『関心領域』に学ぶ複合的認知バイアスがもたらす視野狭窄

『関心領域』の前半から中盤にかけて主に描かれているのは、ルドルフ・ヘス（クリスティアン・フリーデル）一家の平穏で楽しげな様子の家庭生活です。敷地内に広がる家庭菜園、庭ではしゃぐ子どもたち、寝室でバカンスのプランを語らう夫婦──、これらはヘス一家にとって、なかでも貧しい生まれである妻のヘートヴィヒ（ザンドラ・ヒュラー）にとっては理想の世界でした。

一方で、この家庭生活の描写には異様な通底音が鳴り響き続けます。ドイツ軍兵士の怒声、収容された人々の悲鳴、そして稼働中の遺体焼却施設から発せられる不気味な重低音。作中では表現されませんが、恐らくは異臭もしていたはずです。

ご近所を招いてホームパーティーを楽しむヘス一家。壁の向こうでは不気味な黒煙が立ち上る。

もちろんヘートヴィヒは壁の向こうで何が行われているかを知っていました。収容された人々から奪った毛皮や衣服、宝飾品などを品定めして我が物にし、残りを使用人に分け与えるシーンも描かれています。実態を知っていて、なぜこの環境下で幸せを享受することができたのでしょうか。　

その理由は、複合的な認知バイアスの働きによって説明できます。認知バイアスによって関心領域が狭められれば、人は人類史上まれに見る残虐行為が行われているすぐ隣で幸せに暮らすことができる。この恐るべき事実を映画『関心領域』は現代を生きる私たちに突きつけます。

当時のドイツ社会はナチスが意図的に仕掛けた認知バイアス、具体的には、一体感の重視や同調圧力によって批判的な意見が排除される「集団浅慮」、悪い行いをしたものはその報いを受けるべきだと思い込む「公正世界仮説」などの効果によって、全体として適正な判断力を失っていました。

それを前提として、焦点をヘス夫妻に合わせましょう。ヘートヴィヒがとらわれていたのは、雑然とした環境下でも、見たいものだけを見て、聞きたい音だけを聞く「カクテルパーティー効果」です。彼女には、幸せな家庭生活しか見えていません。そうなると、壁の向こうから聞こえる異音も、漂ってくる異臭もないもののように処理できてしまう。遠方から訪ねてきた彼女の母親が、その異様な環境に耐えられず、滞在予定を切り上げて黙って帰る場面は象徴的です。また、ヘートヴィヒには「現状維持バイアス」の強い影響も見られます。ヘスが転勤の指令を受けたと告げると、彼女は「私はここを離れない！」と強く反発します。彼女の関心領域はこれらの認知バイアスによって“理想の我が家”に限定されていました。客観的に見れば恐るべき視野狭窄といえます。

一方、ヘスをはじめとするドイツ軍将校たちが顕著にとらわれていたのは、「仕事正当化効果」ともいうべき認知バイアスです。人は「仕事だから」というエクスキューズがあれば、その先に何が起きるかを考えることなく、速やかに決断し、行動することができてしまう。ドイツ軍の会議のシーンでは、ユダヤ人の移送や虐殺の計画について、実にテキパキと効率的に議論が進められます。彼らがユダヤ人の苦しみに思いを馳せることは決してありません。ヘスたち軍人の関心領域は「仕事」にしかないのですから。

現代の私たちが生きる社会でも、関心の領域を限定してしまう仕組みは少なくありません。たとえば、人事に引き寄せていえば、ジョブ型人事がその1つです。あまりに精緻に役割を決めると、従業員の関心領域が自分の役割だけに狭められ、全体への関心が薄れてしまう可能性があります。また、行き過ぎたMBO評価も、関心領域を自分の目標追求だけに狭め、社員間の協働が著しく阻害されることが確認されています。

ジョブ型やMBOそのものに問題があるのではなく、導入にあたって、社員の関心領域を広げる努力も同時に必要です。

私たちは認知バイアスから完全に逃れることはできません。だからこそ、健全なる懐疑心をもって、自分がとらわれている認知バイアスについて常に振り返り、検証する必要があるのです。

ナチスドイツ将校たちによる会議の様子。議論は整然と効率的に進められていく。表面的には、まさに理想的な会議のように見える。

Text＝伊藤敬太郎　Photo＝平山諭　Illustration＝信濃八太郎