
「辞めない理由」は見えているか?―“静かな選択”Quiet Committing を捉える
「辞めた理由は?」はもう聞き飽きた
働き方改革、副業解禁、人的資本経営ー労働市場は確実に変わりつつある。そしてその変化を映すかのように、「転職」という選択肢が一般化した。筆者が「転職市場の成立」と表現する労働市場の構造変化は2つのデータによって示される。ひとつは労働者側の認識である。いまや1000万人を超える人が「転職を希望している」(総務省,労働力調査,2024年結果)とされており、これは10年前の2014年が810万人から着実に増加している。もうひとつは、転職によって年収が上がるようになったことである。パネル調査による転職者の分析で29歳以下で年収が10%以上増加した者は42.6%、逆に10%以上減少した者は23.0%であった。この傾向は49歳以下において同様であり、40~49歳で10%以上増加した者は40.9%、10%以上減少した者は23.4%である(※1) 。転職が経済合理性を持ち、労働者の職業人生上の選択肢のひとつとなる。これを「転職市場の成立」とする。
転職が選択肢として浮上し、まず転職経験者が直面するのは「なぜ会社を辞めたのか(辞めたいのか)?」という問いである。“会社を辞めるという行為を選んだ”わけだから、転職活動をする際にも、転職を辞める会社に切り出す際にも、転職した後にも、何度も何度も聞かれることになる(筆者も転職してすでに10年近く経過するが、徐々に聞かれることは減少しているとはいえ、いまだに年に何回かは聞かれる)。
しかしここで注意すべきポイントがある。先述のように「転職した方が得をする可能性が高い」という状況が顕在化したなか、いま全く新しい問いが社会人に浮上していることを感じているだろうか。
「なぜ、あなたはその会社を辞めないのか?」である。
「辞めない理由」を上司や人事に伝えている若手社会人は18.9%
こうして言葉にしてみれば、単に「辞めた理由」の裏返しでしかないこの問いだが、驚くほどに語られていない。筆者が今回行った調査(若手社会人の在職理由定量調査)(※2) では、大企業に勤める20~30代で「辞めない理由」を上司や人事に伝えている就業者は、わずかに18.9%であった。その理由は簡単、多くの社会人の回答は「聞かれないため」だという(図表1)。「辞めない理由」を会社に伝えていない理由として最も多いのは「聞かれないから」38.0%、続いて「話す機会・場がないため」24.5%であった。(※3)
図表1 「会社を辞めない理由」は、いま働いている会社の人事や上司に直接伝えていますか。伝えていない場合には、伝えていない理由として最もあてはまるものをお答えください。(n=4322)
筆者は大手企業の経営幹部や管理職層の方々へ話す際に次のように聞くことがある。
「なぜ、あなたはこの会社を辞めないのですか?」
多くの場合、戸惑いながら(ギョッとした表情をされることもある)もこうした声が聞こえてくる。
「考えたこともなかったな」
「そう言われると、なんでだろうね」
皆様も考えてみてほしい。なぜいまの会社を辞めないのか。「辞めた理由」は転職すれば必ず聞かれるので自分の言葉になっている。しかし、「辞めない理由」は言葉にして発する機会が限定されていることから、自明ではないのだ。本人にとっても、組織にとっても自明ではないという特徴がある。
転職や離職が“異常”ではなくなったいま、「辞めない」という選択こそが、むしろ説明を要する時代になった。それにもかかわらず、私たちはこの問いを回避し続けている。もちろんこれは当たり前のことで、かつては「転職したら損をした(年収が下がった)」ために、経済的に合理性のあった「辞めない」ことに理由は必要なかったのだ。
しかし、今回の研究で明らかになってきているのは、その会社を「辞めない理由」を自覚し、言語化し、共有することが、これからの就業者のキャリア選択にとって大きな意味を持つということだ。また、それを自覚する機会や「辞めない理由」を増やし、高める取り組みを行うことが、企業の人材戦略にとって不可欠になるということだ。
「なぜ辞めないの?」という問いに、どんな応答をプロデュースできるか
若手が学生時代の同級生と久しぶりに飲みに行って会社の仕事に対する何げない不満をこぼす。その際に同級生から言われる「なぜその会社を辞めないの?」という当たり前の質問に対して、若手が“自分”と“まわり”が納得できる応答ができる瞬間がある。この瞬間をプロデュースすることが、今後の企業の人材戦略の要諦となるのではないか。
調査では、「辞めない理由」は決して単一ではないことがわかってきている。給与や福利厚生といった受動的な恩恵は多くの若手社会人が「辞めない理由」として回答している(図表2)(※4)。ただ、そうした受動的理由はあまり強い「辞めない理由」にはならないかもしれない。そうした理由を選んだ若手の会社に対するeNPS(Employee Net Promoter Score:自分が在職している会社で働くことを身近な他者におすすめできる度合いを10点満点で質問したスコア)(※5) が低い傾向にあるからだ(図表3)。また、「自分だけが経験した」「この職場でしか得られない」と感じる稀少な経験が、働く人の内なる動機を支えていることが見えてきた。「自分はこの職場のなかで、取り替えのきかない存在なのだ」という感覚も重要なのかもしれない。多くの若手が選んでいる選択率の高い「辞めない理由」を答えた回答者ほどeNPSが低い傾向が見られたためだ(図表4。近似曲線は右下がり、すなわち選択率が高い「辞めない理由」(例えば、「特に辞める理由がないから」「辞めると失うものが多いから」等)でeNPSが低い傾向)。
本分析レポートシリーズではこうした結果について分析と解説を加えていく。上記は概要に過ぎない。さらに、「ほかの職場と比べてマシだ」「まわりの友人と比べると……」といった相対化の視座も見過ごすことはできないし、もちろん、こうした各視点(受動的獲得と能動的獲得、稀少性と参照性と定義。詳しくは後続分析にて解説)には、若手社会人のなかで大きな個人差があり、どのファクターが重要かによっていくつかのグループに分けられる。
図表2 「いま働いている会社を辞めない理由」
図表3 「辞めない理由」別eNPSスコア
図表4 「辞めない理由」の選択率(横軸)とeNPSスコア(縦軸)
“沈黙の合理性”を破ることで、職場は変わる
こうした視点から見ると、これまでの若手への「離職防止策」は一面的だったかもしれない。待遇の向上、労働時間の短縮、福利厚生の充実、リモートワーク、配属先の意向確認――これらはもちろん重要だが、誰にとっても同じように提供される制度では、人はその職場に居続ける強い理由にはなりにくいのではないか。
むしろ、いま問うべきはこうだ。
「あなたのなかにある“ここで働き続けたい理由”は、ほかの誰かと比べて、どれだけユニークなものだろうか?」
「その理由を、自社の人事制度や育成体系、キャリアパスは提供できているだろうか」
「辞めない理由」を問い直すことで、組織と個人の関係は大きく変わる。一人ひとりが「なぜここにいるのか?」を語れる職場こそが、転職という選択が合理性を持ってしまった経済社会での本当のエンゲージメントを実現する。言わずもがなで辞めていない、考えたことも聞かれたこともない、そんな「辞めない理由」の「沈黙の合理性」と「理解されない職場のリアリティ」を不可触の聖域としてしまう時代は、もう終わりなのだ。
本研究は、こうした問いからスタートしている。「辞めたい人」の声ばかりが大きくなりがちななか、「辞めない人」の“静かな選択”に耳を傾ける。それはほとんど語られてこなかったし、そもそも聞かれなかったのかもしれない。しかしその“静かな選択”(Quiet Committing)こそが、組織を強くし、働く個人の納得感を支える鍵となる。「辞めない理由」を言葉にできる社会こそが、持続可能な働き方と真のキャリア自律を支えるのではないかーいま、そのスタート地点に立っているのだ。
(※1)リクルートワークス研究所,2023,なぜ転職したいのに転職しないのか,P.15 図表2-4
(※2)リクルートワークス研究所,2025,若手社会人の在職理由定量調査。コモンメソッドバイアス回避のため説明変数と被説明変数に関して時点を分けた、2時点のパネル調査として実施。第1時点のサンプルサイズは4322。2時点を通じたサンプルサイズは3000。対象は20~39歳の正規雇用者、300人以上企業就業。日本全体の当該条件の正規雇用者を母集団として性別・年齢割付けを行い回収。
(※3)回答にあたっては、この前の質問において「いま勤めている会社を辞めない理由」を聞いたうえで、「前の質問で選んだ『会社を辞めない理由』は……」と掲示している。
(※4)回答においては3つ選ぶとしたら、としている。
(※5)「現在働いている会社で働くことを、親しい友人や家族などまわりの人に勧める可能性はどの程度ありますか。0を全く勧めたくない、10を非常に勧めたいとして近いものを選択してください」と質問した回答結果。なお、複数働いている会社がある場合はメインで働いている会社について回答を得た。

古屋 星斗
2011年一橋大学大学院 社会学研究科総合社会科学専攻修了。同年、経済産業省に入省。産業人材政策、投資ファンド創設、福島の復興・避難者の生活支援、政府成長戦略策定に携わる。
2017年より現職。労働市場について分析するとともに、若年人材研究を専門とし、次世代社会のキャリア形成を研究する。一般社団法人スクール・トゥ・ワーク代表理事。