
大学教員に聞きました。「あなたの職場、仕事には、どんなブルシット・ジョブがありますか?」
デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020年)では、大学組織におけるブルシット・ジョブについても、少なからず言及されている。アカデミアの内部に身を置いていたグレーバー自身の経験が背景にあるのだろう。ここでその一例として、次の図を見ていただきたい。これは、講義概要(シラバス)の作成という場面で実際に起きていることを、やや誇張を交えて図式化したものである。
『ブルシット・ジョブ』の図6-1ならびに図6-2をもとに筆者が作成。
シラバスとは、大学における講義の内容やスケジュール、成績評価の方法など、「授業計画」が詳しく記された資料のことである。この図には、非経営管理型大学では矢印が1本しか伸びていないのに対し、経営管理型大学では8本もの矢印が伸びているという、印象的な対比が描かれている。『ブルシット・ジョブ』の訳者の一人である酒井隆史氏は、自身の著書の中で、この図について次のように説明している。
- 伝統的な大学(図中の「非経営管理型大学」)は「非効率」と見なされがちだが、実際にはシラバス作成の手順が簡素で、職員から教員への連絡だけで済むなど、意外にも効率的である。
- これに対し、「効率化」を掲げて経営改革を進めた「経営管理型大学」では、確認作業や管理チェックが増え、シラバス作成の手続きがかえって煩雑になっている。
- その結果、「経営管理型大学」では、複雑化した手続きに伴い、意味の不明な雑務や、それを処理するための新たな役職が次々に生まれ、それが「効率化」として受け入れられている。
*酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎』講談社現代新書,2021年,をもとに、筆者が整理。
なるほど、近年、大学の現場にもネオリベラリズムの風が吹き込みつつあり、以上はその文脈の中で生み出されているブルシット・ジョブと見ることもできよう。こうした理解は非常に示唆的である。しかし他方で、大学教員が抱えるブルシット・ジョブについて情報をより広く、丁寧に収集してみると、ネオリベラルな枠組みとは異なる文脈から生じるブルシット・ジョブの存在が浮かび上がってくる。
2024年夏から秋にかけて、大学教員5名へのインタビュー調査を実施した。一人あたりの所要時間は約2時間。いずれも、いわゆる伝統的な大学に所属し、教育・研究・社会貢献、さらに組織運営の面においても第一線で活躍している教授である。加えて、この5名全員が女性であることも、特筆すべき点としてここに記しておきたい。
では、この5名の女性教員が何を語ったのか。抽出された7つの「ブルシット・ジョブ」を挙げていくことにしよう。
【ブルシット・ジョブ①】会議時間を2倍にする事前レク
大学教員にも、「会議の時間」は確実に存在する。教授会、学科会議、各種委員会、ワーキンググループの会議など、様々な形で日常的に発生している。2009年4月3日付の朝日新聞朝刊には、「東大のある教授(40代男性)の2月の労働時間」の内訳が掲載されていた。記事によれば、全体の労働時間のうち会議が占める割合は実に38%にのぼる。ちなみに、教育関連は全労働時間の9%、研究時間に至ってはわずか2%にすぎなかった。
15年ほど前の記事ではあるが、筆者の実感としては、状況は今もさほど変わっていない。そして、このただでさえ多い会議時間が、さらに倍に膨れ上がっていると感じて辟易しているのが、教員Aである。
「今、学内で全学の〇〇推進室の室長と、部局の△△主任を務めています。こうした役職に就くと、会議のための『事前レク』というものが、たいてい前日や数日前に行われるんですね。主催側ということで、事務職の方が中心になって作成した資料と議題内容を、一つひとつ確認する作業が入ってくる。要するに、会議そのものの時間が実質的に2倍になるわけです。依頼を受けた時、会議数はあらかじめ確認したんですが、そこからは読み取れなかった負担が、今になって一気に押し寄せているような感じです」
教員Aによれば、学部長クラスになると、役職に就くにあたって授業負担が軽減されるが、〇〇推進室室長や△△主任クラスにそのような措置はないという。通常業務にそのまま負担が増えるだけだ。なぜ、事前レクが設定されるのか。教員Aは次のように続ける。
「わかりません。わからないし、効率化できればとは思っていますが、おそらく事務職員から見れば、やってほしいんだと思います。というより、それ自体が事務職員の仕事になっているというか、事前レク必要ありませんとなると、職員の重要な仕事の一つがなくなって、そうなってしまうと悪いかなと……。こうした事前レクは学外の会議も同じです。議題や資料の確認はある程度必要だと思いますが、毎回となると負担が大きいことは事実です」
大学という職場は、大きく「大学教員」と「事務職員」の2つの層で構成されている。そして、大学教員には大学教員の、事務職員には事務職員の仕事の論理がある。つまり、何を重視し、どのような基準で物事を進めるかが、それぞれ異なるのだ。両者の論理は必ずしも一致せず、むしろ別物と捉えたほうがよい場合もある。それでも、共に大学という組織を動かしている以上、納得はいかなくとも、一方がもう一方に歩み寄らざるを得ない場面がしばしば生じる。
「わかりません。わからないし……」という教員Aのつぶやきは、そうした摩擦のなかで生まれるモヤモヤとした違和感を、実にリアルに表している。
【ブルシット・ジョブ②】ボトムアップの代償としての会議体
冒頭で「管理」という言葉に触れたが、専門職である大学教員の中には、こうした管理的な動きに対して慎重な姿勢を取る者も少なくない。それとも関係して、大学ではトップダウン型ではなく、ボトムアップ型の意思決定を重視する傾向が根強く残っている。この点について示唆的なのが、教員Bの次の発言である。
「そうですね……。ずっと前から続いている会議で、『みんなで学部の将来について考えましょう』というものがあります。毎年テーマが変わっていて、今年は留学生について考えましょう、みたいな流れになります。年度末には必ず『まとめ』を作るんですが、それが具体的な何かにつながったことはほとんどありません。個人的には、やめたほうがいいのではないかと思っています」
なぜ、この会議は今なお続いているのか。教員Bは、その背景に「消極的なボトムアップ型」の運営体質があるのではないかと見ている。
「おそらくですが、学部長が一人で判断するのは負担が大きいし、責任も伴うので、それを避けたいという思いがあるのだと思います。だからこそ、みんなで考えるという形にして、『みんながそう言うのならやりましょう』という流れにしておくほうがやりやすい、ということなんじゃないかと……」
こうして今年もまた、誰の責任でもないまま、誰の意見でもあるような「合意」が整えられていく。教員Bはこれを「無駄」と言いきる。しかし、専門職としての自負を持ち、管理的統制には敏感に反応する大学教員たちにとっては、たとえ無駄な作業であっても、トップダウンによって決定されるプロセスを回避できたという事実そのものが、一種の「成果」として受け入れられているのかもしれない。
【ブルシット・ジョブ③】個性的なメンバーの尻拭い
どの組織にも少なからず存在することだが、大学には「個性的な人」がいる。いや、もしかすると、大学という場では、そうした人の比率がやや高いのかもしれない。そして、この「個性的な人」が引き起こす問題の後始末を、ブルシット・ジョブの一例として挙げているのが、先述の教員Bである。
「ルールとか締め切り、なぜか守らない人っていますよね。常識がないというか、急に無茶なことを言い出したりする。教員にも職員にも学生にも……。そしてこうした『無茶』が起こるたびに、なぜか私が対応することが多くて、ひどい時は私が謝罪文を書いて、相手と交渉して、何とか場を収めている……そういうことに振り回されていると、正直、何なんだろうって思ってしまいます」
この尻拭いともいえるブルシット・ジョブについては、教員Cによる次の事例も参考になろう。
「みんなで書く学術本ってあるじゃないですか。私が以前関わったある学術本……、きっと『あるある』なんでしょうが、『本当に困った人』がエディターでして。研究者としては優れているんでしょうけど、とにかく社会性がないというか、攻撃的というか。周りもかなり手を焼いていたのですが、なぜか私がその先生の担当みたいになってしまって、ペアを組まされることになったんです。Cさんなら何とかしてくれるだろうみたいな感じで……」
個性的な人がいることは大学の豊かさの証しともいえるが、その陰で、誰かが常に後始末に追われている。そしてその労が、正式な「仕事」として認識されることはほとんどない。専門性という言葉の陰に、名もなきブルシット・ジョブが積み重ねられている。
【ブルシット・ジョブ④】学会関連の業務
ただ、教員Cがブルシット・ジョブとして真っ先に挙げたのは、以上で述べた学術本関連のものではなかった。むしろ、若手のころから延々と続いている、ある学会の「雑用」のような業務だった。
「ある国際学会の事務局として、もうずいぶん前からメールチェックや会計、名簿管理などを担当しているんですね。問い合わせの対応も、全部私がやっています。もう10年近く続けていて、月曜の正午には必ずメールを確認する、という生活がずっと続いているんです。今の会長さんが、『自分の任期中に何とかしてあげたい』っておっしゃってくださってはいるのですが……」
そう言って、教員Cはため息まじりに笑った。
教員Cが、いわば雑用ともいえる学会業務を担い続けているのは、その学会の規模が小さいという事情もある。そしてもう一つ大きいのは、当該学会の事務局が、彼女の所属する大学に置かれているという点だ。要するに、彼女が引き受けてくれることが、あまりにも自然なこととして定着してしまっているのだ。
もっとも、少し逆説的な言い方になるが、学会の規模そのものは、さほど決定的な要因ではないのかもしれない。というのも、どの学会でも、会計、企画、編集、大会運営といった事務的な業務を担っているのは、それなりに研究実績を積んできた限られた層の会員たちだ。そしてその層は、思いのほか薄い。そうした人たちが、前期は会計、今期は編集……と、ほとんど絶え間なく仕事を割り振られていく。
加えて見逃せないのは、大学教員が所属する学会の数が、決して少なくないという事実だ。分野によっては、10以上の学会に加入しているのが「普通」とされる場合すらある。実際、教員Dは10を超える学会に所属していると言っていた。そのうち複数の学会から、次々と役割が回ってくるとなれば――それだけで、相当な労力と時間が奪われる。今や学会業務のジャグリング状態に陥っている教員も、少なくないのではないか。
【ブルシット・ジョブ⑤】終わりの見えない日程調整
他方、教員Dは、また異なる側面のブルシット・ジョブの存在も指摘している。
大学教員の仕事は多岐にわたる。授業、大学院生をはじめとする学生の個別指導、研究活動、学会関連業務、さらには学外から依頼される講演や各種委員など――それぞれ関わる相手も、求められる役割も異なっており、業務の内容や質はまったく別種のものといってよい。そうした異質な仕事に日々追われているのが、大学教員の日常である。
そうした中で教員Dが挙げたのは、大学教員たちが集まるための日程調整の煩雑さである。会議には固定の曜日・時間で開催されるものもあるが、多くは関係者の予定をすり合わせながら、できる限り多くの出席者が集まれる日時を模索する形式が取られている。
「すごく実務的なことなんですが、日程調整は本当に面倒というか、心底疲れます。あちこちから調整の依頼が来て、そのたびに手帳を開いて……ほら、エクセルに入力という依頼でくるじゃないですか。ファイルを開いて、『この時間なら出られるかも』って、一つずつ入力して送って。でも、ほかの先生方も忙しいので、なかなか日程が合わない。そうしているうちに『日程が決まらなかったので、調整期間を延ばします』と連絡が来て、気付けば候補日が休日や夜の時間帯まで広がっている。やっと決まったと思ったら、直前になって委員長が出られなくなって、また一からやり直し……みたいな」
コロナ禍を経て、大学の会議もすっかりオンラインが当たり前になった。今では、自宅からでも、出先からでも、パソコンさえあれば会議に参加できる。でも、それでもなお、日程調整はうまくいかない。研究、授業、学生指導、それに外部の仕事。誰かの予定に合わせれば、別の誰かが外れてしまう。そんなすれ違いが繰り返される。
「日程調整でもっと便利なツールを使えば、少しは楽になるのでは?」――そんな声も聞こえてきそうだ。けれども、どんなに仕組みを整えても、「みんなの都合を合わせる」という行為そのものが繰り返される限り、根本的な解決にはならない。この調整問題は、ツールではなく、構造の問題なのだ。
【ブルシット・ジョブ⑥】「常識を備えた専門家」枠の仕事
これまでに触れてきた「常識」と「学外からの委員仕事」が交差するところにも、ブルシット・ジョブは潜んでいる。
例えば、省庁や自治体などから「専門家」として依頼される仕事。もちろん、中には本当に専門的な知見を求められているものもある。だが、時に、専門性そのものよりも「専門家がそこにいた」という事実――つまり、お墨付きがほしいだけ、という場合もある。あらかじめ方向性は決まっていて、それを補強する存在として名前を連ねてほしい。そうした依頼には、何ともいえない後味が残る。この種の仕事に感じるもやもやについて語ってくれたのが、教員Bである。
「最近は、外部から頼まれる評価や審査の仕事も増えて……。引き受けると、大量に書類が届いて、それを確認するわけですが、『これは通しちゃいけない、もう1回やり直し』というレベルのものもあります。ただ、依頼側がとにかく通したいと考えていることもあって、その場合、こちらが『これは無理です』と言っても、どうにもなりません。最終的には言いくるめられてしまう、ということになります。結局、『通すのであれば、最低限ここだけは直してください』と主張して折り合いをつけることになるのですが、納得できないというか……」
以上のブルシット・ジョブに「常識」という側面があると指摘したのは、こうしたちゃぶ台をひっくり返されたら困るような案件ほど、常識的とされる大学教員のもとに回ってくるからだ。激しい反論をぶつけるタイプではなく、場の空気を読み、相手の意図を汲み取りながら、うまく収めてくれそうな人。そんな教員に、こうした役割が振られていく。
常識があるからこそ、相手の期待を敏感に察し、ギリギリのところで自分にブレーキをかけてしまう。その結果、何かがおかしいと感じながらも、やりきれない思いだけが残る。教員Bは、こうした一連の作業を振り返って、「むなしい時間が過ぎていくだけ」とこぼしていた。
【ブルシット・ジョブ⑦】基準がわからない仕事
評価や審査という文脈で、いまひとつブルシット・ジョブとして言及されたものを付け加えておけば、教員Dの次の語りが挙げられよう。
「最近は、『領域を超えて』とか『全学的に』という方針のもとで、自分の専門分野ではないものの審査や評価に関わることも増えてきました。中には重要な審査もあって、責任重大だと思いながら臨むんですが、やっぱり他領域の書類をどう審査すればいいのか、正直よくわからないんです。自分の専門領域のものであればそれなりに判断できると思っています。でも、領域によって何が評価されるかは違うじゃないですか。だから結局何も言えなくて、むしろ言うべきではないような気さえしてしまって、その時間が本当に苦痛で……」(教員D)
他分野の研究に触れることは刺激的でもある。教員Dも、その機会自体には感謝しているようだった。けれども、それを「評価してください」と言われると話は別だ。わからないものを、わからないままに評価することの罪悪感。とはいえ、「自分には無理です」と言える空気でもない。教員Dが「苦痛」と表現したその時間、専門職としての良心が声にならぬまますり減っている。
それでも意味を見出そうとする人たち
以上、大学教員へのインタビューから、7つのブルシット・ジョブを取り上げてきた。どれも日々の業務の中で、ささやかに、しかし確実に教員たちの時間と心を削っていくようなものばかりである。冒頭で触れたが、今回話を聞いたのは、教育・研究の第一線で活躍している、大学教員の中でも限られた層であることに注意する必要があろう。その意味で、ここで語られたブルシット・ジョブの経験は、大学という職場のある断面を示すものでありつつも、その一端にすぎない。しかしながら、筆者自身、話を聞きながら、日々の仕事の中で似たような煩雑さに心あたりを覚える場面もあり、思わず苦笑いしてしまうこともしばしばだった。
さて、ここまで読んでくださった方の中には、少し気になっていた方もいるかもしれない。5人に話を聞いたと書いたのに、教員Eの語りが一度も登場してこなかったことに。というのも、教員Eはインタビューの中で、「私の仕事にブルシット・ジョブはない」と、きっぱり言いきったのだ。
とはいえ、彼女がそう語ったからといって、ここで挙げてきたような仕事をしていないわけではない。学会の雑務も担当していれば、誰かの尻拭いもしている。煩わしい日程調整に苛立ちを覚えることもあれば、多くの評価・審査作業を引き受けてもいる。つまり、ほかの教員たちが「これはブルシット・ジョブだ」と語った仕事の多くに、彼女もまた確かに携わっている。
興味深いのは、実は教員AからDの4人もまた、「これはブルシット・ジョブかもしれない」と言いながら、すぐに「いや、やっぱり違うかもしれない」と言い直す場面が何度もあったことだ。その背景には、教員Eと通じる感覚があるように思われる。例えば、日程調整の先には、自分の専門性が発揮できる時間が待っている。学会の雑務を引き受けることで、その学会自体が存続し、自分の研究を活かす場が保たれる。そう考えれば、それは「無意味な仕事」ではないのかもしれない。
さらに印象に残ったのは、こうした業務について話す中で、彼女らが、それをどうすればより良くできるかを考え、制度や仕組みのあり方にまで視線を向けていたことだ。ブルシット・ジョブのように見えるものを、一歩引いて観察し、言葉にし、必要であれば変えていこうとする。その態度には、研究者としての習性が色濃く表れている。
ブルシット・ジョブについては、「自分の仕事が無意味だと感じる時こそ、その意味を問い直す営みが重要だ」といった趣旨の議論を、大澤真幸が展開していた(大澤真幸『ブルシット・ジョブと現代思想』左右社,2022年)。その指摘をふと思い出す。確かに、インタビューを通して見えてきたのは、大学教員たちが、一見すると「クソどうでもよい仕事」にさえ、どこかで意味の回路をつなごうとしている姿だった。意味を紡ぎだすという行為そのものが、彼女たちにとっての専門性であり、そして矜持でもあるのだろう。
※本コラム中に紹介するインタビュー結果は、回答者が特定できないようにするために、内容に影響しない程度の編集や加工を施している。

濱中 淳子氏
早稲田大学教育・総合科学学術院・教授
東京大学大学院教育学研究科総合教育科学専攻博士課程修了。博士(教育学)。リクルートワークス研究所、大学入試センター研究開発部、東京大学高大接続研究開発センター教授等を経て、2019年4月より現職。
単著に『検証・学歴の効用』(勁草書房,2013年)、『「超」進学校 開成・灘の卒業生』(ちくま新書,2016年)、『大学でどう学ぶか』(ちくまプリマー新書,2025年)、共著に『教育劣位社会』(岩波書店,2016年)、『〈学ぶ学生〉の実像』(勁草書房,2024年)、編著に『大学入試改革は高校生の学習行動を変えるか』(ミネルヴァ書房,2019年)など。