人事は映画が教えてくれる

『フリーダム・ライターズ』に学ぶ“書くこと”による自己変革

2025年10月15日

映画『フリーダム・ライターズ』の情報舞台はロス暴動後の1994年、ロサンゼルス近郊の都市ロングビーチ。暴力やドラッグが蔓延する劣悪な環境下で生きるティーンエイジャーたちが通う高校に1人の女性新人教師が着任した。彼女は、本を読ませ、日記を書かせることで、荒れる生徒たちを変えようと試みる。書籍化もされた実話に基づく映画『 フリーダム・ライターズ』から私たちは何を学ぶことができるだろうか。

映画の冒頭では、ロングビーチで暮らす有色人種のティーンエイジャーたちの荒廃した日々が描かれます。アフリカ系、ヒスパニック、アジア系など人種ごとにグループを構成し、日常的に出口の見えない諍いが繰り返される。ティーンエイジャー同士が銃で撃ち合うシーンは衝撃的です。

彼ら彼女らが通うウィルソン高校は、「かつての優秀校が今じゃ少年院だ」「(あの生徒たちに)知的な興味をもたせるなんて無理」と教師も匙を投げるほど荒れ果てていました。そこに自ら希望して着任した新人国語教師がエリン・グルーウェル(ヒラリー・スワンク)です。

彼女は教室での幾多のトラブルを経て、生徒たちに学ぶ意欲を喚起するにはどうしたらいいかを考えました。そして、生徒全員分のノートを用意し、日記を書くことを提案したのです。「誰にでも物語はあるわ。それを語るのは大事。過去のことでも今でも未来でも構わない。もちろん日記を書いてもいいし、歌詞とか詩、楽しいことや悲しいことでもいい。ただし、毎日書くこと」。併せて、読んでほしいときは教室の後ろのロッカーに入れておくように伝えました。すると、翌日、ロッカーにはノートが一杯に積まれていたのです。

また、エリンは自腹で全員分の本を購入し、生徒たちに『アンネの日記』などを読ませました。新品の本など手にしたことのない生徒たちは、こちらも熱心に読みふけります。生徒たちは「書くこと」と「読むこと」を同時進行で実践することにより、自分の人生や差別の問題について前向きに深く考えるようになるまでに成長を遂げました。

生徒の一人、マーカスのイラスト自宅で自分の思いを日記に書き留めている生徒の1人マーカス(ジェイソン・フィン)。

この生徒たちの成長ぶりが私たちに示すのは、思考を深めるために「書くこと」がいかに重要であるかということです。アメリカの認知心理学者ジョージ・ミラー教授は、「マジカルナンバー7±2」という説を唱え、人間の短期記憶は7チャンク程度だと主張しています。チャンクとは、日本語の場合、20字程度までの情報の塊の単位を指します。それほど人間の脳の作業台は小さく、1人で考えているだけでは十分な情報量で思考することはできないということです。この問題を解消するために人間は2つの発明をしました。1つは組織、そして、もう1つが文字です。短期記憶を言語化して書くことで思考のための情報量は格段に増やせます。それだけでなく、書くことは、学習のうえで重要なリフレクション(振り返り)の効果ももたらします。

また、書いたものを人に読んでもらうこと、読み合うことは、お互いを理解することに役立ちます。書く行為はそれだけならモノローグ(独白)ですが、読み合うことで深いダイアローグ(対話)が成立するのです。

なお、SNSなどへの書き込みは、「延髄反射的」な短期記憶の放出にすぎず、思考の整理には役立ちません。また、日常的なメモを生成AI に頼ることがいかに危険かもわかるでしょう。今、私たちに本来的な意味での「書く」機会が減っていることは大きな問題です。意識して、考えたことを自分でメモする習慣をつける必要があるのです。

 生徒たちの日記に目を通すエリンのイラスト生徒たちの日記に目を通すエリン。そこには、一人ひとりの悩み、怒り、苦しみ、悲しみ、願いが切実な言葉で記されていた。

ところで、この実話は美談としてとらえられがちですが、私はそれには異議を申し立てます。エリンはたった1人で実践しました。資金稼ぎのためアルバイトを2つも掛け持ちし、多忙のあまり離婚することにもなります。しかし、このような自己犠牲を払わずとも、ほかのやり方があったはずなのです。

上司の理不尽な命令や非合理的なルールに波風立てず間接的に抵抗するうまいやり方も存在します。「質問による事実確認と意図の深掘り」「データや根拠に基づいた提案」「複数人での共通認識の形成」などです。これらの方法をうまく実践できれば、エリンは、自分に反対した先輩教師たちを懐柔し、協力を得られた可能性もあります。そうすれば、彼女は離婚などせず、この作品に描かれた奇跡を実現できたかもしれません。

Text=伊藤敬太郎 Photo=平山諭 Illustration=信濃八太郎

野田 稔

明治大学大学院グローバル・ビジネス研究科教授

Noda Minoru リクルートワークス研究所特任研究顧問。専門分野は組織論、経営戦略論、ミーティングマネジメント。

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