AIがもたらす労働市場の「境界線の移動」と「質的変化」の本質

欧州委員会(EC:European Commission)

2026年06月18日

プロフィール

マルティン・ウルブリッヒ(Martin ULBRICH)氏
欧州委員会通信ネットワーク・コンテンツ・技術総局(DG CONNECT)AI政策立案・調整部門担当。デジタル化と労働市場の関係を20年以上研究してきた経済学者。欧州委員会にて、デジタル関連政策に従事し、2018年よりAI政策チームに参画。世界初のAI規制「AI Act(AI法)」の策定において、政策立案責任者として重要な役割を担う。
欧州委員会AIポリシーチームのウルブリッヒ氏に、世界初のAI規制法「AI Act」でHRが「高リスク」とされた理由や、デジタル化の影響を受ける労働市場の「境界線の移動」について話を伺った。

マルティン・ウルブリッヒ氏が描くFuture of Work

  • 労働市場における「境界線の移動」の発生
    従来の自動化の枠外にあった高度な知的専門職が、AIの進化により新たに自動化の射程圏内へと入る。
  • 「質的変化」への適応
    雇用の「数」の増減以上に、どの層がどのような影響を受けるかという、職務の性質そのものの変容に注目すべきである。
  • HR領域における「高リスク」定義の真意
    AIによる採用・評価・解雇の判断は、個人の人生を左右する「影響の大きさ」ゆえに、技術的完成度にかかわらず厳格な管理が求められる。
  • 「人間固有の価値」の再定義
    AI活用が一般化するほど、独創性や文脈理解に基づいた「Made by Human」の希少価値と信頼性が高まる。
  • 「ブリュッセル効果」による国際標準化
    欧州のAI Actが基準点(アンカー)となることを目指し、各国の規制設計やビジネスの倫理的枠組みをリードしていく。

労働市場の「空洞化」とAIによる前提の崩壊

「AIは労働市場を根本から変えるのか」という問いに対し、マルティン・ウルブリッヒ氏は、確固たる視点を示す。同氏によれば、AIはデジタル化の延長線上にある技術だが、労働市場にもたらす「境界線の移動」という点において決定的なパラダイムシフトを引き起こしている。

これまでのデジタル化の影響は、主に労働市場の「空洞化(hollowing out)」という言葉に集約されてきた。高度な専門知識を持つ高スキル層は恩恵を享受し、身体的な動きを伴う現場職は自動化が難しいため需要が維持された。一方で、事務職や管理職といった反復性の高い中間層の業務がシステムに置き換わり、雇用は縮小または消滅した。これまでは、どの仕事が代替され、どの仕事が残るかという「境界線」は比較的明確であった。

従来の自動化が成立するためには、2つの高い壁が存在した。1つは、「作業手順を明確にできること」、もう1つは「投資回収に見合うだけの大量の反復作業があること」である。しかし、AIはこの前提を根底から覆した。AIは自ら学習することで手順の定義を不要にし、導入コストの低下によってわずか数回しか発生しない非定型的な業務までもが自動化の対象となったのである。

「境界線の移動」が知的専門職を射程に収める

ウルブリッヒ氏は、AIがもたらす最大の変化を「境界線の移動」と呼ぶ。デジタル化の波から守られていた高度な知的専門職、「恩恵を受けた層」が、今や自動化のフロントラインに立たされている。これは単に雇用が何パーセント失われるかという量的議論ではない。影響を受ける対象そのものがスライドするという、極めて「質的」な変化である。

この予兆はウルブリッヒ氏が関わった2019年の『Servozレポート(※1)』で警告されていた。同レポートが指摘した不平等の拡大やスキルの陳腐化は、生成AIの登場でより現実味を帯びて、私たちの身近に迫っている。その示唆は現在もまったく色褪せていない。

変容する仕事と、「人間固有の価値」の再発見

技術の変遷を振り返れば、かつてタイプライターを打つ秘書がオフィスから姿を消したように、今日のデータ入力や定期的な事務処理もまた、同じ軌跡をたどりつつある。事実、財務報告書のような客観的なデータの羅列で構成される文書作成において、自動化は既に驚異的な精度で進行している。

しかし、AIが普及すればするほど「人間に頼らざるを得ない」分野の重要性はむしろ高まっていく。ウルブリッヒ氏は、その象徴として「真に独創的な表現が求められる重要なスピーチ」を挙げる。米国などで、国家の節目や企業の命運を分ける場面のためにスピーチライターが多額の報酬を得ることは珍しくない。文脈を読み解き、聴衆の感情を揺さぶり、時代の精神を反映させる力は、最終的に「人間というフィルター」を通さなければ成立しない。AIが「効率」を担う一方で、人間は「価値」の源泉を担う。このように、人間固有の感性や倫理的判断が必要な場面では、むしろ人間の役割は以前よりも拡大していくことになるだろう。

「変化」を恐れるより、いかに「備える」か

マルティン・ウルブリッヒ氏マルティン・ウルブリッヒ氏

AIやロボティクスの進歩に対し、過度な恐怖心を抱いて抵抗することは、結果として国家や企業の競争力を削ぎ、長期的な雇用機会を損なうことにつながる。今私たちが目を向けるべきは、新しい技術を最大限に活用できるよう、仕事のプロセスやビジネスモデルそのものを再構築することである。ウルブリッヒ氏は、将来的には「AIを使わないこと」が新たな差異化戦略になる可能性を示唆する。

今日、工業的な大量生産品と並んで、手作業によるクラフト的な生産が市場で高い価値を認められているように、AI活用企業と人間中心のサービスを売りにする企業は共存し得る。「Made by Human(人間の手で作られたもの)」というラベルは、信頼や品質、あるいは希少性の証しとして、今後ますます市場価値を上げていく可能性がある。

ただしこの共存を成立させるためには、技術の変化に伴う雇用の移行期をいかに円滑に管理するかが重要となる。大規模な自動化は短期的に労働市場に大きな混乱を招くリスクがあり、その影響は技術の発展速度に左右される。また、議論は雇用の問題にとどまらず、プライバシー、差別、社会的排除といった倫理的な課題にも向けられなければならない。

AI ActがHR領域を「高リスク」と見なす理由

労働市場の変容を管理する枠組みとして、2024年に発効した欧州のAI Actは決定的意味を持つ。本法において、HR(人事)領域の特定のAI用途は、4段階あるリスクレベル(※2)のうち2番目に厳しい「高リスク」として定義されている。対象は「採用プロセス(履歴書のスクリーニングや面接)」と「意思決定(昇進、解雇、職場での評価)」の2点である。

なぜこれらのHR領域のAI用途が、物理的な危険を伴う重要インフラなどと同等に規制されるのか。ウルブリッヒ氏は、その根拠を「技術そのものの危険性」ではなく「当事者の人生に与える影響の大きさ」に置いている。AIは発展途上の技術であり、その判断の正確性を裏付ける統計データは十分ではない。個人のキャリアや生活基盤に直結する判断をAIに委ねることは、それ自体が社会的に大きなリスクを孕むのである。

「機械」も「人間」も中立ではない

「機械は中立だが、人間はバイアスを持つ」という言説に対し、ウルブリッヒ氏は異を唱える。AIのアルゴリズムは、学習データに潜む過去の偏見や、一見無関係なデータ間の相関関係(たとえば出身地と採用率の相関など)を拾い上げ、差別的な判断を下すリスクがある。また、特定のグループへの差別がなかったとしても、システム自体が全員に対して誤った判断を下す可能性を忘れてはならない。「差別がない=正確である」ではないのだ。公正さと正確さは別の問題として捉える必要がある。

ゆえにAI Actでは、重大な決定における「人間による監視(Human Oversight)」を厳格に求めている。機械によって一方的に人が解雇されるような事態は許容されない。企業がHR領域にハイリスクなAIシステムを導入する際は、労働組合への通知や相談を義務付けるとともに、なぜその判断に至ったのかを人間が説明できる責任(アカウンタビリティ)を課している。AI Actの真の目的は、技術の進歩を止めることではなく、人間の基本的権利と安全を確保することにある。

AI Actが企業に求める具体的な要件と実務への影響

実務面において、AI ActはAIの「プロバイダー(開発・提供者)」と「デプロイヤー(使用者)」を明確に区分し、それぞれに異なる義務を課している(※3)。たとえば外部のAIツールを用いて採用を行う企業はデプロイヤーに該当する。その主な義務は、使用説明書に従った適切な運用、必要な能力と権限を持つ人員による人間の監視の確保、システムの継続的な監視、そして自動生成ログの6カ月以上の保持などである。また、職場でハイリスクAIシステムを導入・使用する前には、労働者代表および影響を受ける労働者への事前通知も義務付けられている。一方でプロバイダーには、リスク管理システムの構築、技術文書の整備、適合性評価手続きの実施、システムの信頼性・サイバー攻撃への耐性・高品質データによる学習の確保など、より重い義務が課される。

HR実務における「人間による監視(※4)」とは、すべての作業を人力で行うことではなく、監視を担う人間がAIシステムの能力と限界を正しく理解し、その出力を適切に解釈・判断できることである。そして必要に応じてAIの判断を覆しシステムを停止できる体制を整えることだ。また、AIの出力に過度に依存してしまう「自動化バイアス」への注意も求められている。さらに、採用結果が特定の属性に偏っていないかといったシステム全体の動作を定期的に監視することも、デプロイヤーの継続的な責務として位置付けられている。

「ブリュッセル効果」欧州発の規律が世界標準へ

欧州委員会が提案し、欧州議会とEU理事会が承認・採択したAI Actは、かつてのGDPR(一般データ保護規則)がそうであったように、世界的な「ブリュッセル効果」をもたらす可能性がある。最初に包括的な枠組みを提示した側が、後続の議論における「基準点(アンカー)」となり、他国の規制設計や企業の行動指針に決定的な影響を与える現象である。既に世界各国でAI Actを参考にした規制議論が加速している。AIが労働市場の境界線を書き換え、仕事の本質を変容させていくなかで、この法的な枠組みは我々がFuture of Work(仕事の未来)を模索するうえでの羅針盤となるだろう(※5)。

(※1)欧州委員会で当時AI・ロボティクスと労働の未来担当シニアアドバイザーであったミシェル・セルヴォズを中心とした、ハイレベル専門家グループが作成した報告書である。現在においても高い評価を受けており、AIとロボティクスの影響を語る際の国際的参照フレームとなっている。 https://digital-strategy.ec.europa.eu/fr/node/1895
(※2)①許容不可能なリスク(Unacceptable Risk):禁止 人の安全・生活・権利に対して明確な脅威をもたらすAIシステムは全面禁止。
②高リスク(High Risk):厳格な規制 生体認証、重要インフラのセキュリティコンポーネント、教育・職業訓練へのアクセス、雇用・採用・昇進・職場での従業員評価、必須サービス(信用スコアリング、健康保険など)、法執行・出入国管理・司法などが該当。
③限定的リスク(Limited Risk):透明性義務 チャットボットやディープフェイクなど、人と直接やり取りするAIシステムが対象で、利用者にAIと対話していることを知らせる義務がある。
④最小限・リスクなし(Minimal/No Risk):原則規制なし AIを活用したビデオゲームやスパムフィルターなど、市場に出回っているAIアプリケーションの大多数がここに該当し、規制はほぼない。
(※3)AIシステムを内製する企業はプロバイダーとして、より重い義務を負う。
(※4)「人間による監視」の具体的な要件については、AI Actのハイリスク用途向け公式ガイドラインに詳述される予定(2026年5月時点では未公表)。
(※5)Digital Omnibus法案:規制の一部がEUの競争力や生産性を阻害するという声を受け、2025年11月に高リスクAIシステムへの義務適用期限を最長16カ月延期するDigital Omnibus法案が発表された。2026年5月7日には、EU理事会と欧州議会はこの法案に関する政治的合意に達している。規制の枠組みは現在も進化の途上にある。 https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2026/05/07/artificial-intelligence-council-and-parliament-agree-to-simplify-and-streamline-rules/

取材・TEXT=田中美紀(客員研究員)

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