著者と読み直す
『第3の時間』デンマークで学んだ、短く働き、人生を豊かに変える時間術 井上 陽子
時間こそ変化を起こす力
「面白かった」「ためになった」だけでは終わらない本を著者と一緒に読み直します。今回は井上陽子氏の『第3の時間』。仕事でも休息でもない自由時間が、いかに人生と社会を豊かに変えるのか。その変化の力を探ります。

税金は高いが社会保障が充実していて、国際競争力も幸福度も世界トップクラス。日本人にとって「幸福先進国」北欧は、ちょっと眩しすぎる。「人口規模や社会の仕組みが違うし」と言いたくもなる。著者の井上陽子さんも、2015年にデンマークに移住してしばらくは、「だからどうしたと思っていた」という。
本誌でGlobal View From Nordicを連載する井上さん。超長時間労働の新聞記者歴17年というその目には、誰もが午後4時台に退勤し、平日から家族との時間や趣味を謳歌しているデンマークという国は、異世界に映った。記者や国家官僚、医師でさえ、さっさと帰宅。子どもたちは宿題もなく、のびのびと育っていた。
こんなに競争と無縁の国が、世界一の競争力を手にしているなんて、一体どういうこと? 本書では「だからどうした」と言っていられなくなった井上さんが、謎を解き明かしていく過程がまとめられている。北欧の働き方を取り上げる類書との大きな違いは、デンマークの人たちが「どうやって短時間で仕事を終わらせているのか」というHowではなく、「なぜ短く働くのか」というWhyに焦点を置いている点だ。
「効率的な仕事術」では解決しない 自らの葛藤も赤裸々に綴る
最初は出版社から『読者がすぐに使える効率的な仕事術』を書いてほしいと言われ、書き始めた。だが、個人が効率的な仕事術を身につけたところで、企業の競争力が上がるわけでもなく、短時間労働を支える仕組みなしに自分だけ早く帰るのはほぼ無理。だとしたら、自分が伝えるべきは、短時間労働でもしっかりと稼いでいるデンマーク社会の仕組みや考え方なのでは? 筆が進まないまま、逡巡すること1年半。ついにハウツー本を断り、一から本書を書き始めたという。原稿には、染みついた長時間労働スタイルを手放せず、セラピーにまで通いながら、自分を縛ってきた価値観を見つめ直そうとする自らの葛藤も赤裸々に綴った。
「個人的な話がどう受け止められるか不安でしたが、『泣いた』という感想や、ハウツー本じゃないのに『私は自分の働き方をこう変えることにした』と具体的に言ってくださる方もいて、驚きました」
それにしても、残業なしで週37時間という働き方で仕事が回るのか。最近、仕事への情熱を失い、必要最低限の業務だけを淡々とこなす「静かな退職」が話題だが、モチベーションはどうなのか。「お尻が決まっているからこそ集中して働くし、給料が高い分、成果を出さなければクビになりかねない厳しさもあります。仕事のモチベーションも世界トップレベル。仕事は楽しいけど、37時間以上は働きたくないのがデンマーク人なんです。その象徴といえるのが、『8-8-8』という考え方です」
仕事でも休息でもない「第3の時間」がもたらすもの
1日を「8時間の労働時間」「8時間の自由時間」「8時間の休息時間」に3分割し、真ん中の「自由時間」は誰もが享受すべきものという共通認識。それが個人の幸福感だけでなく、80%を超える投票率や、地域活動への参加など、民主主義の成熟にまでつながっていると腑に落ちた。だが、自身は労働と休息の2分割発想からなかなか抜け出せなかった。原因として本書で言及しているのが、仕事をアイデンティティと過度に重ねる「Workism(ワーキズム=仕事主義)」。ドキリとする人も多いのではないか。
「新聞記者として仕事一辺倒でいた頃、働くために生きているのか、生きるために働いているのか、よくわからなくなっていました。仕事の成果ばかりに重きを置き、ゴールを自分で次々と動かす考え方だと、目の前の小さな喜びに注意を払えず、満足できない。『成功地獄』です。でも、自分に向ける厳しさが家族にまで漏れ出していると気づいたとき、目が覚めました」
このとき、仕事でも休息でもない「第3の時間」を日々確保し、仕事以外のアイデンティティを大切にしてきたデンマーク人の価値観が、ようやく腹落ちしたという。
その話でふと思い出したのが、本連載でも取り上げたベストセラー『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆著)。本が読めないほど全身全霊で仕事に打ち込まざるを得ない社会構造に光を当て、「半身で働ける社会を作ろう」という提言が反響を呼んだ。
「実は私、あの本へのアンサー的な意味も込めてこれを書いたんです。著者の三宅さんは、具体的な『半身社会』のビジョンはまだわからないとしていました。でも、既に『仕事だけが人生じゃない』という冷めた感覚を持ちつつ、経済も回っていて、幸福度が高い国が存在している、と。一人ひとりが時間の使い方を少しずつ変え、自由な時間が持てれば、『自分は変われる』『物事は変えられる』という感覚が生まれてくる。私自身がそうでした。時間こそ変化を起こす力なのだと思います」
※「葛」は正しくは旧字体/下が「ヒ」
◆書籍紹介◆
『第3の時間』 井上 陽子
新聞記者として昼夜なく17年間働いてきた著者は、39歳でデンマークに移住。午後4時台に退勤しつつ、経済的豊かさと自由な時間を謳歌する人々を目の当たりにする。一体なぜそんなことが可能なのか? 秘密は、デンマーク人の1日を3分割する考え方にあった。しかし、頭では理解しても、自身の働き方や価値観を変えることは容易ではなかった。その葛藤の物語を通じて、仕事とアイデンティティ、人生の豊かさについて問いかける。(ダイヤモンド社刊)

Inoue Yoko
ジャーナリスト、コミュニケーション・アドバイザー。筑波大学卒業後、読売新聞社の社会部記者、ワシントン特派員を経て2015年、妊娠を機に夫の母国デンマークに移住。2人の子どもを育てながらメディアへの執筆や、日本とのビジネスに取り組むデンマーク企業のサポートなどを行う。共著に『「稼ぐ小国」の戦略 世界で沈む日本が成功した6つの国に学べること』。ハーバード大学ケネディ行政大学院修了。
Text=石臥薫子 Photo= 今村拓馬
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