人事のアカデミア笑い

社会の「掟」を反転させるユーモリストを増やしていこう

「人生には笑いが必要だ」といわれる。もちろんそれは仕事の場でも同じだろう。笑いのあふれる職場では、闊達な議論が交わされ、多様なアイデアが次々と生まれて、人々のクリエイティビティが大いに発揮されるに違いない。ところが現実の社会を見渡すと、無邪気に笑える場はそれほど多くないように思える。人生に希望や勇気をもたらす心からの笑いを、私たちはどうすれば手に入れることができるのか。哲学の視点から、社会を取り巻く笑いの状況を考察する木村覚氏に聞く。

安全を求めるほど笑いから遠くなる

梅崎:イノベーションを求める企業では、クリエイティビティの発揮が目指されています。そのなかで、「笑い」という発想は盲点でした。木村先生の「笑いの空間」の考察を大変興味深く読みました。

木村:笑いの問題を考えていくと、社会との関わり抜きに語れないと気づきました。笑いの問題は、社会の問題なのです。そこで「掟」、つまり社会のなかで従わなくてはいけない価値との関わりによって、「優越の笑い」「不一致の笑い」「ユーモアの笑い」の3つに分類しました。硬直した社会から柔軟な社会に近づくほど、優越の笑いから不一致の笑い、さらにはユーモアの笑いが実現していくと考えています(図1)。

w166_acade_02.jpg図1 出典:木村氏作成

梅崎:最初の優越の笑いは、「掟」に従う笑いですね。

木村:典型的な例が、誰かがへまをしたのを笑うというもの。社会の価値観に照らして愚かなもの、劣っているものに対する優越感から起こる笑いです。身体的な特徴をからかうのも、この一種でしょう。しかし問題は、笑われた者の尊厳が傷つけられるかもしれないという点にあります。つまり、この笑いの空間は、差別の空間にもなり得るのです(図2-1)。

梅崎:いじめの問題とも関わり、そうなると無邪気に笑うわけにはいかなくなります。

木村:差別をなくすために「笑ってはいけない」というベクトルが働くと、安全な空間が生まれます(図2-2)。実際に傷つけられている人がいる限り、安全な空間を志向するのは当然でしょう。多様性のある社会で他者を尊重するには正しい方向かもしれない。でも一方で、安全な空間も、「掟」に囚われた状態であることに変わりありません。

梅崎:まさに企業もその状況に陥っています。極めてデリケートな問題ですが、誰か1人に「差別だ」と言われることを恐れて、全体が安全な方向に流れているきらいがある。クリエイティビティの発揮には、心理的安全性が大前提であるといわれてきました。ところがリスクを回避して、安全を求めるほど、コミュニケーションは閉鎖的になり、心理的安全性から遠ざかる。安全な空間は、むしろ息苦しくなりそうです。

木村:もちろん差別は許されません。ただ、笑ってはいけない社会は、人間のいろいろな可能性を限定してしまうことも確かでしょう。
そこで、差別の空間でも安全な空間でもない第3の道が、毒蝮三太夫や綾小路きみまろの笑いです。「おい、ババア」などととんでもない暴言を吐かれても、誰も悲しい思いをしていない。ネタにされている中高年が自ら笑っている。信頼に基づく、かまい合いのような快適空間が生まれています(図2- 3)。

梅崎:恋愛ドラマでも口げんかをする男女が最後には親密になるのが定番です(笑)。快適空間では「掟」との関わりはどう変わるのでしょうか。

木村:歳を取ることがネガティブだという「掟」に従っていることは同じです。ただし「掟」からの囚われが軽くなり、暴言も遊びの道具として使われている状態といえます。

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既存の枠からズレたところに創造的な笑いが生まれる

梅崎:これに対して、「掟」からズレるのが不一致の笑いです。

木村:不一致の笑いは、ヨーロッパでは「wit(機知)」と呼ばれるものですね。たとえばナイツの漫才に、言い間違いのネタが多くあります。「日暮里樹里が……」「上野だろ!」という具合の掛け合いです。「上野樹里」という役者名と「日暮里」という地名には、本来はまったく関係がありません。ところが観客の頭のなかで山手線の路線図が浮かぶと、両者がつながって笑いが生じるわけです。

梅崎:木村先生はこれを「適合と不適合の対立」と表現されています。

木村:適合的なもの、たとえば本物そっくりのモノマネは「すごい」と思うかもしれないが、面白くはない。逆に、まったく似ていない不適合なものだと意味がわからない。芸術作品なら、これを不条理と呼ぶのかもしれません。
適合でも不適合でもなく、既存の枠組みからは外れるけれども、何らかの理屈に基づいた適合性があるのが不一致の笑いです。ベン図でいうと一部が重なっている状態ですね。屁理屈でも理屈が通っていて、それが少しズレているから意外に感じて面白いのです。実際、似ているかどうかよくわからないけれど、特徴がデフォルメされたモノマネのほうが笑えたりしますよね。

梅崎:この話を聞いて、職場でいくらブレストをやっても新しいアイデアが出てこない理由の一端が垣間見えた気がします。創造的なものは既存の枠組みからズレたところにあるとしたら、「新しいことを考えましょう」という規範意識のなかから生まれるはずがありません。

木村:「新しいこと」という既存のイメージがあって、それにあてはまるものを作ろうとしてしまうのかもしれませんね。

梅崎:そうですね。新しいか、新しくないかを一つひとつチェックすることが目的になっている。ズレているところが面白いのに、きれいに分類・整理して、なんとなく多くの人が「新しい」と思う、最も適合率が高いものを選んで終了となりがちです。空気にしばられる傾向のある日本では特に、ズレた意見は出しにくいのかもしれませんが。

木村:哲学者のカントは、「笑いには不快が伴っている」と言っています。適合しないものは最初は不快なものなのです。意味がわからないから、「何だ、これは」と気持ち悪く感じるかもしれません。でも、そのつながりが見えると、新鮮さに打たれて快に変わっていく。言ってみれば、笑いとは、異文化接触と同じですね。私たちの常識の枠組みに揺さぶりをかけてくれるから、面白く感じて、笑いが起こるのです。

安心して絶望できるユーモアのある社会に

梅崎:そして「掟」そのものに抗うのが、3つめのユーモアの笑いです。木村先生もユーモアの価値を重視されていますね。

木村:日本ではユーモアの笑いはあまり見られず、むしろペーソスの笑いが多いように思います。ペーソスとは、人情噺に代表されるようなほろ苦い笑いのこと。「掟」に抗ってはみたものの、最終的にはそれに勝てない切なさがある。「泣き笑い」というと、わかりやすいでしょうか。ユーモアの笑いは、その逆をいくものです。

梅崎:具体的には、どのような笑いになりますか。

木村:『雨に唄えば』というミュージカル映画で、主人公が雨のなかで歌い踊るシーンがあります。恋人もできて満ち足りた気分で「私の心には太陽が鎮座している」と歌うのですが、雨はざあざあ降り続き、一向にやみません。このような場面で、主人公がずぶ濡れになってしまう惨めさや滑稽さを描き、雨にも負けずに歌っている悲哀を笑いに変えるのがペーソスの笑いです。
しかしこの映画では、どしゃ降りのなかで踊りながら、主人公はますます盛り上がり、はしゃいでいきます。雨の強さよりも彼のハピネスが上回るのです。観客もハッピーな気持ちになって、もはや大雨など気にならなくなってくる。このように「掟」よりも自己が上回る状態が、ユーモアの笑いです。

梅崎:とはいえユーモアの笑いも、「掟」そのものを変えられるわけではありません。たとえば「死は誰にでも訪れる」といった絶対に逃れられない「掟」も存在する。これにユーモアで対抗するとは、どういうことでしょうか。

木村:死という運命は変えられなくても、死に向き合うマインドを切り替えることはできる。冗談を言って笑い飛ばしてもいいのです。ナチス・ドイツ下の強制収容所体験をもつ心理学者のヴィクトール・フランクルは、「自己距離化」というキーワードを挙げています。広場恐怖の患者が「私のノイローゼと一緒にこれから出かけます」と鏡に向かって笑った、というエピソードを紹介し、広場恐怖を遠ざけるのではなく、むしろ広場恐怖の自分に向き合うことが治癒につながると主張しました。自分から距離を取ることが、自分を手に入れる方策になるというのです。

梅崎:自分を客観視するということですね。こうしたユーモアの笑いを提供できる人を、木村先生は「ユーモリスト」と定義しています。

木村:ユーモリストは、「掟」を無化し、社会の価値を反転させる存在です。日本でも、べてるの家の創立者である向谷地生良(むかいやちいくよし)さんは、まさにユーモリストだと思いますね。べてるの家は、統合失調症などの病気を抱える当事者の活動拠点です。弱さや悩みをそのまま受け入れるのが基本スタンスで、普通なら隠したくなるような幻覚や妄想を競い合う大会を開くなど、ユニークな取り組みが行われています。
向谷地さんの著作に「安心して絶望できる」という言葉があるのですが、これはとても象徴的な表現だと思います。逃れられない絶望に向き合って、絶望とともに生きる力を得る。それがユーモアの力です。

梅崎:合理性で解決できないことに直面したときこそ、ユーモアによって救われる。ユーモアが最後の希望になるのですね。どうしたら日本にもユーモリストを増やすことができるでしょうか。

木村:最初の話に戻りますが、今はあまりにも安全を求めすぎている気がします。リスクを回避するあまり、一人ひとりが強く正しくあろうとして、弱い自分を肯定できない社会になっているように思います。
ユーモアを必要としているのは、べてるの家の当事者だけではありません。私たちもそれぞれに絶望や困難を抱えているのですから。そのなかで重要になるのは、安全よりもむしろ、自分の弱さや悩みを素直に開示できる信頼でしょう。ありのままの自分に向き合い、誰もが安心して絶望できるような社会こそ、最も居心地がよく、生き生きとした場といえるのではないでしょうか。

Text=瀬戸友子 Photo=刑部友康(梅崎氏写真)、本人提供(木村氏写真)

木村覚氏
日本女子大学人間社会学部文化学科教授
Kimura Satoru 上智大学文学部哲学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専攻は美学、ダンス研究。15年以上、日本のコンテンポラリーダンス・舞踏を中心としたパフォーマンス批評を行っている。
◆人事にすすめたい本
『笑いの哲学』(木村覚/講談社選書メチエ) 社会の秩序・掟への揺さぶりとしての笑いの可能性を考える。
梅崎 修氏
法政大学 キャリアデザイン学部 教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。