組織は人間の複雑さと向き合えるか ―「EI(感情知性)」の時代へ―
ミシュラングループ元執行副社長兼経営執行委員。1985年にミシュランに入社し、生産設備の自動化エンジニアとしてキャリアをスタート。40年にわたり世界各地の製造現場と組織改革に携わる。現在はミシュラン時代の経験を生かして、マネジメント改革、人材育成をテーマに講演・執筆活動を行う。
ジャン=クリストフ・ゲラン氏が描くFuture of Work
- トップダウン型マネジメントの限界
経営課題が複雑化するなか、経営層だけでは最適解を導くことは難しくなった。「価値を生み出すのは現場である」という前提に立つ発想への転換が求められる。 - 自律した「現場」が価値を生み出す組織
現場は指示を実行する場所ではなく、自ら考え、判断し、新たな価値を生み出す主体である。これに伴い、マネジャーの役割も、従来の「管理」から「支援」へと変わる。 - 組織は人間の複雑さと向き合えるか
人間は本質的に複雑であり、その感情や行動を予測することも標準化することもできない。だからこそ組織には、人と向き合い、育て続ける姿勢が求められる。 - 「頭ではなく、心で学ぶ」
AIが進化するほど、「EI(感情知性)」を実践できる人々が、未来の組織を支える中核となる。
トップダウン型マネジメントはなぜ限界を迎えたのか
企業を取り巻く環境は、この20年で大きく変化した。企業が日々向き合うべき経営課題は、かつては利益や品質など、4〜5項目ほどの限られた領域に集約されていた。しかし、現在では顧客満足、環境、安全など、多様な領域へと広がった。その結果、経営課題の数は20〜25項目へと、約5倍に拡大した。しかも、それぞれを個別に最適化するのではなく、相互に両立させながら実現することが求められている。
大量生産や効率化を追求した時代には、経営層が方針を決め、管理職が現場へ伝え、現場が実行するトップダウン型のマネジメントが機能してきた。しかし、経営課題が複雑化した現代においては、経営層だけで不確実な市場に対する最適な答えを導き出すことは難しい。現場で生まれた改善提案や課題を組織全体で共有し、経営の意思決定へとリアルタイムに反映させていくことが、これからのマネジメントに不可欠となる。
こうした構造的な限界を乗り越えるために、ミシュランはマネジメントそのものの在り方を根本から見直す決断をした。長年にわたり世界各国の現場と向き合ってきたなかで、ゲラン氏がたどり着いたのは、「現場は指示を実行する場所ではなく、自ら考え、判断し、新たな価値を生み出す主体である」という認識であった。同氏は、「この認識の転換こそが、組織全体の改革を動かす原動力だった」と語る。
「現場」が力を発揮する組織へ
ミシュランにおいて「現場」とは、タイヤを製造する工場の最前線を指す。しかしその本質的な意味は場所にとどまらない。顧客へ届ける価値を日々生み出し、磨き続ける人々の営みそのものを意味する。企業の競争力の源泉は、この営みが息づく現場にこそ存在する。したがって、現場を管理や統制の対象として捉えるのではなく、価値を生み出す主体として組織全体が支えるという発想への転換が、すべての改革の前提となった。
「現場を変える前に、まず自分たちが変わらなければならない」。ゲラン氏は、「この決断こそが、すべての出発点だった」と語る。経営層が現場を支えるという思想を共有し、その考えがマネジャーへと浸透したことで、従来の「管理者」から「支援者」への役割の転換が進んだ。マネジャーの根本的な使命を「現場で働く人たちを支えること」と再定義し、マネジャーは現場を管理統制する存在ではなく、現場が成果を生み出せる環境を整え、その妨げとなる課題を取り除く「支援者」へと役割を変えた。この転換は一人ひとりのマネジャーにとどまらず、組織全体が現場を支える体制へと広がった。まさに「ピラミッドの逆転」である。
この「ピラミッドの逆転」を実践するしくみとして導入されたのが「WINカード(※1)」である。現場で生まれた課題や改善提案を、マネジャーから経営層へ届けることで、現場の一人ひとりの声が組織を動かすという文化の定着を目指した。経営層は、問題提起を例外なく受け入れ、対応する責任が課された。現場が信頼され、裁量を託されることで、人は自ら考え、挑戦し、価値を生み出すようになる。こうした経験の積み重ねが、現場の主体性を引き出し、継続的な改善を生み出す組織文化へとつながっていった。
組織は人間の複雑さと向き合えるか
― なぜ優れた制度だけでは十分ではないのか ―
「価値を生み出すのは現場である」。このシンプルな思想の基で進められた改革は、業績とエンゲージメントの両面で成果を挙げ、人が力を発揮できる組織づくりは正しい方向に進んでいると、ゲラン氏は確信していた。しかし、その確信を大きく揺るがす出来事があった。それは、ミシュランで43年間にわたり工員として働いた、ジャン=ミシェル・フリクソン氏の著書『Michelin, matricule F276710(※2)』との出合いであった。その内容に衝撃を受けたゲラン氏は、自らフリクソン氏に面会を申し込んだ。
フリクソン氏は、10年以上にわたり直属のマネジャーから、威圧的な言動や過度な統制を受け、心身ともに追い詰められていた経験を語った。しかし、このマネジャーが異動になると、状況は一変する。「私はより高いパフォーマンスを発揮できるようになり、もう職場へ行くのが怖くなくなった」と、フリクソン氏は当時を振り返る。制度も、職場も、作業内容も変わっていない。直属のマネジャーが変わっただけだった。この事実は、ゲラン氏がそれまで信じてきた「優れた制度と企業文化があれば、人は力を発揮できる」という確信に対する警鐘となった。優れた制度と企業文化、そしてその根底にある価値観だけでは、人が最大限の力を発揮するには十分ではない。制度やしくみに加えて、マネジャーとの日々の関わりが、その人間的な次元において、一人ひとりのエンゲージメント・成長・潜在能力の発揮に大きく影響する。この経験を通じて、ゲラン氏は、この事実をすべてのマネジャーが改めて認識する必要があると考えるようになった。
ジャン=クリストフ・ゲラン氏
ゲラン氏は、フリクソン氏の直属のマネジャー個人の資質を問うのではなく、そのような状況が10年以上も続いていたにもかかわらず、なぜ組織がそれを止められなかったのかという本質的な問題に目を向ける。制度は、管理・意思決定・問題解決といったメカニズムを標準化することはできる。しかし、制度に頼りすぎることで、マネジャーが現場の人々と直接向き合う時間の大切さを見失ってしまうことがある。現場で働く人が日々向き合っているのは、制度ではなく、同僚やマネジャーとの相互作用から生まれる人間関係であり、それは、目に見えにくく、測定しにくいという現実である。
ゲラン氏は、この問題を「一人のマネジャーの人間性や悪意だけで説明することはできない」と語る。マネジャーもまた一人の人間にすぎず、過去の経験や心の傷、責任の重圧、新しい役職への戸惑い、過度な自信、あるいはストレス、上位者からのプレッシャー、業務過多など、さまざまな要因によって、それまでとは異なる振る舞いをすることがある。人間は本質的に複雑な存在であり、その感情や行動を完全に予測し、標準化することはできない。だからこそ組織は、マネジャーという役割が現場に与える影響力の大きさを深く認識する必要がある。人間の複雑さを前提に据え、彼らを育成し、必要なときには支え、軌道修正できるしくみを持たなければならない。
「人を育てる責任」を組織が負うとき
ミシュランは、マネジャー個人の資質や努力にすべてを委ねるのではなく、組織全体で現場とマネジャーの両方を支える体制を構築した。その中核を担ったしくみの一つが、「Service du Personnel(従業員相談窓口)」である。同部門は事業部門やオペレーション部門から完全に独立し、経営委員会に直属する強力な権限を持つ。全従業員が、いつでもこの窓口を通じて、職場への不満や懸念を直訴できる体制を整えた。このしくみは、誰もが対等に声を上げられることを保障し、組織全体で問題を把握し対応するために機能する。状況の深刻度に応じて、対象者への個別支援や処遇の見直しが検討される。
加えて、従業員が匿名でマネジャーを評価する年次調査の導入により、部下がマネジャーの資質を問う権限を与えた。ハラスメントなどの深刻なリスクに対しては、独立した専門部署による「倫理ホットライン」が救済措置として対応する。こうして、1つの制度や1人のマネジャーの判断に依存しない、組織全体での軌道修正を可能とするガバナンス体制が整えられた。
人は「頭ではなく、心で学ぶ」
期待されるマネジメントの質を実現するには、マネジャーの育成そのものに向き合う必要がある。ゲラン氏は、従来の研修のように知識や手法をスライドで一方的に伝えるのではなく、現場で実際に起きた経験を出発点とする研修へと転換した。その象徴が、フリクソン氏を研修の場に招き、自身の経験を自身の言葉でマネジャーたちに直接語ってもらう試みであった。
この研修は、多くのマネジャーに大きな気づきを与えた。ゲラン氏は、「On apprend mieux par le cœur que par cœur(人は頭ではなく、心が動くことによって学ぶ)」と語る。人間は正論を理解しただけでは変わらない。他者の経験に触れ、その痛みや喜びを自分のこととして受け止めることができたとき、初めて自らの振る舞いを見つめ直し行動を変えることができる。AIが社会に浸透する時代においても、人を育てる立場にある者に求められるのは、人の感情を理解し、人との信頼関係を築く能力、すなわち「EI(感情知性)」にほかならない。
Future of Workを形づくるのは、最先端のテクノロジーや洗練された人事制度だけではない。現場の一人ひとりと心で向き合い、信頼関係を築く「EI」を実践できるリーダーの存在こそが、これからの自律的組織を支える中核となる。これこそが、40年にわたり現場の最前線で人間を見つめ続けてきたゲラン氏が、ミシュランでの経験を通じて導き出したFuture of Workへの答えである。
(※1)正式名称は「What Is Important Now?(今、最も重要なことは何か?)カード」。ミシュランの製造現場で、現場の課題を組織全体で共有し、解決につなげるために導入されたしくみである。マネジャーが担当者に対して定期的に行うヒアリングの際、担当者は課題をグリーンカード(チーム内で解決できる問題)またはレッドカード(チーム単独では解決できない問題)で報告する。レッドカードはマネジャーが引き取り、解決できない場合はさらに上位へ引き継がれ、最終的に経営層まで届く。
(※2)17歳で見習いとして入社してから、ミシュランの製造現場での経験・出会い・感情・そして深い傷を伴った工員人生の記録。2021年4月、NomBre 7 éditionsから刊行。
取材・TEXT=田中美紀(客員研究員)
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