大学での学びは、「無意味な仕事」にどう関わるのか
一旦第9回で示した調査枠組みに戻ってみたい。
私たちは当初、「無意味な仕事」を取り巻く条件として、A)仕事環境、B)回答者自身の特性、C)アウトカム、D)属性、という4つの領域を置いていた(図表1)。ここまでの連載で主に見てきたのは、職場の側で起きていることである。どんな詰まりが生じ、それがどのように温存され、何が人を離脱へ向かわせるのか。さらに、そうした状況に対して、どのような組織変革が効くのかを検討してきた。
図表1 調査枠組み
要するに、ここまでの連載は、A)とC)とD)との関連の中で「無意味な仕事」を見てきたのである。詰まりはどこで生まれるのか。雪だるまはなぜ大きくなるのか。誰がそれを抱えてしまうのか。そこを追ってきた。
では、B)はどうなのか。回答者自身の特性である。どんな考え方で仕事に向き合うのか。どんなふうに学び、整理し、動くのか。この部分は、調査枠組みの中に置きながら、これまで正面からはほとんど扱ってこなかった。最終回では、この宿題を回収したい。
回答者自身の特性のうち、今回あえて取り上げたいのが、大学での学びである。無意味な仕事の問題をこれまで職場の文脈から論じてきただけに、ここで大学教育を持ち出すことは、やや唐突に映るかもしれない。だが、もちろん理由はある。3つ挙げておきたい。
第一に、学びの履歴は、働き始めてからも尾を引く可能性があるからだ。大学時代にどのように学んだかは、その場限りの思い出ではない。問いを立てる。考えを整理する。概念で捉える。別の見方を探す。そうした作法が、その後の仕事やキャリアに持ち込まれることは十分ありうる。学びは終わらない、などときれいごとを言いたいのではない。良くも悪くも、終わってくれないのである。
第二に、本プロジェクトの中間報告でも触れたように、無意味な仕事の中核には「概念操作能力」の問題が潜んでいると考えられるからである。手段が目的化する。部分最適が全体を壊す。意味が共有されない。やっていることはあるのに、何のためにやっているのかがわからない。こうした事態は、要するに、概念がうまく働いていない状態でもある。そして大学教育は、概念化し、抽象化し、関係を捉え直す営みと無関係ではない。
第三に、無意味な仕事との向き合い方は、現場の工夫だけに還元できないからである。もちろん、無意味な仕事が生まれる舞台は会社や職場である。仕事設計、役割分担、評価、コミュニケーション、組織変革の不全。それでもなお、同じような職場にいても、何が本質で何が枝葉か、何が目的で何が手段かを見抜く力には差があるかもしれない。そこに教育の話を差し込む余地はある。
だから今回は、大学時代の学びを起点に、「無意味な仕事」との関係を見てみたい(図表2)。大学での学びは、無意味な仕事の経験とどう関係しているのか。さらに、概念操作能力など、仕事上の思考・行為様式を加味した時、その関係はどう見えてくるのか。大学での学びが救世主だなどと楽観するつもりはない。むしろ、そうならないからこそ、この関係を改めて見ておく意味がある。
図表2 分析枠組み
大学での学びは、「無意味な仕事」とどう関係しているのか
調査では、大卒以上の回答者に対し、大学時代の様々な活動について、どれほど熱心に取り組んだかを4件法で尋ねた。今回は、そのうち大学での学びに該当する4項目——講義、演習・ゼミ・研究室教育、自主的な勉強、卒論・修論・博論——について、「まったく熱心ではなかった」を1、「非常に熱心だった」を4として得点化し、その合計得点を「大学学び得点」として用いていく。
まず、この「大学学び得点」と「無意味な仕事」の経験との関係から見てみよう。図表2でいえば、【関係①】の分析である。データから得られたのが、図表3の結果である。ここから読み取れるのは、大学時代に学びに不熱心だった人ほど、「無意味な仕事」が4種類まで積み上がった状態に陥りやすい、という点である。
図表3 「大学での学び」×「無意味な仕事」
ただし、この傾向は決して劇的ではない。しかも、学びに熱心であれば一直線に有利になるわけでもない。むしろ素直な右肩下がりにはなっておらず、わずかではあるが、「学びほどよく」の層で無意味な仕事が少ない傾向にある。
では、この「微妙」な結果をどう考えればよいのか。可能性は二つある。
一つは、大学での学びが、概念操作など、「無意味な仕事」に対する武器の獲得につながっていない、という可能性である。だからこそ、結果が「微妙」なものにとどまったのではないか、という見方だ。もう一つは、私たちが武器になりうると考えていた力が、実のところ、武器としては働いていない可能性である。あるいは、別の使われ方をしているのかもしれない。
要するに、前者は【関係②】の不成立、後者は【関係③】の不成立に注目した解釈である。では、データはどちらを支持するのか。見てみよう。
大学での学びは、今の仕事の考え方に残っているのか
図表4は【関係②】を検証するためのグラフである。なお、「仕事上の思考・行為様式」については、能力を尋ねた項目のうち、「全体把握・概念化の思考様式」に当たるものを抽出し、それを合計した得点(5〜20点)に基づいて、低・中・高の3群に分類している。
図表4 「大学での学び」×「全体把握・概念化の思考様式(能力)」
図表4を見ると、大学時代によく学んだ人ほど、現在の仕事においても、物事を全体の中で捉え、背景を考え、概念で整理しながら進める傾向が強いことがわかる。少なくとも、大学での学びはその場限りで終わるわけではない。今の仕事の考え方に、確かに痕跡を残している。
この結果は重要だ。大学教育の意義はしばしば、「役に立つのか」という乱暴な言い方で問われる。だが少なくとも今回のデータは、大学での学びが、現在の仕事への向き合い方と無関係ではないことを示している。学んだことがすぐ売り上げになるわけではない。しかし、考え方の癖は残る。そこは見逃せない。
では、その力は「無意味な仕事」を減らす方向にも働いているのだろうか。図表5を見てみよう。
図表5 「全体把握・概念化の思考様式(能力)」×「無意味な仕事」(1)
ここで話は少しややこしくなる。「全体把握・概念化」の思考様式が強い人ほど、「無意味な仕事」が少ない、という図にはなっていない。むしろ皮肉なことに、能力が低い群のほうが、「無意味な仕事・少(0種類)」の割合は高い。ここだけを見ると、考えすぎないほうが得なのか、と言いたくもなる。
だが、グラフを丁寧に見てみると、能力が低い群は、「無意味な仕事・少(0種類)」の割合が高い一方で、「多(4種類)」の割合もほかの2群と同程度に高いことがわかる。つまり、ばらつきが大きいのである。うまく無関係でいられる人もいるが、一旦巻き込まれると、そこから抜け出しにくい。逆に、中位群や高位群は、完全に無傷というわけではないが、分布の仕方はもう少し平らである。
ここからうかがえるのは、全体を把握し、概念で考える力が、それだけで「無意味な仕事」から人を守ってくれるわけではない、ということだ。本来であれば、そうした力は、手段が目的化していないかを点検し、仕事を本来の筋に引き戻すための武器になるはずである。ところが現実の職場では、その武器が、無意味な仕事を減らすためではなく、むしろそれを抱え、つなぎ、説明し、何とか回すために使われてしまうことがある。賢いだけでは救われないのだ。
組織改革が進まない職場では、何が起きているのか
ただし、この結果だけではまだ十分ではない。問題は、こうした力がどのような職場で、どのように働いているのかである。図表6を見てもらいたい。これは、自分の勤務先について「組織改革が進んでいる」と回答したかどうかで回答者を分け、それぞれについて図表5と同様の分析を行ったものである。
図表6 「全体把握・概念化の思考様式(能力)」×「無意味な仕事」(2)
組織改革をしている企業

組織改革をしていない企業

ここで見えてくるのは、組織改革が進んでいない企業では、能力と無意味な仕事との関係がよりくっきり現れており、しかも能力が高い人ほど、「無意味な仕事」の雪だるま化に飲み込まれているという実態である。組織改革というと、制度的な変更を思い浮かべがちだが、本質的には、業務遂行や職場のコミュニケーションの質を立て直すことだと考えれば、合点がいく。そうした改善が進んでいない組織では、考え、調整し、説明できる人ほど、仕事のひずみを引き受ける側に回りやすいのである。
この結果はかなり重い。本来であれば、概念思考や全体把握は、無意味な仕事を減らすために使われるべき力である。だが、改革不全の組織では、そうした力が削減や再設計ではなく、既存のひずみを吸収し続けることに使われている。能力がないから、無意味な仕事が減らないのではない。能力が、後始末に吸われている。そこが問題なのだ。
ここまで来ると、大学関係者としては、少し気が滅入る。学生時代に学んでも、結局は職場のひずみの後始末に回されるだけではないか。だが、私はむしろ逆に考えたい。
大学教育の意義が見えにくいのは、教育だけの問題ではない
今回の結果が示しているのは、大学教育に意味がない、ということではない。大学での学びは、現在の仕事の考え方や向き合い方に、確かに反映されていた。そこは確認できた。大学教育は無力ではない。問題は、その力が職場でどう使われるかである。
組織改革が進んでいない職場では、概念化し、調整し、説明する力は、無意味な仕事を減らすためではなく、それを抱え、つなぎ、何とか回すために動員される。考えられる人ほど、しわ寄せを引き受けやすい。優秀さは、時に罰になる。悲観したくなる話だが、そういう組織はある。
ここで、大学教育の効用をめぐる議論は、少し組み替えたほうがよいだろう。大学教育に何の意味があるのか。そう問うだけでは足りない。大学教育が育てた力は、社会の中でどう使われているのか。そう問わなければならない。
もし、概念化し、全体を見渡し、問いを立て、説明する力が、職場で改善ではなく後始末に使われているのだとしたら、大学教育の意義が見えにくくなるのは当然である。教育が空虚だからではない。その力を活かしきれていない企業組織の側にも、問題があるからだ。
きつい言い方をすれば、日本の大学教育の意義が疑われる時、疑われるべきは大学だけではない。大学が育てた力を、変革ではなく延命に使ってしまう職場の問題も、相当に根深い。
最終回として
8回(第9~16回)にわたって、「無意味な仕事」を見てきた。分布を描き、タイプを分け、仕事の詰まり方を確かめ、温存の仕組みを検討してきた。さらに、それが何をむしばみ、何をなお保つのかを見極め、どのような組織変革が有効なのかを考えた。そして今回、枠組みに戻って、個人の側の条件にも目を向けた。
見えてきたのは、単純な話ではない。無意味な仕事は、怠け者の問題でも、気持ちの問題でも、能力の問題でもない。主として、それは仕事と組織の問題である。だが同時に、それにどう飲み込まれるか、どう抱え、どう問い直すかには、個人の側の資源も関わっている。
大学教育は、その資源の一部を育てているかもしれない。少なくとも、現在の仕事の考え方につながっていることは確認できた。だが、それだけでは足りない。その力が、無意味な仕事の削減ではなく、その吸収に使われてしまうなら、教育の効用は見えにくいままである。
だから最後は、少し意地悪に締めたい。
大学教育は役に立つのか。こうした問いを投げる前に、そもそも私たちが何を「有用だ」とみなしているのか、問い直したほうがよい。後始末をすることまで、有用性のうちに数えるのだとしたら、それはずいぶんさびしい。
学ぶことの意義は、本来、壊れたものを上手に抱えることではない。何が壊れているのかを見抜き、問い直し、別の仕立て方を考えるところにあるはずだ。その力が活きる職場をどう作るか。結局、そこへ戻ってくる。
遠回りしたが、最終回としては悪くない着地点だと思う。無意味な仕事をなくす鍵は、職場にもある。学びにもある。ただし、どちらか一方だけでは足りない。そこが、この連載で最後に手渡したい結論である。
濱中 淳子氏
早稲田大学教育・総合科学学術院・教授
東京大学大学院教育学研究科総合教育科学専攻博士課程修了。博士(教育学)。リクルートワークス研究所、大学入試センター研究開発部、東京大学高大接続研究開発センター教授等を経て、2019年4月より現職。
単著に『検証・学歴の効用』(勁草書房,2013年)、『「超」進学校 開成・灘の卒業生』(ちくま新書,2016年)、『大学でどう学ぶか』(ちくまプリマー新書,2025年)、共著に『教育劣位社会』(岩波書店,2016年)、『〈学ぶ学生〉の実像』(勁草書房,2024年)、編著に『大学入試改革は高校生の学習行動を変えるか』(ミネルヴァ書房,2019年)など。
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