人事のアカデミア日本思想

「自(おの)ずから」と「自(みずか)ら」の「あわい」を豊かに生き抜いていく

今回の人事のアカデミアは、2023年9月30日に逝去された竹内整一先生の最終講義をお届けする。やまと言葉を用いて日本人独自の精神性を探求されてこられた竹内先生に、「おのずから」と「みずから」を基軸として、日本人の思想文化をひもといていただき、その可能性についてうかがった。
※このインタビューは2023年9月15日に行われました。

自分が為したことにも大きな自然の力を感じている

梅崎:ビジネスの現場で「キャリア自律」という言葉が広がっています。過去にも「リストラクチャリング」や「成果主義」など、雇用環境が厳しくなると、会社に頼らず主体的にキャリアを築いていく必要性が打ち出されてきました。私自身も授業などで「キャリア自律」という言葉を使いますが、あまりにも個人の責任に負わせ過ぎではないかとも感じています。

竹内:「自律(自立)」などは、もともと日本語になかった言葉で、明治時代にあわてて作られた翻訳語の代表例でしょう。「主体」とか「自主」とかもそうですね。

梅崎:そんな違和感を感じていたなかで、竹内先生のご著書が目に留まりました。「おのずから」と「みずから」は、ともに日本語では「自」という漢字をあて、相互に関係しているという指摘に目から鱗が落ちました。

竹内:「おのずから」成ったことと「みずから」為したことが別事ではないという理解が、日本人の基本発想にあるということです。私たちはよく「結婚することになりました」「就職することになりました」という言い方をしますよね。これは「みずから」の努力や決断で為したことでも、「おのずから」の働きでそう成ったのだと受け止めていることを示しています。

梅崎:だから日本では責任主体が曖昧になるのだ、と批判されることもあります。

竹内:プラス・マイナス両面あるのは確かですが、一概に批判して、根本にある発想をいきなり切り替えろといっても難しい。批判すべき点があるとしても、まずは日本人の思想文化の深い部分を理解したうえで、何が問題でどう改めていくかを考えることが大切だと思います。
たとえば結婚にしても、偶然のめぐり合わせのなかで相手と出会い、誰かにご縁をつないでもらうなど、諸々の出来事を経てそこにいたるわけです。「することになりました」という言い方は、「みずから」の営みを超えた大きな働きへの感受性が表れているのです。

梅崎:私たちが「することになりました」と無意識に口にしてしまうのは、そのほうが自分たちの感覚にフィットしているからであって、「みずから」の責任を明確にして「私は結婚します」と言うべきだ、という単純な話ではないということですね。

竹内:「みずから」が自分の思いのままになる如意の営みだとすると、「おのずから」は思い通りにならない不如意の働きのことです。生老病死のように、自分ではどうすることもできない大きな自然の働きです。「おのずから」という言葉は「自然のなりゆきのままで」という意味ですが、古語では「万一」「偶然に」という無常の意味でも使われていました。私たちにとって偶然と思えることも、大きな働きからすれば当然のなりゆきと考えられていたからです。

梅崎:この世は絶えず移ろいゆくものだという無常観が私たちの根底にはあるわけですね。

竹内:「いろは歌」でも「あさきゆめみし ゑひもせす」、生きていることは浅い夢を見ているようなものだと詠っています。日本人はこれをアルファベットとして1000年以上にわたって手習いに使ってきたわけですから、この現実感覚が染み付いているはずです。

梅崎:欧米の個人主義に照らして、日本人は「みずから」が足りないと叩き過ぎてしまった面もあります。でも「おのずから」と「みずから」は必ずセットであるもので、竹内先生は「おのずから」と「みずから」の「あわい」を問うことが大事だと強調されています。この「あわい」についてご説明ください。

竹内:古語では「あはひ」と書きますが、「合ふ」の連用形「合ひ」を2つつなげた「合ひ合ひ」が約(つづ)まったもので、2つのものが合う関係を表しています。「あいだ」が明確に輪郭があるAとBの中間を指すとしたら、「あわい」は1つのものと1つのものが出合い、交差し、重なり、交わる動的な状態を示す概念です。昔の色合わせとか香合わせもそうですが、合わせることによってAとBそれぞれが浮かび上がってくるものです。柳田國男は「あんばい」と同じ根を持つ言葉として「あわい」を取り上げ、よい言葉だと述べています。

梅崎:ご著書で指摘されているように、私たちは安易に「おのずから」か「みずから」かの二者択一に陥りがちです。キャリア研究の世界でも、もともとキャリアとは「みずから」設計するものだったところに、運や偶然など「おのずから」の要素を取り入れた論が登場しています。その代表的なクランボルツの「計画された偶発性理論」などは学生に非常に刺さるのですが、だから自然のなりゆきでいいのだというのもまた極端で、重要なのは「あわい」だとあらためて気付かされました。

竹内:まさに日本人の思想文化の優れた点とは、「おのずから」と「みずから」の微妙な重なりとずれをどれだけセンシティブに受け止め、豊かに展開していくかにあると思います。

w181_academia_yamato.jpg出典:『「おのずから」と「みずから」─日本思想の基層』をもとに編集部作成

理ではなく、古によることで「おのずから」を理解する

梅崎:それでも近代以降は、「みずから」が優先され、「おのずから」がつかみにくくなっていると感じます。

竹内:「自分」という言葉も日本の造語ですが、自分は、「みずから」分けられたものであると同時に、「おのずから」分けられたものとして存在しています。ほかとは異なる1つの主体としての自分は確かにいるのですが、でも自分の心臓は「みずから」を超えた大きな自然の働きによって動かされている。誰もが両親から生まれ、ほかの動植物の命をいただいて生きているのだとすれば、地球上に生命が誕生して以来のものすごく多くの命の流れの突端として自分がある。そこに「おのずから」を感じることができます。

梅崎:ところが社会科学のエビデンスベースの実証主義において、「あわい」を扱うことはほとんどありません。先生は「おのずから」を理解する方法として古学を取り上げています。

竹内:代表的な学者として、近世では伊藤仁斎や荻生徂徠、本居宣長、近代では折口信夫や柳田國男が挙げられます。古学は、理論や原理によるのではなく、人と人が生きてきた積み重ねとしての「古」、いにしえによることで世界を問う方法です。「理」を否定しているわけではないのですが、特に人の生き方の問題はそれだけでは捉えられない。理屈とは、結局、自分の頭のなかの観念で作られているわけですから。

梅崎:近代の学問は、客観的に外側から対象を観察して世界を理解します。でも世界は全体なので、その一部である自分が客観的に世界を捉えられるわけがないと。

竹内:「蟪蛄春秋(けいこしゅんじゅう)を識(し)らず」という言葉があります。夏しか生きられないセミは春や秋を知らないという意味ですが、考えてみれば我々もこの人生だけを生きている。しかし、人が他者とともに生きてきた現実に学ぶことはできます。
「あらためる」という言葉は、新しくするという意味と、これまでのことを吟味して検(あらた)めるという意味があります。将棋の羽生善治さんは、長考のとき、初手から現在の局面までのすべての流れを読み直しているそうです。それによって、次の一手をどうするか見えてくるというのです。

梅崎:武道などがわかりやすいですが、理屈を考える前に、実際にやってみることで学んでいく。私自身もオーラルヒストリーのインタビューをするときには、外から分析するのではなく、相手との関係を味わいながら、気持ちに共感することでその人を理解するよう心がけています。実証主義とは違う古学の思考方法は、私たちが生きていくうえでも、非常に助けになると思います。

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日本思想の基底に立ち返って近代をどう生きるか問い直す

梅崎:米国発のキャリア論では、過度にポジティブであることを強制されている感があります。では、日本人の根底にある無常観はネガティブかといえば、決してそうではないという点も新たな気付きでした。

竹内:九鬼周造は、日本の思想文化の大事な要素として「自然」「意気」に加えて、「諦念」を挙げています。もともと「諦め」とは「あきらむ」、「明らかにする」の意味で、仏教語の「諦(たい)」は悟りを意味しています。日常的には、「諦めが肝心だ」とか「諦めては駄目だ」とかプラス・マイナス両様に、「仕方がないと思い切る、断念する」の意味で使っています。どうにもならないことを明らかにして、それを受け入れるのも「諦め」なのです。
日本人は万葉の時代から、どうにもならないことを、「せむすべなし」と詠ってきました。月の満ち欠けや春夏秋冬の移ろい、人が年をとって別れを重ねていくことを、どうにもならないと嘆きながら、そのはかなさにある種の豊かさを見出し、「わび・さび」や幽玄の美を感じ取っているのです。

梅崎:実際、日本人の花見の盛り上がりは相当なものがありますね(笑)。これは、人の生き方にもあてはまります。たとえば「露と落ち露と消えにしわが身かな浪速(なにわ)のことも夢の又夢」という豊臣秀吉の辞世の句。露のように消えていく我が身を思い、大阪での栄華の日々も夢のようだと振り返っていますが、「夢の又夢」と思っているからこそ全力で生き抜くことができるのでしょう。

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竹内:無常の自然は、ときに猛威を振るうと同時に、大いなる恵みも与えてくれます。事故や災害が起きたときに、私たちは「どうにもならないよね」とつぶやきながら、「おのずから」の働きのなかで「なるようになるはずだ」という安心感を得ているわけです。

梅崎:無常だからこそ活力や明るさにつながっているということは、現代社会に生きる私たちにとって重要な示唆だと思います。

竹内:近代自己はどうすべきなのか。これは、私にとっても最初の問いでした。昔の文化文明が幽玄性を問うことであるならば、今はエネルギー資源をふくめて世界の「有限性」をどう引き受けるかが課題になっています。これは自然か文明かの二項対立ではなく、まさに「あわい」で問うべき問題でしょう。有限だから我慢しろといっても無理ですが、日本人は、有限性のなかに美しさや豊かさを感じ取り、それを楽しむことができる。こうした感受性を継承・発展させていく先に、世界に発信すべき日本思想の可能性が開けていくのではないかと思います。

梅崎:私たち日本人も、意識してそこに立ち返り、「あわい」を取り戻していきたいものです。どうにもならないことを受け入れて、だからこそ今を生きていこうという姿勢が求められているような気がします。

Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康

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竹内整一氏
Takeuchi Seiichi
1946年長野県生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業。専修大学教授、東京大学大学院教授などを経て、2010年から鎌倉女子大学教授、東京大学名誉教授。2011年4月〜2015年3月、日本倫理学会会長。専門は倫理学、日本思想。2023年9月30日没、77歳。

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人事にすすめたい本
『「おのずから」と「みずから」─日本思想の基層』(竹内整一/ちくま学芸文庫)
「自(ずか)ら」という語が表す日本人の基本発想とは。日本人の自己認識、無常観・死生観を問う。

梅崎修氏
法政大学キャリアデザイン学部教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。

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