人事のアカデミア
【普遍性をつくる哲学】「人それぞれ」と「絶対的正しさ」を超え「私たち」の共通了解をつくる
「大きな物語」が崩壊し、意味を見いだすこと自体が難しくなった現代。哲学者の岩内章太郎氏は「メランコリーの時代」だと指摘する。多様性を認め合いながら、共通の理念や社会の合意をどのように築くのか。現象学の立場から、普遍性をつくる哲学の社会実装を目指す岩内氏に分断を乗り越える哲学の思考法、対話法について聞く。
メランコリーの時代に普遍性をどうつくるか
梅崎:先生は「ニヒリズムの時代から、現代はメランコリーの時代である」と述べられています。まずはニヒリズムとメランコリーの違いからお話しいただけますでしょうか。
岩内:ニヒリズムとは失恋のようなものです。かつて何かに恋をし、そこに強い意味を感じていたが、それが崩れ去ってしまった状態を指します。場合によっては生きる希望を失うほどの衝撃を受けます。対してメランコリーとは、恋ができない状態を指します。意味が崩壊するのがニヒリズムであるならば、そもそも最初から意味を見いだせないのがメランコリーです。
これをマクロの視点で見れば、いわゆる「大きな物語」の崩壊と言い換えられます。意義があると思って参加した戦争に敗れてしまう、マルクス主義の革命を信じて起こした学生運動や労働運動が失敗に終わってしまう状態は、典型的なニヒリズムです。
しかし現代は、そもそも戦争の大義も、革命の理想も思い描けなくなっている。何かを激しく批判したいわけではないけれど、自分が何をしたいのかがわからない、メランコリーの時代といえるでしょう。
梅崎:価値を否定するのではなく、そもそも価値がないという感じですね。
岩内:この時代の流れは、哲学の変遷ともリンクしています。近代(モダン)は、「人間みんなが自由になれる」という大きな夢を描いた時代でした。しかし、ヨーロッパ近代が掲げた「みんな」という概念には独善性が潜んでおり、それが植民地支配をも正当化してしまった。近代の最後には、帝国主義や全体主義が登場し、悲惨な形で人間性が敗北しました。
その反省から生まれたのがポストモダンです。ポストモダン思想は、近代が掲げた理念、大きな枠組みを徹底的に解体しようとしました。ここで重視されたのは差異です。それぞれの人間の違いが大切であり、違いを超えた普遍性という発想自体が、危険なものだと見なされるようになりました。
梅崎:ポストモダン思想として登場したのが構築主義でした。
岩内:構築主義は普遍性を批判し、「すべては社会的・文化的に構築されている」と主張しました。ジェンダー論やカルチュラルスタディーズと連動し、実際に不当なシステムのなかで疎外され、苦しんでいる人たちの声を代弁しました。たとえばセクシュアルハラスメントという概念すらなかった時代、無意識に人権侵害をしている側に対し、「あなたが読んでいる文学作品や日常の振る舞いのなかに、男性の暴力性が潜んでいる」と指摘しました。
しかし構築主義には致命的な弱点があります。もしすべてが構築物だとしたら、その批判を行っているジェンダー論の立場も、1 つの構築物にすぎないことになります。「すべては社会的な構築物である」を突き詰めていくと、誰もが自分の足場を失い、議論そのものが成立しなくなってしまいます。
セクシュアルハラスメントを告発する過程では女性に光を当てることが大事でも、本来言うべきは、「すべての人間が自由に生きられる社会をつくるためにセクハラはよくない」ということでしょう。一言で言えば、相対主義に陥ったことが、構築主義の最大の限界でした。
梅崎:ポストモダン思想の構築主義に対して、現代哲学が、絶対的なものを取り戻そうとして登場させたのが現代実在論であるならば、まさにメランコリーの時代の哲学ですね。
岩内:現代実在論は、ポストモダン思想が批判した普遍性や理性、自由といった近代の概念を、やはり大事なものなのだと正面から肯定します。「人それぞれだ」と言っているだけでは結局どこにもたどり着けず、「すべて権力で縛られている」と言い続けたら、逆にポピュリズムや陰謀論に流される人も出てきてしまった。もっと基礎的な、人間であれば誰もが深く納得できる場所から、理性的に考え直していこうとするのが現代実在論です。
梅崎:ポストモダン的構築主義と現代実在論の対立を、岩内先生は「現代の普遍論争」と表現されています。
岩内:伝統的に、哲学には観念論と実在論の対立があります。観念論は、「私」の意識体験から出発します。たとえばリンゴを見たとき、私は「赤い丸いもの」として捉える。別の人にとっては「好きなもの」であり、リンゴアレルギーの人には「避けるべきもの」かもしれない。「私」にはこう見えるという個々の体験を持ち寄り、「私たち」にはこう見えるという共通の認識をつくっていこうというのが観念論の発想です。一方の実在論は、私たちが見ていようと見ていまいと、リンゴはそこにあるというところから出発します。
この違いは、道徳や倫理の話になるとより鮮明です。よい社会とは何かを考えるとき、対話を通じて少しずつ共通了解をつくろうとするのが観念論のアプローチです。実在論は、我々がどう考えようが、よい社会の理想はあらかじめ存在しており、それを発見すべきと考えます。
しかし、「よい社会がそこにある」という発想では、多様な考え方や信念の対立を調停していこうという話にはなりません。実在論が「これが普遍的によいことだ」と提示するとき、そこには常に「誰にとってのよいことか」という問題がつきまといます。その背後では、カント以降の「すべての人間は自分の頭で理性的に考えれば、よりよく生きられる」というヨーロッパの優等生的な理想が見え隠れします。異なる文化圏や伝統のなかで生きる人々に、「これこそが普遍的な道徳の実在だ」と押し付けても、容易には通用しません。
絶対的な正解を保留し「私」の確信として考える
梅崎:岩内先生は現象学の立場から、普遍性が「ある」哲学ではなく、「つくる」哲学を再建されようとしています。
岩内:私が専門とする現象学は、近代哲学の系譜に連なるものです。実在論は価値はそこにあるのだと宣言し、あとはそれをどう見いだすかという話に終始します。対して現象学は、「エポケー」といって、絶対的な正解や客観的事実があることを一度保留します。そのうえで、私たちの意識がどのような構造で対象を確信しているのかという順番で考えます。
たとえば、ある人には「○○国の人はけしからん」と見えているとします。構築主義なら「それは社会的につくられた観念だ」と断じるでしょうが、現象学は、それがいかに差別的な観念でも、「その本人には疑いようもなくそう見えている」事実を認めることから出発します。異なる見え方を持つ人から「○○国の人のなかにもよい人はたくさんいますよ、私の知り合いにも多いですよ」という話を聞いて、「確かにそうかな」と自らの意識のなかで納得できて初めて、謝罪したり自分の考え方を修正したりできるようになるからです。
すべてを「私」の確信に還元したうえで、では、どういう確信のあり方なら共によりよく生きられるか、「私」の確信と、ほかの「私」の確信のあいだに、どういう差異や共通性があるのかを対話によって探っていく。現象学では、このようにして建設的に信念対立を解きほぐしていこうと考えます。実在論にはこのプロセスがありません。実在していることから出発するため、結局は「それぞれにとっての実在がある」という平行線で終わってしまうのです。
もう1 つ重要なのは、現象学における普遍性は、常に批判に対して開かれているという点です。「これが実在する正解だ」という絶対的な答えはないので、対話を通じて生成し続けていく状態になります。
その際、鍵となるのが絶対他者という概念です。たとえ今、この場で共通了解がつくられたとしても、その外側には、まったく別の見方や想像もつかない価値観を持つ他者が存在するという可能性を排除できません。この絶対他者の存在が、現象学と実在論の大きな違いです。
現象学の理論を哲学対話で実践する
梅崎:こうした現象学の理論を、実践しようとするのが、哲学対話なのですね。
岩内:企業や自治体、さらには学校やカルチャーセンターなどで、5歳から80代の方まで、あらゆる層と哲学対話を行っています。その目的は、普遍性をつくる哲学の社会実装です。お互いの意見を聞き合う傾聴にとどまらず、共通了解まで持っていくことを目指しています[図]。
[図]哲学対話
出典:岩内氏作成
梅崎:ビジネスの現場で行われるグループワークは、制限時間内に落としどころを見つける合意形成ゲームになりがちです。哲学対話の共通了解とはどういうものでしょうか。
岩内: ここでいう普遍性や共通了解とは、それぞれの「私」が自分の経験に照らして納得できる考え方のことです。過去の体験を振り返り、誰もが「確かにそうだな」と確かめることのできるものです。
たとえば先日、学生たちと「安心感」をテーマに哲学対話を行いました。まずは「ぬいぐるみを抱っこするとき」「自分の部屋にいるとき」など、自分が安心感を覚える具体的なエピソードを出してもらいました。もちろんこうした他者のリアルな感覚に触れることも意味がありますが、それだけでは「人それぞれ多様な感じ方があるね」で終わってしまいます。
そこで、皆の体験に共通する条件や構造をキーワードとして抽出していきます。最初は「温もり」や「一体感」といったいかにもありそうな言葉が出てきますが、さらに深掘りしていくと、ある学生が「境界(ボーダー)」という言葉を口にしたのです。ぬいぐるみを抱っこしているときも、自分の部屋にいるときも、自分と外の世界との境界が存在する。その境界が意識され、かつその内側で心身に危害を加わえらないと感じられたときに、安心感が生まれるのではないか、と。このとき「それだ!」と、場に納得感が広がりました。ありきたりな言葉では届かなかった本質に触れた瞬間だったと思います。
現象学の創始者フッサールが提唱した「本質観取」(ものごとの本質を探る営み)を複数人で実践する場が哲学対話だ
梅崎:メンバーが変われば、その内容も変わってしまうのでしょうか。それはそれでよいのでしょうか。
岩内:もちろん大きく違うときもありますし、表現のバリエーションも変わります。しかし、面白いのはここからです。私はベトナムやフランス、ドイツなど、異なる言語・文化環境でも哲学対話を行ってきました。どの言語で語られようが、たとえば「幸せ」の本質を探ると、その根底にある構造は驚くほど共通しています。
つまり普遍性とは、およそすべての人間が確かめて納得し得る1つの理念なのです。哲学対話では、20人程度の限定された空間での合意という形をとらざるを得ませんが、それは決してその場限りの相対的なものではないと私は思っています。
梅崎:ありきたりな合意で終わらせないために、対話のためのアドバイスをお願いします。
岩内:私は対話の場で、自分の体験に基づいた自分の言葉を大事にしてほしいと繰り返し伝えています。企業研修では、よく「ビジネス用語やカタカナ語に逃げないでください」とお願いします。その点、保育士や看護師の方は非常に上手ですね。彼らは日頃から、ごまかしのきかない子どもや患者さんに対し、本当に自分が思っていることをわかりやすく言葉にして届けようとしているからでしょう。どこかの歌詞や小説にありそうな、それらしい言葉を寄せ集めるのではなく、それぞれの「私」からしか出ない、等身大の言葉を紡ぐこと。私自身も自戒を込めて、常にそのことを意識しています。
Text= 瀬戸友子 Photo= 刑部友康 本人提供(岩内氏、哲学対話写真)

岩内 章太郎氏
Iwauchi Shotaro
豊橋技術科学大学 准教授
早稲田大学国際教養学部卒業、同大大学院国際コミュニケーション研究科博士後期課程修了。博士(国際コミュニケーション学)。早稲田大学国際教養学部助手等を経て2021年より現職。専門は現象学を中心とした哲学。
人事にすすめたい本
『〈普遍性〉をつくる哲学:「幸福」と「自由」をいかに守るか』
岩内 章太郎/ NHKブックス
現代実在論からポストモダン思想へ遡り、近代哲学の可能性を捉え直して、個人の幸福と自由を守るための哲学の役割を提示する。
梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。
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