ピサリデス・レビューが問う、雇用の量の先にある働き方の未来
英国の研究機関Institute for the Future of Work(未来労働研究所)社会調査担当アソシエイト・ディレクター。ケンブリッジ大学で社会学博士号を取得。ノーベル経済学賞を共同受賞したクリストファー・ピサリデス教授が主導した大規模研究「ピサリデス・レビュー(※1)」の主要研究メンバー。
マグダレナ・ソフィアが描くFuture of Work
- 「仕事の数」から「仕事の経験」へ
Future of Work研究が問うべきなのは、雇用の増減ではなく、働く人が変化をどう経験しているかである。 - 雇用の維持は、ウェルビーイングの維持を意味しない
雇用が守られても、裁量や自律性が失われれば、人々のウェルビーイングは損なわれる。 - AIの成否は、組織設計が決める
AIが人の能力を拡張するか、それとも監視を強めるか。その違いを生むのは技術ではなく組織のあり方である。 -
問うべきはスキルではなく、人の可能性
重要なのはスキルの保有ではない。その能力を実際に発揮し、人生の選択肢を広げられる環境があるかどうかだ。 - 技術に人間が適応するのではない
人間を技術に合わせるのではなく、人間の可能性のために技術を設計する。それがFuture of Workの出発点である。
「ピサリデス・レビュー」の原点
雇用喪失の予測は、長年Future of Work研究の中心にあった。どのくらいの仕事が喪失し、どれだけの仕事が創出されるのか。従来のFuture of Work研究では、求人データ分析などを通じて、産業別の影響が試算されてきた。しかしソフィア氏は、その枠組み自体に問いを立てる。求人データから見えるのは企業側の需要であり、労働者が実際にどう変化へ適応し、何を経験しているのかは見えてこない。
2010年のピサリデス教授らのノーベル賞受賞につながった「Search and Matching Theory(サーチ・アンド・マッチング理論)(※2)」が示すのは、求職者と求人は存在するだけでは結びつかないという事実である。求職者と求人が適切に結びつくまでには時間とコストがかかる。新しい仕事が創出されても、人々がすぐにそこへ移れるわけではない。重要なのは仕事の「数」ではなく、人々が実際にその機会へ移行できるかである。ピサリデス・レビューはそこから問いを立て直した。
「仕事の質」がなぜ注目されるのか
さらに、レビューは「仕事の質が維持されていない場合、それは失業と同様に、人々の身体的・精神的健康に深刻な影響を及ぼすことがある」と問題提起している。
失業が人々のウェルビーイングに深刻な影響を与えることは広く知られている。しかしソフィア氏は、AIの導入によって「雇用数」は減少しなかったとしても、「仕事の質」が損なわれれば、人々のウェルビーイングが守られているとはいえないと指摘する。
この指摘は、抽象論ではなく、既に現実の職場で進行している変化を示している。たとえば物流倉庫や小売業では、AIによる行動監視システムが導入され、作業ペースや休憩時間、動線などが詳細に記録される事例が報告されている。技術的失業は起きていないものの、働く人々の裁量が制約されるケースも見られる。雇用統計だけではこうした変化を十分に捉えることは難しい。だからこそ、問いの立て方を変える必要が生じた。
ピサリデス・レビューにおける「Good Work(よい仕事)」の意味
レビューは、「Good Work(よい仕事)」を研究の中核に据えた。この概念を感覚論で語らず、内在的・外在的要素の2側面から明確に定義している。「裁量と自律性」「能力の発揮」「意思決定への参加」「社会的なつながり」などの内在的要素と、「賃金・雇用保障・安全性」といった外在的要素の両方が揃ってはじめて成立する。
注目すべきは、「働く意味」という主観的な問いと、賃金や安全性という客観的な条件を切り離さない点だ。仕事の満足度や生きがいも、劣悪な職場環境や不安定な雇用の上に成り立つのであれば、それは個人の忍耐に依存した話でしかない。仕事とは所得獲得の手段であるだけでなく、人間が能力を発揮し、社会との関係を築き、自らの人生を形成する場である。「Good Work(よい仕事)」の概念は、その両側面を同時に問うことでその仕事の本質を捉える。
「自動化の運命論」を拒否する
AIによる自動化は仕事の質を高めるのか、という問いに対し、ソフィア氏は「Automation is not destiny(自動化は運命ではない)」と断言する。同じAIでも、ある組織では働く人の能力を拡張し、別の組織では監視と作業の単純化を強める。その違いを生むのは技術ではなく、組織の設計である。
従業員の成長と能力開発を重視する労働環境ほど、AI導入の効果はポジティブに表れる。これがレビューの実証的な結論である。裏を返せば、どれほど優れたAIツールを導入し、作業を自動化しても、組織文化が人材を消耗品として扱う限り、テクノロジーは人を支援するのではなく代替する方向へ働く。テクノロジーは、いわば組織が持つ力学を増幅する「鏡」なのである。
ではどのような組織設計が必要か。ソフィア氏は4つの軸を挙げる。
- 人材育成
リスキリングは個人の自己責任ではない。学習を勤務時間に組み込み、試行錯誤を支援するしくみが求められる。「学びたければ自分で」という発想だけでは、変化の速度に個人が対応することは難しい。学習を業務の一部として組み込むことが、企業にも求められる。 - 透明性
なぜAIを導入するのか、データはどう使われるのか、仕事はどう変わるのか。説明なき導入は不信を生む。特に、AIが評価や人事判断に関わる場合、その基準とプロセスを明示しなければ、働く人は「見えない審判員」に支配される感覚を抱く。 - 従業員の参加
現場の声が反映されないAIは、受け入れられにくい。導入後に形式的にフィードバックを求めるのではなく、設計段階から現場の経験と知識を取り込む構造が必要である。 - ガバナンス
AI導入は、ITプロジェクトではない。組織そのものの再設計であり、経営・人事・現場・労働組合が関与する意思決定の枠組みが求められる。
「スキル」ではなく「能力形成」という問い
マグダレナ・ソフィア氏
AI時代には技術スキルが必要であるという論調は根強い。しかしピサリデス・レビューが6500万件以上の求人データを分析して見えてきたのは、技術スキル単独の需要拡大ではなかった。AIやデータ分析への需要は確かに高まっているが、同時にコミュニケーション・協働・問題解決といった能力の需要も高まっている。スキルは単独では機能せず、クラスターとして機能する。
ソフィア氏が重視するのが、経済学者アマルティア・センが提唱した「Capability Approach(潜在能力アプローチ)(※3)」だ。人間をスキルの集合として捉えるのではなく、実際にどのような可能性を持ち、どのような人生を選べるかを問う視点である。
重要なのは「スキルを持っているか」ではなく、「そのスキルを実際に活かせる環境にあるか」である。育児や介護の制約を抱えた人が、いかに優れたスキルを持っていても、それを発揮できない環境に置かれているなら、潜在能力は十分に活かされないままになる。Capability Approachが明らかにするのは、その見えにくい不平等である。
従来の発想では、人は技術に適応する存在だった。Capability Approachは、人を、未来を形成する主体として捉え直す。この転換こそが、欧州のFuture of Work研究における重要な変化である。
人間の可能性のために技術を設計する
レビューの最終報告書は「Human-Centred Automation(人間中心の自動化)」という概念で締めくくられる。これは倫理的なスローガンではなく、技術変化を社会・経済・組織の変化と不可分なものとして捉える「社会技術的アプローチ」である。
AIをどう導入するかの前に、問うべきことがある。「私たちはどのような仕事を望むのか」「どのような組織を作りたいのか」「どのような社会を目指したいのか」。人間が技術に適応するのではない。技術を、人間の可能性のために設計する。それがレビューの結論である。
(※1)正式名称は「The Pissarides Review into the Future of Work and Wellbeing(労働とウェルビーイングの未来に関するピサリデス・レビュー)」。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授でノーベル経済学賞受賞者のクリストファー・ピサリデス氏が主導し、同氏が共同創設した英国の研究機関Institute for the Future of Workが、インペリアル・カレッジ・ロンドンおよびウォーリック・ビジネス・スクールと連携して実施した大規模研究。2025年1月に最終報告書を発表している。 https://pissaridesreview.ifow.org/
(※2)ピーター・ダイアモンド氏、デール・モーテンセン氏、ピサリデス氏が共同で開発し、2010年のノーベル賞共同受賞につながった理論。
(※3)人々が実際に実現できる機能や自由、健康でいられるか、教育を受けられるか、社会に参加できるか、を重視する福祉論の枠組み。スキルや知識の保有よりも、それを実際に活かせる環境や自由があるかどうかを問う。
取材・TEXT=田中美紀(客員研究員)
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