人事のアカデミア

【聯合艦隊】栄光の最強艦隊が陥った成功体験の罠を見つめ直す

2026年06月22日

日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を殲滅し、世界にその名を轟かせた聯合艦隊。しかし、海軍史を研究する木村聡氏は、初期の成功体験に固執した結果、時代の変化に対応できなくなったと指摘する。聯合艦隊の光と影の軌跡をたどりながら、現代の組織にも通じる課題を浮き彫りにする。

戦力不足を補うため艦隊の大規模化が進む

梅崎:まず、聯合艦隊とはどのような組織だったのでしょうか。そもそも「聯合」とは何を意味するのでしょうか。

木村:聯合艦隊は、イギリス海軍の「Grand Fleet(大艦隊)」をモデルとしています。「Fleet(艦隊)」は大規模な軍艦の集合体を意味し、それらを複数まとめ、より大きな単位として運用するのが「Grand Fleet」です。

日本語に訳す際、複数の艦隊を統合して運用する連合体であることから、「聯合艦隊」という言葉が当てられたと考えられます。「連」ではなく「聯」の字が用いられたのには、複数の対等な存在が協力し合うという意味合いが強く込められています。現在は常用漢字で「連合」と表記されますが、本来の意味は「combine(連結)」よりも「coalition(提携)」のニュアンスに近いでしょう。

梅崎:なぜそのような大規模な艦隊編成が必要だったのでしょう。

木村:18世紀から19世紀にかけての戦争観が影響しています。当時は決戦主義、すなわち1度の決戦で勝利すれば戦争全体に勝てるという考え方が一般的でした。その時代には軍隊を集結させること自体が非常に高コストであり、一度壊滅すれば再建は困難で、降伏せざるを得なかったからです。

海軍の場合、これに経済戦略の側面も加わります。制海権を握れば、自国の貿易や商業を有利に進めることができ、工業の発展にもつながる。一方で、敵国の海上交通を封鎖すれば、相手の経済を圧迫できます。制海権を握るには、敵艦隊を撃滅することが最も重要とされ、大艦巨砲主義が進んでいきました。

その頃の日本が対峙する相手は、清国やロシアなど常に格上の存在でした。平時は日本近海の警備を行いつつ、決戦時には全戦力を結集しなければいけないという切実な事情から、日本海軍でも聯合艦隊が構想されるに至ります。

もっとも、その位置づけは明確ではなく、1884年の「艦隊編制例」に名称が見られるものの、その後の法令では削除されるなど、当初は戦時の臨時措置として扱われていました。

梅崎:それが常設化された背景には、何があったのでしょうか。

木村:対米戦の想定です。日米の工業力は比較にならないほどの差がありましたが、両国間には約3000海里の距離があります。当時は、1000海里移動するごとに艦隊の攻撃力は1割減ずると考えられていました。つまり計算上は、日本がアメリカの7割の兵力を保持していれば、戦争の帰趨を決する最終決戦において辛うじて勝利の目算が立つ。ゆえに対米比7割の艦隊保持が海軍の最重要課題となります。当然、アメリカ側もその論理を把握しており、兵力差を広げようと軍拡競争が続きました。

しかし、第一次世界大戦後の経済不況を背景に、際限のない軍拡を避けるべく1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結されました。ここで決定的だったのは、日本の対米比率は6割に制限されたことです。勝機に必要な7割に届かないという事態に直面し、新たな方針として採用されたのが、漸減邀撃作戦です。これは、接近途上の米艦隊に積極的に攻撃を仕掛けて戦力を削減したうえで、主力艦隊による最終決戦に臨むという構想です。

あわせて、戦力不足を補う思想として海上本位主義が掲げられました。現場の訓練を優遇し、平時の訓練形態を可能な限り戦時の実戦形態に近づけるべきだという発想です。この流れのなかで、聯合艦隊を常に現場に配置しておくという考えが生まれました。

組織の調整機能が崩れ現場の独走が始まる

木村:聯合艦隊の常設化は、組織運営に大きな変化をもたらしました。従来は個別の軍艦単位で訓練を行い、その成果を海軍中央に報告していましたが、艦隊単位での運用に移行し、訓練成果も聯合艦隊司令長官に集約されるようになります。海上本位主義のもと、現場の自由な工夫や挑戦が推奨される空気もあり、聯合艦隊司令長官は訓練全体を統括する役割を担い、その地位を急速に確立していったのです。

梅崎:意思決定の構造にも影響が出ますよね。

木村:非常に複雑化しました。実はその背景には天皇制があります。明治政府は幕府の正統性を否定するため、征夷大将軍のような存在が全権を掌握する状況を避ける必要がありました。そこで司法・立法・行政、そして軍隊を率いる統帥権を分離しました。議会、内閣、陸海軍はすべて対等であり、それらの関係を調整できるのは唯一天皇のみという構造です。

この原理は軍内部にも適用され、政治との折衝や事務を担う軍事行政部と、軍隊の運用を司る統帥部は独立し、その調整は天皇に委ねられたのです。

梅崎:もともとは対等な関係だったのですね。

木村:理論上はそうですが、実際には予算の制約が大きく影響します。予算を編成できるのは陸海軍大臣なので、最終的な決定権は大臣にあり、さらにその予算を承認するかは内閣が、そして最終的には議会が握っています[図]。

[図]明治新政府が確立した分権体制明治新政府が確立した分権体制陸海軍といえども国の組織であり、予算や法律にも縛られる。平時では、軍事行政部と内閣、議会の関係が重視される。
出典:木村氏作成

そのため、軍内部では基本的に軍事行政部が強い時代が長く続きました。第一次世界大戦後、大きな戦争が起きない平穏な時期が続いたことも影響しています。

その間、民意を優先する政党内閣が軍隊を悪者のように扱い、長期にわたって厳しい制限を課し続けました。しかし、中国での権益問題や国内の経済問題は一向に解決しない。その閉塞感のなかで、陸軍では1931年、現場の関東軍が独断で満州事変を引き起こし、図らずも民衆の熱狂的な支持を集めてしまったのです。

民意が味方した以上、内閣も議会も彼らの行動を追認して必要な予算を出さざるを得ない。軍事行動によって民意を動かしさえすれば、行政や立法によるコントロールなどいくらでも突破できることを実証してしまったわけです。

梅崎:統帥と行政の分離が、現場の独走を招いた面もありそうですね。

木村:本来、お互いを牽制し合うことがこの制度の肝でしたが、牽制が過ぎて誰も主導権を発揮できなくなったとき、実行力を持つ軍隊の発言力が増大しました。当時、関東軍司令官が英雄視され、世論を背景に陸軍が内閣へ圧力をかけたり、陸軍内部でも内紛が続いたりしました。海軍は、陸軍のこうした動きを批判的に見ていましたが、太平洋戦争では同じ道を歩むことになります。現場の聯合艦隊が強大な発言権を持ち、あらゆる問題を力で解決しようとする存在へと変化していきました。

歴史を追体験することで同じ過ちを繰り返さない

梅崎:聯合艦隊が現場の総代表のようになり、聯合艦隊司令長官は海軍の顔というべき象徴的存在になっていく。太平洋戦争で真珠湾攻撃を指揮した山本五十六は、今でも小説や映画でよく描かれます。一方で、日露戦争時、先頭に立って日本を勝利に導いた東郷平八郎に対して、山本五十六は日本から指示を送るなど、指揮のあり方には変化がありますね。

木村:指揮官が後方に位置するようになった理由は、通信技術の発達によって遠隔指揮が可能になったからです。第一次世界大戦の頃には、既にその下地ができていました。さらに、1940年代に入ると対米戦の現実味が増し、部隊編成が大規模化したことが挙げられます。

それに伴い、指揮官に求められる役割も変化します。日清戦争の頃までは、作戦自体が単純だったため「私に続け」で済みましたが、この頃になると専門の参謀が綿密な作戦を立案します。指揮官の手腕は、その作戦計画通りに部下を動かせるかどうかであり、組織を統率する能力や人望が重要視されるようになりました。

梅崎:山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という有名な言葉があります。巨大化した組織を動かすには、任せるリーダーシップが必要になってきたのでしょう。

木村:実際、もはや細部にまで口出しできる規模ではありませんでした。後半は戦局も悪化し、口を出せば出すほど求心力が低下するという悪循環に陥っていきます。山本五十六が幸運だったのは、開戦初期の勝利が続くタイミングだったという巡り合わせもありました。

ただし、いかに手段が変化しても、根底にある決戦主義は維持され続けました。戦艦中心から巡洋艦や駆逐艦の活用、やがては航空主兵へと移り変わりましたが、決戦で勝利するという発想自体は変わらなかったのです。

梅崎:第一次世界大戦以降は総力戦の時代といわれ、1回の決戦で勝敗が決まることはほぼなくなっていきますが、日本は戦力不足がゆえに、決戦による一発逆転の夢をずっと追い続けてしまった。

木村:日清・日露戦争において圧倒的な兵力差を覆して勝利したことで、「この勝利の方程式を繰り返せば間違いない」という信念が根付いてしまったのでしょう。

梅崎:現場の力が強いというのも、日本組織の特徴の1つだと思います。やはり日本人は、現場からのボトムアップを好む傾向が強い。しかし、現場主義は大きな推進力となる一方で、全体像を見失うリスクも伴います。

木村:初期の日本海軍を支えた山本権兵衛は、各部門の意見を受け止めたうえで内閣と交渉し、海軍大臣として政治と現場を絶妙にコントロールしました。この最初の成功モデルは聯合艦隊でも再生産され、聯合艦隊司令長官が現場の意見を吸い上げつつ、政治的な調整をして計画を実行に移していきました。しかし、成功体験を重ねてきたため、失敗したときの対処法を持ちませんでした。陸軍のように現場の暴走に苦労した経験もなく、現場への指導権を確立できなかったのです。

梅崎:当初は、現場のパワーをうまく活用する関係性が機能していたが、次第に現場の力が強くなり、コントロールしているつもりが逆に引きずり込まれてしまった。全体を俯瞰する視点が失われ、誰にも制御できない状態に陥ってしまったのかもしれません。

これは現代の組織にも通じる課題です。現場の強みを生かしつつ、適切にマネジメントすることが重要であり、現場主義の美徳をなぞるだけでは、同じ失敗を繰り返します。

木村:新見政一という海軍人は、晩年、反省を込めて「歴史に学べ」と説きました。歴史は人類の経験の集大成である、と。しかし、ただ知識として学ぶだけでは不十分だとも言っています。個々の資料を精査し、どのような因果関係で次の問題が生じたのか、科学の再現実験のように追体験しなければならない。海軍が歴史から学ぶ教育を怠ったことが、あの大戦の失敗につながったのだ、と述懐しています。

梅崎:歴史は一直線に進むのではなく、多分に反復するものです。時代が変わっても人間は同じようなことを繰り返しているという認識を皆で共有すること。それこそが歴史学を学ぶ真の意義だと思います。


Text=瀬戸友子 Photo=刑部友康(梅崎氏写真) 本人提供(木村氏写真)

木村 聡氏の写真

木村 聡氏
Kimura Satoshi
別府大学 講師

北海道大学文学部卒業、同大学大学院文学研究科歴史地域文化学専攻博士後期課程修了。外務省外交史料館アジア歴史資料センター協力室非常勤職員、防衛大学校総合安全保障研究科後期課程特別研究員を経て、2022年4月より現職。

人事にすすめたい本『聯合艦隊─「海軍の象徴」の実像』

『聯合艦隊─「海軍の象徴」の実像』
木村 聡/中央公論新社
聯合艦隊とはどのような組織で、どのような役割を果たしていたのか。鍵となる司令長官を軸に説き起こす「聯合艦隊」初の通史。

梅崎修氏

法政大学キャリアデザイン学部教授

Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。

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