
社員の「デジタル人格」を企業はどう扱うべきか──米国で始まったペルソナデータの議論から考える
日本でもようやくタレントマネジメントツールやHCM(人事管理システム)の導入が広がり、個々の社員のスキルや経験、働き方などの人事データを組織運営に生かす動きが本格化している。
本稿で取り上げるのは、そのさらに先にある課題である。AIの進化に伴い、社員の「思考パターン」や「意思決定の傾向」「発言スタイル」といった、個人の“らしさ”に関わる情報や、業務上の専門知識・ノウハウなどもAIにより蓄積されるようになってきた。これらのデータが企業のAIに残る場合、その扱いや帰属はどうなるのか。
ここでは、AIによって蓄積される社員の「人格的情報」を企業がどのように扱うべきかという課題に焦点を合わせ、米国で始まった議論や関連する法制度の動きから、日本企業が今後備えるべき視点を考察する。
日本企業は「活用に向けて動き出した」段階にある
2023年にjinjerが社員数300名以上の企業の人事担当者384名を対象に実施した、「『人事データの管理、蓄積、活用』に関する実態調査」によると、日本企業の79.2%が人事戦略策定において人事データの活用を「重要」と考えている一方で、実際に「活用している」企業は43.2%にとどまっている。そのうち68.2%が「人事データの収集に課題を感じている」と回答しており、人事データの活用に向けた体制づくりは、まだ途上にある(※1)。
近年、タレントマネジメントツールやHCMなどの導入により、社員の属性やスキル、経験、勤怠、エンゲージメントなど、多様な人事データを収集・分析する体制が整いつつある。さらに、ChatGPTのような汎用生成AIの浸透により、こうしたデータをAIに入力し、社員の傾向や強みをプロファイリングすることも、技術的に可能な時代になってきた。
「ペルソナデータ」は他の人事データと何が違うのか
前述の「人事データ」とは、主にスキルや評価といった“業務能力”を指しているが、本稿で注目するのは、さらにその先にある、社員の「らしさ」を反映した判断や行動パターンのデータ活用をめぐる動きである。
ここでは、AIが学習・蓄積した社員の知識や思考・行動パターン、問題解決のアプローチなど個人の「らしさ」の再現に利用される情報を「ペルソナデータ」と呼ぶ。米国では、こうした情報は「デジタルペルソナ(digital persona)」と呼ばれている。
これらは、その人ならではの判断の仕方や発言の特徴などを反映したものであり、個人の「アイデンティティ」に近い情報を含んでいる。そのため、企業がこうしたデータを扱う際には慎重な対応が求められる。
米国ではペルソナデータの帰属をめぐる「法整備の遅れ」と「訴訟リスク」が論点に
米Gartnerが2024年に公表した調査報告書「Gartner’s Top Strategic Predictions for 2025 and Beyond: Riding the AI Whirlwind」では、2025年以降、AIの進化が企業に与える影響についていくつかの予測が示されており、実に興味深い内容である。Gartnerは予測の1つとして、企業の大規模言語モデル(Large Language Model)を通じて収集された社員個人のペルソナデータが離職後もAIに残ることが一般化した場合、所有権が社員にあるのか、それとも雇用主にあるのかを問う議論が生じ、最終的には訴訟に発展する可能性があると指摘している。さらに「2027年までに米国における雇用契約の70%に、社員のペルソナデータに関するライセンス条項や公正使用条項(fair-use clause)が含まれる」と予測している(※2)。
Gartnerのマネージングバイスプレジデント兼主幹研究員であるダリル・プラマー氏は、「米国ではまだ個人のペルソナデータの帰属について明記した法律はなく、法規制がテクノロジーの進化に追い付いていない」と指摘したうえで、企業に求められる倫理的な取り組みとして次のような提案を行っている(※3)。
1. 雇用契約における社員の在職中および離職後のペルソナデータの活用範囲と条件の明記
2. ペルソナデータの悪用を防止するAI活用ガイドラインの作成
3. 社員の離職後もペルソナデータ活用を継続する場合の社員への報酬設計
4. ペルソナデータ活用の責任や帰属に関する継続的な対話を通じた社員の信頼の醸成
社員データ保護の広がりとペルソナデータへの波及の可能性
SHRM(米国人材マネジメント協会)のインタビューによると、グリーンバーグ・トラウリグ法律事務所の労働雇用を専門とする弁護士ケリー・ドッブス・バンティング氏は、米国には経営幹部の音声データやプレゼン資料などをAIに取り込んで、「エグゼクティブアバター」を作成する企業が存在すると指摘する。エグゼクティブアバターは表層的な模倣にとどまるが、将来的には個人の思考パターンや意思決定の傾向といった「ペルソナデータ」への応用が想定されている。バンティング氏は、こうした動きを受けて、「経営幹部の雇用契約には、ペルソナデータの帰属などを明記した条項が含まれる可能性が高い」と述べている。また、この動きはいずれ「中間管理職や新入社員との雇用契約にも広がる」と予測している。
さらに、企業がリスクを軽減し、社員の信頼とロイヤルティを高めるために必要な対応として「社員のペルソナデータの使用を事前に告知し、社員の同意を得ること」などを提案している(※4)。
バンティング氏は、こうした企業の対応が求められる背景として、米国における社員データ保護の規制強化の流れを挙げる。たとえばカリフォルニア州では、2023年に施行された「カリフォルニア州プライバシー権法(CPRA)」により、従来の「消費者プライバシー法(CCPA)」が改正され、社員データの取り扱いに関する規制が強化された。これにより、社員や求職者も消費者と同様に保護の対象となり、企業が収集する自身の個人情報について企業に開示や削除を請求する権利が認められている。このような動きはそのほかの州にも広がっている。
現時点で、社員のペルソナデータが明示的に法的保護の対象となっているわけではないが、バンティング氏は、こうしたデータも将来的に制度の対象に含まれる可能性が高いと見ている。
ペルソナデータの帰属や離職後の利用に関する明確なルールが未整備なことが、米国ではリスクとして認識されつつあり、契約や制度設計を通じた企業の先行的な対応の必要性が指摘されている。
今、日本企業が直面しつつある論点
日本でも、AIの浸透により、企業が保有する社員データの中には、スキルや評価にとどまらず、個人の思考や性格的傾向を表す情報も含まれるようになってきている。
実際2025年以降、一部企業では社員の発言録や資料を基に、思考パターンや意思決定プロセスをAIに学習させ、業務を補助する「AIエージェント」を構築したり、優秀な社員のデジタルな分身を再現する「デジタルツイン」構想も登場している(※5)。
日本では、業務上の成果物の著作権は原則として企業に帰属するが、社員の“人格的特徴”にあたるような情報も、同様に企業の資産として扱ってよいのかは明確に整理されていない。
企業に求められる視点
社員の能力だけでなく、「その人らしさ」までをもデータ化し、AIによって活用できる時代を迎えつつある。企業はこの新しい情報資産をどう捉え、どう扱うのかが問われている。
日本においては、社員の業務能力に関するデータの活用の在り方についてさえ、まだ明確な整理はされていない。ペルソナデータは、そこからさらに一歩踏み込んだ、より繊細なテーマである。会社はこれらのデータをどこまで活用していいのか、社員からどのように活用の許可をとるのか、退職後はデータを消去するのか、消去を要求する権利は社員にあるのかといった点について、今の段階から議論を始め、備える必要がある。
※1 https://jinjer.co.jp/
※2 https://www.gartner.com/en/newsroom/press-releases/2024-10-22-gartner-unveils-top-predictions-for-it-organizations-and-users-in-2025-and-beyond
※3 https://www.shrm.org/topics-tools/flagships/ai-hi/gartner-ai-predictions-through-2029
※4 https://www.shrm.org/topics-tools/flagships/ai-hi/protecting-digital-personas
※5 https://toyokeizai.net/articles/-/864458

杉田 真樹
リクルートワークス研究所 リサーチャー
米国バーモント州立大学(経営学部)留学後、国際ニュース番組の制作会社勤務などを経て
2000年に入所、2020年より現職。
主な調査テーマは、海外のHRテクノロジー、人材ビジネス、企業の採用手法など。