やりたくないやつは休めばいい。それでいいじゃないか」と。こう反論されると、それは確かに一理あると感じてしまいます。私の言ったことはただ自分の国の価値観を押し付けていることなのかもしれないと。

すると、何が正しくて何が間違いなのかということは、判断がとても難しくなります。その中で1つのルールを決めて、みんなで共同生活をしていくこと、ましてや話し合いでルールを決める議長の役割の大変さが身にしみてわかりました。結局、キャンプは荒れたまま終わりました。

あまりうまくいかなかった経験だけに、「あのときは、どうすればよかったんだろう?」と、ずっと考え続けました。考え続けていたなかで、2001年に9.11の米国同時多発テロ事件が起こりました。「これは、私がキャンプで体験したことを、ものすごく巨大化したような事件だ」と感じました。

違う価値観に気付き、想像力を働かせるには
全然違う遠い土地を訪ねる「原体験」が必要

価値観のぶつかり合いを、中学生で体験した御手洗氏。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件は、自分にとってさらに大きな出来事だったと振り返る。「価値観というものはどうやって発生するのか」ということに興味を抱き、熟考した。

私は中東のレバノンに仲のいい友だちがいて、他のアラブ諸国にも友だちがいました。一方でニューヨークにも友だちがいたので、こんな事件がきっかけとなって、もともとは仲よくなれるような人たちが憎しみ合うことになるのは、非常に悲しいことだと思いました。9.11は、私にとって非常に大きな出来事でした。ここを原点に、「価値観というものはどうやって発生するのだろうか」といったことに興味を持ち始めました。ヒントを得られそうな本や雑誌を読みあさり、言語学や認知神経科学といった分野の本を読んだり、深く考えたりしたものです。このとき一人で深く考える経験をしたことは、とてもよかったと思っています。

遠い場所や全然違う世界に行ってみるような経験をすると、違う価値観の存在に気がついたり、遠く離れた場所に住む人のことにも想像力が働くようになったりすると御手洗氏は言う。

社会リーダーとなる人に限らず、「違う価値観の人もいるよね」ということに気づくことは、ある種のリテラシーとして、重要です。みんなが何か感じる機会を持てるようになるといいと思います。実際、世の中にはいろいろな価値観があるし、そこに鈍感だと、人と人はぶつかり合って大変なことになりますから。早いうちにそのことに気づけることは重要ですが、日本はその場が極端に少ないと思います。そういう機会が増えるのは望ましいことです。

ブータンや気仙沼で働くといったことでいうなら、価値観の違いに気づくこと以上に、「そこに暮らしている人も自分と同じ人である」という想像力が働くかどうかが、さらに大事だと思います。そのような想像力を働かせるには、やはり全然違う遠くの場所に行ってみるような、原体験が必要です。世界各地に出かけて行く必要はありません。ポンと全然違う視点に立ったら、そこにも同じように人の暮らしがあったという体験が、1度でもあると違ってきます。

そういう体験があると、たとえば東日本大震災の映像を見たときに、「ここにも普通の人の暮らしがあるのだ」ということが想像できるようになります。フランスでテロがあったというときにも、フランスの人たちも同じ人であり、さぞやつらく悲しいことだろうと想像力が働く。極端に自分が所属するコミュニティのことしか知らないと、その外の世界の人が大変だということへの想像力は、やはり働きにくくなるでしょう。

被災者や障がい者という言葉も、時に人との距離をつくり、想像力を阻む言葉だと感じています。たとえばクラスの中に1人、山田さんという手の不自由な子がいたときに、「みんな山田さんを助けてあげてね」と先生が言ったならそれは自然ですが、先生が「みんな、障がいのある人には、優しくしてあげてね」と言ったなら、山田さんはちょっと嫌な思いをするでしょう。山田さんとの間に距離をつくり、彼女にレッテルを貼ることになってしまいます。被災者という言葉にも同じことを感じます。「被災者のために働きたい」という言葉は、逆に「被災した人たちは自分たちとは違う人たちだ」とレッテルを貼っているように聞こえるのです。

レッテルを貼って、自分たちとは違う人たちだと距離を置いていては、どれだけ親身に話をしても友人にはなりにくいし、「被災者のために何かをしてあげている私」であり続けます。そのような姿勢は立場の強弱をつくるため、長期的には相手のためにならないこともあるのではないでしょうか。困っている友人を助ける、という感覚の方が自然だよなと思います。

最初の年から黒字を出し、今期も黒字の見込みだという気仙沼ニッティング。30人を超す編み手と業務委託契約を結ぶ規模にまで成長してきた。現状をどう捉えているのかを聞いてみた。

芽はうまく出たので、ちゃんと育てていきたいという段階だと見ています。種をまいても、土や気候が合わず、芽が出ない場合があります。そういう意味でいえば芽は出て、双葉が出るくらいまでは育ってきました。

当社の事業構造は損益分岐点が低く、規模は小さくても利益が出やすい。逆に、売り上げが大きくなっても利益率はあまり変わらないと思っています。ですから、最初の年から利益が出たことの意味は大きいと思っています。少なくとも気仙沼ニッティングは、可能性のない種ではなかったことはわかりました。これからも水をやり、肥料を与えて育てていきたいと考えています。

TEXT=五嶋正風 PHOTO=刑部友康

プロフィール

御手洗瑞子
株式会社気仙沼ニッティング 代表取締役
1985年東京都生まれ。

2008年東京大学経済学部卒業。経営コンサルティング会社のマッキンゼー・アンド・カンパニー勤務を経て、2010年9月より1年間、ブータンで初代首相フェローを務め、主に、ブータン観光産業の育成に従事。2012年に株式会社気仙沼ニッティングの設立に参画。2013年から代表取締役。