著者と読み直す
『透析を止めた日』 堀川惠子
林(夫)は仕事には厳しい人でしたから、書いた果実を勝ち取らないと認めてくれないでしょう
本日の1冊
『透析を止めた日』 堀川惠子
人工透析は腎不全患者の命綱。だが、永遠に続けることはできない。タブー視されてきた透析患者の終末期を、夫を看取ったノンフィクション作家が明らかにした。透析の中止という苦渋の決断。最後に味わった人生最大の苦痛。今の制度では、緩和ケアを受けることすらできないという衝撃の事実。克明な記録と、医療関係者らへの分厚い取材をもとに、日本の透析医療、緩和ケアのあり方を問う。(講談社刊)
自分や愛する人の命が長くないとわかったら、せめて苦しまずに逝けるよう緩和ケアに頼りたい。もし、あなたがそう思っていたら、本書の内容に衝撃を受けるだろう。日本では緩和ケアが保険診療上、がん患者と末期の心不全・エイズ患者に限定されている。その事実を、一体どのくらいの人が認識しているだろう。
著者は稀代のノンフィクション作家、堀川惠子さん。ドキュメンタリー制作の現場で出会い、人生のパートナーとなった元NHKプロデューサー、林新さんを2017年に亡くした。
前半は、難病で30代から血液透析を受けていた林さんが最終的に透析を中止し、「生き地獄」のような苦しみのなかで60年の生涯を終えるまでの闘病の記録だ。痛みや不調を抱えながら、天皇制など重厚なテーマの番組制作に挑み続けた林さん。「仕事の仕方も生き方も、彼と出会って根底から覆された」という堀川さんが、献身的に支える姿が胸を打つ。後半では、患者・家族の視点を持つ取材者として、日本の透析医療、緩和ケアに対する疑問を徹底して掘り下げていく。
出版後、堀川さんの元には患者・家族からの手紙が殺到。血液透析とは異なる選択肢として紹介した「腹膜透析」についても、取材した病院への問い合わせが相次いでいる。これだけ反響があったのは、透析患者の終末期をめぐる情報があまりに少ないからだ、と堀川さんは言う。情報のなさは、自身が直面した課題でもあった。
何1つない情報 緩和ケアさえ受けられない
「夫の全身状態が悪化し、透析を続けるのが難しくなったとき、途方にくれました。透析を止めれば、毒素や水分を除去できず溺れるような苦しみを味わうと聞いていましたが、透析患者は全国に34万人、亡くなる人が年間3万8000人もいるのだから、何かしら療法が確立されているに違いない。そう思って必死に調べましたが、何1つ情報は見つかりませんでした」
医師からは、どんなに苦痛を伴おうとも、本人の意識がなくなろうとも、死の瞬間まで透析を回し続ける道しか示されない。夫の尊厳を守るため、せめて緩和ケアを受けさせてほしいと申し出た堀川さんは、医師から「緩和ケア病棟に入れるのは、がん患者だけ」と言われ衝撃を受ける。当時、それを知らないのは自分だけだと思ったが、出版後、医療の専門家からも「知らなかった」と聞かされた。
透析患者の終末期に関する情報は、なぜ表に出ないのか。堀川さんは理由は2つあると話す。1つは「透析患者が医療費を無駄遣いしている」といった誹謗中傷や、常に死と隣り合わせである恐怖が、患者の口をつぐませていること。
もう1つは、透析が巨大なビジネスに組み込まれていることだ。
「透析クリニックは、機器に億単位の投資が必要なので、経営上、透析の機械をなるべく多く回し続けることが最優先されます。そのなかで、厳しい言い方かもしれませんが、透析医は『透析を回す技術者』になってしまい、患者を人生の最期までみる意識が低かったのではないでしょうか。背景には、透析末期の患者に緩和ケアをしても、診療報酬が十分に得られないという制度の問題もあります。結果として、透析が回せなくなった患者は大病院に送られるか、家に戻されても在宅医につながることすらできずに亡くなり、クリニックは後から患者の死を知るといったことが常態化している。大病院の医師や看護師も、透析離脱患者の悲惨な実情を知りながら、口外することをタブーとしてきました」
国や学会も動き出す 本を書いた者としての責任
堀川さんは、治療効果は血液透析ほど高くないが、患者のQOL(生活の質)を保つのに優れた「腹膜透析」についても丹念に取材した。実践する医師によれば、在宅医療と組み合わせれば穏やかな看取りもできる腹膜透析だが、普及率は3%程度。諸外国と比べても極端に低い。
「腹膜透析をはじめ、今の制度、医療環境の枠内で対応できることも少なくないと知りました。ただ、実践が一部の地域や病院に限られていてノウハウが共有されていない。透析クリニックがたくさんある都市部ほど、腹膜透析ができる医療体制がないといった地域間格差もあります」
本書の問題提起を受け、国会では勉強会が開かれ、保険による緩和ケアの提供対象拡大の機運が高まっている。日本透析医学会など関係する学会でも、透析患者の終末期緩和ケアの指針づくりの議論が始まっている。堀川さん自身、さまざまな場で講演し関係者の橋渡し役も担う。
「私には本を書いた者として、誰もが腹膜透析や緩和ケアを選択できる社会の実現に、力を尽くす責任があります。林は仕事には厳しい人でしたから、これを書いた果実をちゃんと勝ち取らないと認めてくれないでしょう」
堀川さんの覚悟と患者・家族の声なき声に、政治や医療界は応えることができるのか。
Horikawa Keiko
テレビディレクターを経て、ノンフィクション作家。『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』で第32回講談社ノンフィクション賞、『狼の義―新 犬養木堂伝』(林新氏と共著)で第23回司馬遼太郎賞、『暁の宇品―陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』で第48回大佛次郎賞など数々の賞を受賞。
Text=石臥薫子 Photo=今村拓馬