AIの恩恵はなぜ社会全体に届かないのか
国際労働機関(ILO)チーフ・マクロエコノミスト。ドイツ出身。経済協力開発機構(OECD)、欧州中央銀行(ECB)を経て、2008年ILO入職。AI、人口動態、気候変動などの構造的課題が労働・雇用・所得分配に与える影響を専門に研究し、政策提言を行う。フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)博士号取得。
エッケハルト・エルンスト氏が描くFuture of Work
- 「生産性神話」の問い直し
AIは個人の生産性を高めるが、その効果は、企業やマクロ経済のレベルへ広がるにつれて大幅に減衰する。 - 「集計パラドックス」という視点
個人レベルでのAIの効果は、企業・国家レベルでの組織的な再設計を必要とする。その再設計なしには、AIの恩恵は社会全体へ波及しない。 - AIが生み出す価値の公正な分配
AIが生み出す価値は市場だけでは適切に分配されず、過度な資本集中と「AIトリレンマ」を招く。 - 技術開発の転換と柔軟な制度設計
AIの恩恵を社会全体へ届けるには、社会課題を起点とした技術開発と、進化し続ける制度設計が求められる。 - 公的な管理としくみの構築
デジタル主権基金などを通じて、富を公的に管理・運用し、「誰のための恩恵か」を問い直す。
AIが「生産性革命」を起こせない理由
AIをめぐる議論が「雇用の減少」に終始するなか、エルンスト氏は2018年に発表した研究レポート(※1)以降も、一貫して「AIの恩恵は社会全体にどう還元されるか」を問い続けてきた。同氏の思想の起点は、1つの鮮明な矛盾にある。個人のタスクレベルでは、条件を厳密に設計した比較実験で20〜60%程度の効率向上が確認されている。一方、その効果は企業レベルになると大幅に減衰し、組織全体の生産性をわずかに押し上げるにとどまる。さらに視点を広げ、マクロ経済全体の生産性統計を分析しても、その効果はほとんど検出されない。
エルンスト氏はこうした乖離の背景にある主な要因として、以下の4点を挙げている。
- AIの恩恵は、デジタル変革が進んだ一部の企業に集中している一方、多くの組織は依然として実験段階にある。
- 業務プロセスの再設計、組織体制の適応、スキル開発といった不可欠な補完的投資が、技術進歩と同じ速度で進んでいない。
- AIの恩恵をより広く社会へ行き渡らせるための競争環境や制度的枠組みが、十分に整備されていない。
- 経営者の問いは依然として、「AIには何ができるのか」に偏り、「AIによって何を実現すべきか」という視点に目を向けていない。
「集計パラドックス」— AIの恩恵が社会に届かないメカニズム —
エルンスト氏は、個人レベルでの効率向上が、企業や国全体の成長に反映されない根本的な原因として、個人・企業・国家という3つの層のあいだに恩恵を遮断する断絶が存在すると指摘する。この現象を同氏は、「集計パラドックス(Aggregation Paradox)」(※2)という概念で体系化している。
断絶の根本にあるのは技術の限界ではなく、AIを生かすための組織の再設計と制度の整備が技術の進歩に追いついていないことである。産業の電化やコンピューターの普及も、その効果が経済統計に表れるまでには数十年を要した。同氏はAIも同様の軌跡をたどると見ている。
ただし、AIには過去の汎用技術とは決定的に異なる特徴がある。過去の技術革新が主に製造業やルーティン業務を変えたのに対し、AIは知識労働から対人サービスまで、経済活動のほぼ全域に影響を及ぼす(※3)。その射程の広さゆえに、組織や制度の整備が追いつかなければ、AIが生み出す価値は一部に偏って分配されるリスクが高まる。では、その価値はどこへ向かい、誰のもとに届いているのか。
AIが生み出す「価値」の行方 — 集中する富、侵食される賃金 —
エッケハルト・エルンスト氏
AIが広がる現在の職場では、「効率性パラドックス(Efficiency Paradox)」と呼ばれる現象が静かに進行している。AIの導入によって特定作業が効率化されても、そのアウトプットを確認・検証する「認知的負荷」はむしろ増大する。さらに、節約されたはずの時間も別の業務に充てられるため、結果として労働の過密化と断片化が加速する。作業の効率化が生んだ価値は、働く人の負担軽減へ還元されにくいのだ。
エルンスト氏がより根本的な問題として挙げるのが、アルゴリズムによる価格・賃金操作である。AIを用いたダイナミックプライシング(動的価格設定システム)を導入した企業は、競合他社と一度も交渉することなく、市場全体の価格を暗黙のうちに「協調」させることができる。現行の競争法は人間の明示的なやりとりを前提にするため、機械同士の調整を取り締まる手段が乏しい。加えて、アルゴリズムの影響は価格形成にとどまらない。労働市場でも業務配分・評価・報酬決定がアルゴリズムに委ねられつつある。賃金の透明性や労働者の交渉力が損なわれる可能性も指摘されている(※4)。
こうした構造の根底にあるのが、AIをめぐる資本集中である。大規模モデルの開発と運用には膨大な計算資源と電力が必要であり、その負担を担えるのは一握りの巨大企業に限られる。これらの企業が膨大なデータと計算資源を独占することでアルゴリズムの決定権を握り、価格や賃金の形成に強い影響力を及ぼす。AIが生む富はごく少数の企業に集積され、経済全体への波及は極めて限定される。
同氏はこの構造的矛盾を「AIトリレンマ」として理論化する。現在のAI開発モデルでは、「生産性向上」「平等」「環境の持続可能性」という3つの社会的目標を同時に達成することは困難であり、これらが互いの足を引っ張り合う構造にある(※5)。AIが生み出す価値の分配は、市場に委ねるだけでは解決しない。制度の設計によって初めて、その恩恵を社会全体へと届けることができる。
AIを社会にどう組み込むか
エルンスト氏は、現在のAI開発の大半が、巨大モデルを先に構築し用途を後から探る「Supply-Push型(供給主導型)」であり、これが資本集中とトリレンマを深刻化させる要因であると指摘する。対して同氏が提唱する「Demand-Pull型(需要牽引型)」は、気候変動への適応を支えるスマートグリッドや、交通の最適化、医療、廃棄物管理など、社会課題を起点に技術開発の方向性を決める発想である(※6)。
この転換を実現するには、制度面からの後押しが欠かせない。たとえば、税制の重心を労働からエネルギーや資本へ移すことで、人間を補完する省エネ型AIの開発を促し、AIが生み出す利益を社会へ還元するしくみを構築する必要がある(※7)。ただし、AIには制度の単純な整備だけでは解決しきれない固有の課題も存在する。過去のデータに依存するAIは、発想や情報を均質化させ、未来の構造変化を捉えにくくする性質を持つ。これが結果として、社会全体の適応力を損なうリスクを生む。
こうしたAI固有のリスクも踏まえ、制度そのものを変化に応じて継続的に見直していく必要がある。エルンスト氏はこの一環として、AIが生み出す富や利益を市場任せにするのではなく、デジタル主権基金(Digital Sovereign Funds)のようなしくみを通じて、国家が公的に管理、運用すべきだと提唱する。「AIは何をもたらすのか」ではなく、「AIの恩恵を社会全体へ届けるにはどうすべきか」。その答えは、技術の中にではなく、私たちが選ぶ制度の中にある。
(※1)「The Economics of artificial intelligence: Implications for the future of work. ILO Future of Work Research Paper Series No.5(人工知能の経済学:仕事の未来へのインプリケーション。ILO「仕事の未来」研究論文シリーズ第5号)」。2018年公表。筆者:エッケハルト・エルンスト、ロッサーナ・メローラ、ダニエル・サマーン。https://www.ilo.org/sites/default/files/wcmsp5/groups/public/%40dgreports/%40cabinet/documents/publication/wcms_647306.pdf
(※2)「The Aggregation Paradox of AI: Why do micro-economic productivity gains from AI disappear at scale(AIの集計パラドックス:ミクロ経済レベルでの生産性向上は、なぜ規模拡大とともに消えるのか)」。2026年5月6日公表。著者:チュク・ユー・チェリル・チャン、カティア・シェダニア。エルンスト氏はチーフ・マクロエコノミストとして本研究を主導・監修した。https://www.ilo.org/sites/default/files/2026-05/Research%20Brief_The%20Aggregation%20Paradox%20of%20AI%20Why%20do%20micro-economic%20productivity%20gains%20from%20AI%20disappear%20at%20scale.pdf
(※3)「The impact of GenAI on jobs, productivity and work organization: a review of the empirical evidence(生成AIが雇用・生産性・仕事の組織に及ぼす影響:実証研究のレビュー)」。2026年6月公表。筆者:ロッサーナ・メローラ、エッケハルト・エルンスト、ダニエル・サマーンほか。https://www.ilo.org/sites/default/files/2026-06/Research%20Brief_The%20impact%20of%20GenAi%20on%20jobs%20and%20work%20organization%20a%20review%20of%20empirical%20evidence.pdf
(※4)「The Algorithmic Management of Work and its Implications in Different Contexts(アルゴリズムによる仕事の管理と、その多様な文脈における含意)」。ILO・欧州委員会。2022年公表。筆者:サラ・バイオッコ、エンリケ・フェルナンデス=マシアス、ウマ・ラニ、アンナローザ・ペゾーレ。https://www.ilo.org/sites/default/files/wcmsp5/groups/public/%40ed_emp/documents/publication/wcms_849220.pdf
(※5)「The AI trilemma: Saving the planet without ruining our jobs (AIのトリレンマ:雇用を損なうことなく地球を救う)」。2022年公表。筆者:エッケハルト・エルンスト。https://www.frontiersin.org/journals/artificial-intelligence/articles/10.3389/frai.2022.886561/full
(※6)前掲※5に同じ。
(※7)「Tackling AI, Taxation, and the Fair Distribution of AI's Benefits(AI課税とAIがもたらす利益の公平な分配に向けて)」。公平な成長のためのワシントン・センター。2025年公表。筆者:モナ・スローン、エッケハルト・エルンスト。https://equitablegrowth.org/tackling-ai-taxation-and-the-fair-distribution-of-ais-benefits/
取材・TEXT=田中美紀(客員研究員)
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