
フランスの「AI大国計画」で労働市場に変革の波をもたらす
AI関連投資、過去最大の1090億ユーロに到達
現在のフランスにおけるAI関連投資は、同国の産業政策における最優先事項を反映するバロメーターである。2025年2月、パリで開催された「AIアクションサミット(※1)」において、マクロン大統領は、今後数年間で民間主導により総額1090億ユーロがAI分野に投資される見通しであると発表した(※2)。
続く5月には、外国直接投資(FDI)の誘致を目的とした年次イベント「Choose France」が開催され、第8回となる今回は53のプロジェクトに対し、過去最高額となる総額408億ユーロの投資が発表された(※3)。中でもAI関連プロジェクトは際立っており、全体の約3割を占める規模となっている(※4)。
これまでIT革命において主導権を握ることができなかったフランスであるが、AIの覇権争いにおいては米国や中国に後れを取らない姿勢を明確にしている。特に、欧州における技術的自立を視野に入れたこの取り組みは、EU域内でのリーダー的地位の確立を目指す強いメッセージと位置づけられる。
「AI大国計画」第3フェーズへ突入
政府は2025年2月に開催されたAIアクションサミットを契機として、2018年および2022年(※5)(※6)に続く第3の国家AI戦略、通称「AI大国計画」を発表した。国家規模でのAI推進政策は、労働市場の構造や、求められる職業スキルの在り方に大きな変化をもたらす可能性があるとされている(※7)。
第3フェーズでは、次の4つの優先課題に基づき、継続的な投資が行われる予定である。
- 計算基盤やAIバリューチェーンにおける重要インフラの強化
- フランスの競争力を支える要素としてのAI人材の育成と誘致
- AIの社会実装と利用の加速
- 信頼性あるAIの構築に向けた体制整備と手段の確保
この国家戦略は、2025年1月末に欧州委員会が発表した「競争力コンパス(Competitiveness Compass)※8」と連動しており、AIアクションサミットでマクロン大統領が掲げた、欧州のテック・リーダー育成支援策とも整合している。
第1の課題に関しては、フランス国内の90%がすでに光ファイバー網でカバーされている点や、EU全体に接続する海底ケーブルの3分の2がフランスに上陸している点など、既存の優位性をさらに強化する方針である。第2の課題では、米国トランプ政権下での研究機関における予算・人員削減を好機と捉え、フランス政府は、優秀な米国人研究者の受け入れを積極的に進めている。高等教育機関や研究機関において、フランスに拠点を移す研究者に対し1億ユーロの支援を表明しており、すでに300名の研究者が移住を決定している(※9)。なお、フランスは、AI 専門の研究者数で世界第3 位に位置している。
雇用政策分野におけるAI活用
第3フェーズでは、AI導入の重点分野として、教育、司法、医療、環境保護、軍事、労働が挙げられている。中でも特に注目されているのが、労働市場へのAI導入である。
仏労働省は、AIを活用することでフランス企業の生産性と競争力を高め、長期的な構造的失業の予防を目指している。その一環として、公共職業安定所(France Travail)は、スタートアップ企業Mistral AI(※10)と提携し、社内業務文書と連動するチャットボット「ChatFT(※11)」や、求人と求職者の条件を自動照合するマッチングツール「MatchFT(※12)」など、実用的なAIツールの開発を進めている。
また、国立研究機関INRIA(国立デジタル科学技術研究所※13)は、仏労働省と連携しAIが雇用や働き方に与える影響を検証する研究ラボ「LaborIA(※14)」を設立した。知見の蓄積と社会的議論の促進を通じて、AI時代における労働の在り方を探る取り組みが本格化している。
HRイベントでもAIが話題の中心テーマに
国家戦略としてAIの推進に注力するフランスにとって、現場レベルでのAIの浸透が職場や人事部門に与える影響は極めて重要な関心事である。その一端が明らかになったのが、2025年1月にパリで開催されたHRテック系の最大イベント「HR Technologies France 2025(※15)」である。
本イベントでは、300を超えるカンファレンス、ラウンドテーブル、基調講演、ケーススタディ、ライブセッションのほぼすべてでAIが取り上げられた。議論は、AI導入の実装事例から技術的課題、データの機密性、倫理的・環境的観点に至るまで、多岐にわたった。
HR部門におけるAI活用は、生産性向上や人的資本強化にとどまらず、労働条件の改善、雇用の質の向上、採用業務の高度化など幅広い領域に変革をもたらしている。
AI普及で再構築されるHRの現場
現代社会は、「VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)」から、「BANI(壊れやすさ・不安定さ・非線形性・理解困難性)」という、より複雑な時代へと移行しつつある。このような予測不能な未来に対応を迫られているのが人事部門(HR)である。
カンファレンスでは、多くのHR担当者が戦略的パートナーとしての存在感を高めるには、経営陣や他部門と「共通言語」で対話することが不可欠であると語っていた。その言語とは、ビジネス指標、ROI(投資対効果)、そしてデータである。
HR部門が、セールスやマーケティングと同様にデータに基づいた意思決定を行うことで、経営陣に対する明確な提言が可能となる。AIを活用してデータを可視化・分析するスキルを備えることは、HRが企業戦略において主導的な役割を果たす上で、ますます重要な鍵となっている。
今回のイベントでは、こうした変化の最前線にある具体例が多数紹介され、「労働のアルゴリズム化(※16)」という新たな課題も浮かび上がった。
「人間中心」のHRの再定義
AIの進化に伴い、HR業務は「効率化」と「個別化」という二つの要請のはざまで再構築の局面を迎えている。2025年に開催されたHR Technologies France では、多くの人事担当者が「AI導入には現場の声を丁寧にすくい上げる文化が不可欠である」と語っていた。この姿勢には、「人間性」を重視するフランスらしさが色濃く表れている。
アルゴリズムによる管理が進む中で、HRにはこれまで以上に人間らしさを保つこと、対話を基盤とした新たな役割が求められている。AIと共に働く時代において、HRは、単なる業務効率化の担い手ではなく、人間性を軸とした組織づくりの中核を担う存在である。HR Technologies Franceは、こうした変化の縮図として、AI時代における「人間中心」のHRの在り方を問いかける場となった。
(※1)エリゼ宮のHP
このサミットでは、AIの開発と普及がフランス社会、経済、環境にもたらす利益を確実なものとするため、具体的な行動について協議が行われた。政府、国際機関、関連企業、教育機関、アーティスト、アソシエーションなど、多様な主体が一堂に会し、欧州でも最大規模のサミットとして開催された。
https://www.elysee.fr/en/sommet-pour-l-action-sur-l-ia
(※2)ル・モンド紙のネット記事
https://www.lemonde.fr/pixels/article/2025/02/09/intelligence-artificielle-emmanuel-macron-annonce-des-investissements-en-france-de-109-milliards-d-euros-dans-les-prochaines-annees_6539115_4408996.html
(※3)仏政府の情報サイト
https://www.info.gouv.fr/actualite/la-creativite-au-coeur-du-sommet-choose-france
(※4)仏政府の情報サイト
AI分野における代表的な投資内容は以下。
① Brookfield:カンブレ(フランス北部)の「E-Valley」パイロットサイトにおけるAIインフラ整備のため、100億ユーロを投資。直接・間接あわせて4000人の雇用が見込まれている。
② MGX、Bpifrance、Mistral AI、Nvidia:パリ近郊において、データセンター、高性能計算、教育、研究を統合したAIキャンパス構築のため、85億ユーロを投資。
③ Prologis:パリ近郊において、デジタルインフラ分野の4つの大規模データセンタープロジェクトに対し、総額64億ユーロを投資。直接・間接で3400人の雇用創出を見込む。合計584メガワットの処理能力を備える予定。
④ Digital Realty:マルセイユとパリ近郊のDugnyにて、2つのデータセンタープロジェクトに23億ユーロを投資。直接・間接で750人の雇用を創出予定。
(※5)(※6)仏政府のサイト
フランス政府はこれまでに、2段階にわたる「国家AI戦略」を展開してきた。第1期(2018〜2022年)では、AIエコシステムの基盤整備、人材育成、イノベーション支援を柱にして総額15億ユーロを投資した。主な取り組みには、AI研究所「3IA」の創設(4カ所)、スーパーコンピューター「Jean Zay」の建設、医療データプラットフォーム「Health Data Hub」の創設、180の研究講座と300の博士課程ポストの設置、そして年間4万人以上のAI専攻学生の育成が含まれる。続く第2期(2022〜2025年)では、国家投資計画「フランス2030」の枠組のもと、生成AIの社会実装と普及促進に焦点を当て、10億ユーロを投じている。具体的には、AI クラスター9カ所の新設、「Jean Zay」の性能拡張、AI専攻学生数の年間4万人から10万人への拡大、公的および民間の研究開発(R&D)に対する4億ユーロの直接支援などが実施されている。
https://www.info.gouv.fr/upload/media/content/0001/13/ea73585b1ba9abc54279a60ce439100bb85b700b.pdf
(※7)仏政府の情報サイト
https://www.info.gouv.fr/upload/media/content/0001/13/ea73585b1ba9abc54279a60ce439100bb85b700b.pdf
(※8)欧州委員会のHP
https://commission.europa.eu/topics/eu-competitiveness/competitiveness-compass_en
(※9)情報サイトFranceinfo
https://www.franceinfo.fr/sciences/choose-europe-for-science-certains-chercheurs-americains-choisissent-deja-la-france_7230585.html
(※10)仏経済紙「Les Echos」の報道によると、Mistral AIは企業評価額が60 億ドルに達する、made in Franceの生成AIであり、欧州における「AI巨人」とも称されるユニコーン企業である。2024年には、マイクロソフトがMistral AIとの提携を発表し、戦略的パートナーシップを締結した。マイクロソフトは1500万ユーロを投じ、Mistral AI のモデルを自社のクラウドサービス「Azure(アジュール)」上で利用可能にする計画を明らかにしている、この発表は、欧州におけるOpenAIの主要な競合相手との提携として、大きな驚きをもって受け止められた。
https://investir.lesechos.fr/marches-indices/economie-politique/mistral-ai-a-triple-son-chiffre-daffaires-sur-les-100-derniers-jours-dit-son-pdg-2163997#:~:text=Mistral%20AI%2C%20dont%20la%20valorisation,de%20dollars%20l'ann%C3%A9e%20derni%C3%A8re
https://investir.lesechos.fr/actu-des-valeurs/la-vie-des-actions/la-start-up-francaise-mistral-ai-annonce-un-partenariat-avec-microsoft-2078739
(※11) IT専門情報サイト
ChatFTは、組織内の情報に直接接続された日常業務向けのパーソナルアシスタントである。職員が直接アクセス可能な形で提供されており、他の業務用ツールとも統合されている。このツールの導入により、文書作成などのルーティン業務に費やす時間が大幅に削減されている。現在、France Travailの職員のうち50%を超える約4万人が活用している。
https://www.lemondeinformatique.fr/actualites/lire-france-travail-active-la-genai-dans-ses-agences-97073.html
(※12) IT専門情報サイト
MatchFTは、その名の通り、求人と求職のマッチングを目的としたツールである。会話形式のガイダンスを通じて候補者の事前選考を簡素化し、採用プロセスの迅速化を図っている。具体的には、バーチャルアシスタントが特定の求人に対して、あらかじめ選定された候補者にショートメッセージを送信し、求人への関心、勤務地へのアクセス状況、勤務可能な日時、業務内容への理解と興味、職務遂行能力などについて質問を行う。これにより、より的確かつスピーディなマッチングが可能となっている。
https://www.lemondeinformatique.fr/actualites/lire-france-travail-active-la-genai-dans-ses-agences-97073.html
(※13)INRIA のHP
2024年よりINRIA(国立情報学自動制御研究所)は、国立デジタル科学技術研究所へと名称が変更された。同機関は1967年に設立された、デジタル科学技術を専門とするフランス唯一の国立研究機関である。研究分野は多岐にわたるが、主な領域は人工知能(AI)、ロボティックス、ネットワーク、loT(モノのインターネット)、量子技術などである。2024年時点での職員数は4838人であり、そのうち3421人が科学者で構成されている。
https://www.inria.fr/fr
(※14)LaborIAのHP
LaborIAは、2021年11月に設立された機関であり、AIが労働、雇用、スキル、そして社会的対話に与える影響を専門的に検証することを目的としている。当時の労働・雇用・社会復帰大臣であったエリザベット・ボルヌ氏が、国立情報学自動制御研究所(INRIA)との協定に署名し、設立に至った。
https://www.laboria.ai/le-laboria/
(※15)HR Technologies FranceのHP
HR Technologiesは、数あるHRテック系カンファレンスの中でも、欧州最大規模のイベントとされている。そのパリ版である「HR Technologies France」は、2025年1月28日から29日にかけて、パリのコンベンションセンターにて開催された。今年で3回目の開催となった本イベントは、HR系コンサルティング会社およびリサーチ機関である「Parlons RH」との共催により開催された。テーマは、「予測困難な時代において、人事担当者はいかに対応すべきか」である。また、「Learning Technologies France」も同時開催され、HR、人材開発、研修分野のプロフェッショナルが一堂に会し、来場数は14000人を超えた。今年の出展社数は350社・団体で、その顔ぶれは以下の通りである。
1、中小企業:HRソフトウェア、HRIS、コーチング系(約40%)2、フランスの大企業または国際的な大手企業のフランス子会社:HRテック分野(約30~35%)3、スタートアップ:採用、AI、タレントマネジメント分野(10~15%程度)4、ビジネススクール、人事機関、教育機関など(10~15%程度)。
https://www.hrtechnologiesfrance.com/
(※16)「労働のアルゴリズム化」とは、仕事におけるさまざまなプロセスや意思決定が、アルゴリズムによって管理・制御されることを指す。この概念は単なるデジタル化にとどまらず、「人間の判断」が徐々にアルゴリズムに置き換えられていく過程を意味している。フランスにおいては、この動きが労働の人間性の喪失や、労働者の自由度の縮小につながるリスクが注目されている。LaborIAなどの報告書では、「判断の自動化」が労働の質や自由に与える影響が特に強調されており、深刻な社会問題として位置づけられている(参考 : LaborIAのレポート « Laboratoire d’Innovation pour l’Intelligence Artificielle et le Travail »。現在では、「AIの導入は社会的対話を通じて進めるべきである」という原則が強く打ち出されており、技術革新と人間中心の労働環境の両立が求められている。

田中 美紀
パリ大学経済学部修士課程修了。パリ在の日仏系シンク・タンクに勤務後、2018年より独立。
現在、ビジネスファシリテーター・コンサルタントとして幅広い分野で活躍中。
社会・労働・経済分野におけるリサーチ業も行う。
2022年2月よりリクルートワークス研究所の客員研究員として入所。