人事は映画が教えてくれる

『アナザーラウンド』に学ぶ中年期における心理的柔軟性の重要さ

2025年06月13日

アナザーラウンドの詳細情報デンマークの高校教師マーティンは、中年となり、仕事でも家庭生活でも停滞を感じる日々を過ごしていた。そんなある日、同僚の1人であるニコライが「血中アルコール濃度を常に0.05%に保つと、リラックスし、体中に力と勇気がみなぎる」というノルウェーの哲学者の理論を話題に出した。この理論を実証してみようと思い立ったマーティンら4人は飲酒して授業に臨むことに。この企ては当初こそうまくいっていたが──。

「常に酒に酔っている状態を保てば仕事のパフォーマンスが上がる」という理論の実証実験に挑む中年教師たち……この設定だけ聞くとコメディのようにも思えます。しかし、『アナザーラウンド』はとても笑える映画ではありません。象徴的なのがまさに飲酒のシーンです。若者たちが酒を飲んでバカ騒ぎをする様子(デンマークでは高校生の飲酒は法律で禁じられていません)があっけらかんと明るく描かれているのに対して、ミドルの教師たちが苦痛を振り払うように酒をあおる様子は何か陰惨なものを感じさせます。これが、この映画全体の通奏低音のように響き続けるのです。

主人公のマーティン(マッツ・ミケルセン)ら4人の同世代の教師たちは、“中年の危機”に苦しんでいました。危機の元凶は気力の衰えです。気力が衰えた人間の無関心とエネルギーの低下は周囲に寂寥感を覚えさせ、人間関係や社会生活に悪い影響を及ぼします。生徒からは退屈な授業に不満を抱かれ、家庭では家族から冷たくあしらわれる。それがさらにこのミドルたちを追い詰めていきます。「俺はつまらない人間か?」と尋ねるマーティンの言葉はもはや妻には届きません。4人の教師は、決して面白がってこの荒唐無稽な実証実験に取り組んだわけではありません。真剣にこの危機を脱する術を求めていたのです。

では、このようなミドルの心の衰えはなぜ生じるのでしょうか。それを解き明かすためのキーワードの1つが、近年心理学の世界で注目されている“心理的柔軟性”です。この概念を簡潔に説明すれば、「今、ここに存在し、心が開かれた状態で、自分にとって大切なことを行っている」状態ということになります。過去もない、未来もない、唯一存在しているのは“今、ここ”なんだという仏教にも通じる考え方です。

多くの人は “今、ここ”をあまり大切にしていません。過去にとらわれ、未来に不安を感じてばかりいる。このような思考に振り回され、それを現実と混同することを認知的フュージョンといいますが、マーティンが陥っていたのがまさにこれです。彼の場合は、特に研究者として将来を嘱望され、ダンスに熱中していた過去の自分と比較して、勝手に今の自分に失望している。心理的非柔軟な状態にあったのです。

アナザーラウンドの映画シーン心理的柔軟性を取り戻すために酒を飲むマーティン。その姿はどこか陰惨なものを感じさせる。

そこで、マーティンたちは酒に頼りました。私はアルコールの効能を否定はしません。確かに一杯やることで気持ちが大らかになり、不安も解消される薬理効果はあります。しかし、それは一時的なものにすぎません。アルコールが抜ければ元に戻るし、飲み続ければ破綻へと至ります。マーティンたちは飲酒を続けるうちにコントロールが利かなくなり、実験は失敗に終わります。支えてくれる家族がいなかった同僚の1人は自死の道を選び、マーティンも家族との関係が壊れ、妻は家を出てしまいます。

酒が最終的な解決策にならないのなら、どうすればいいのでしょうか。今、心理学の世界で提唱されているのがACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)という独力でもできる心理療法です。ポイントは、「今、この瞬間に注意を集中する」「自己の思考や感情をありのままに受け止める」「現実と感情をごちゃ混ぜにしない。ネガティブな感情を一旦受け入れ傍に置く」「自分や世界をあたかも舞台の上の出来事のように客観的に観察する」などです。実は私も今、遅めの“中年の危機”を感じており、日々ACTを実践しています。

ACTの基本的な考え方や具体的な方法は、同志社大学の武藤 崇教授が『ACT 不安・ストレスとうまくやる メンタルエクササイズ』(主婦の友社)にわかりやすくまとめています。気になる人は手に取ってみてください。

映画のラスト、マーティンは久々に得意のダンスを夢中で踊ります。その姿はまさに“今、ここ”を生きているように感じられるのです。

アナザーラウンドの映画シーンラスト、マーティンは激しくダンスを踊りまくった後、海へダイブする。中年の危機を乗り越えたネクストステージへのジャンプだ。

Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎

野田 稔

明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授

Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。

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