人事のアカデミア民主主義

包摂と排除は同時に起こる異質なものにこそ着目せよ

最近、「民主主義の危機」という言葉をしばしば耳にする。確かに世界を見渡すと、社会の分断が進み、強い指導者を求める声も高まっている。民主主義国家に生きる私たちは、これまで「大事なことはみんなで話し合って決める」のが当たり前だと思ってきた。一方で、大きな危機や複雑な問題の前では、みんなの意見をまとめあげるのは簡単ではないこともよくわかる。民主主義の何が問題なのか、私たちはこの先どうすればいいのか。現代民主主義理論に詳しい山本圭氏とともに考える。

時代とともに多様化するデモクラシーの理論

梅崎:今、民主主義のあり方があらためて問われています。

山本:そうですね。特に2010年代以降、ポピュリストの台頭が目に付きます。さらにここにきて新型コロナウイルスの蔓延により、強いリーダーシップが求められるようになりました。民主主義における指導者の問題を、もう一度考える必要があると感じています。

梅崎:ご著書の『現代民主主義』を読むと、一口に民主主義といっても、実に多様な考え方があることがわかります。そこでまずは、20世紀の民主主義論を振り返りたいと思います。「指導者民主主義」のキーパーソンとして挙げられるのが、マックス・ウェーバーですね。

山本:20世紀の初頭、ちょうど顔の見えない「大衆」が社会に現れ、段々と普通選挙が認められるようになった時代です。ウェーバーといえば、伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配という「支配の3類型」がよく知られています。このうち合法的支配の最も典型的なものとして「官僚制」を挙げており、官僚制は近代の宿命だと考えていました。そして、官僚制の行き過ぎを抑える存在として、強いリーダーシップを持った政治家に期待していたのです。

梅崎:ウェーバーの議論を、さらに極端な形で推し進めたのが、カール・シュミットです。

山本:彼は独裁と民主主義は両立すると主張し、やがてナチズムに接近していきました。全体主義をもたらす一因になったとして、第二次世界大戦後、民主主義論のなかで指導者の問題はあまり扱われなくなりました。

梅崎:そのなかで新たな民主主議論を唱えたのが、意外にも経済学者のヨーゼフ・シュンペーターでした。

山本:民主主義は、目指すべき理念や目的ではなく、代表者を選出するための単なる手段にすぎない。指導者たらんとする人たちが票をめぐる自由な競争をして決定権を手に入れるのだ、と。これは「競争型エリート主義」などと呼ばれる考え方です。

梅崎:つまり選挙による競争ですね。現代まで根強く続いている「民主主義=選挙」のイメージは、ここから始まったわけですね。

山本:さらに時代が下って1960年代に入ると、草の根の市民運動が盛り上がりを見せます。それに伴い、エリートによる競争から、普通の人々の政治参加を肯定する「参加民主主義」が支持を集めました。

梅崎:デモやロビー活動など、選挙以外でも市民の政治参加の形が広がっていったのはこの頃です。

w167_acade_01.jpg出典:取材をもとに編集部作成

エリートではない市民が政治の担い手に躍り出る

山本:やがて市民運動が下火になるにつれ、参加民主主義への関心も薄れていきました。代わって1990年代から注目されるようになったのが、「熟議民主主義」です。

梅崎:あまり耳にしない言葉ですが、「熟議」とは要するに話し合いのことですね。「話し合って物事を決めましょう」とは、私たちにとってもなじみ深い考え方です。

山本:熟議民主主義はいま最も盛んに研究されている理論です。実証もいろいろ行われ、さまざまな成果が生まれています。

梅崎:企業のなかでも、小集団活動やワークショップなど、さまざまなレベルで熟議が行われています。個人の立場から見ると、熟議に参加することで、主体的に問題に関わっているという充実感や、自分もチームの一員なのだというメンバーシップを感じることができるのは大きなメリットです。ただし、経験的に思うのは、部署レベルでのコミュニケーションはうまくいっても、組織全体の経営レベルになるとあまり機能していない印象があります。

山本:熟議民主主義を実践する手法として、ミニ・パブリクスがあります。無作為抽出された参加者の討議の場を設け、政策決定に活かそうというものです。その根底にあるのはユルゲン・ハーバーマスの二回路モデルです。議会のようなフォーマルな熟議と、市民レベルの自由な討論のようなインフォーマルな熟議とがあり、政治システムが正統性を確保するには、インフォーマルな熟議の結果をフォーマルな熟議の場にインプットしていくことが不可欠だと主張されます。

梅崎:現実には、身近なコミュニケーションは楽しむが、国政には無関心という人も少なくありません。

山本:私は、市民レベルの決定の関わり方と国家レベルの決定の関わり方は、強く関係していると思います。
たとえば政府が権威主義化すれば、市民の熟議の仕方にも影響を及ぼすはず。片方だけが守られるということはなく、自己決定を放棄してしまうと、どちらも崩れるのではないかと危惧しています。その意味では、一人ひとりが日頃から自己決定の経験を積み重ねていくことが大切。特に今の時代は、黙っていてもアルゴリズムが勝手におすすめを示してくれるので、自分で決めるという経験がどんどん奪われている気がします。

梅崎:確かにそう思います。別にデモに参加するなど特別なことをしなくても、たとえば自然のなかでキャンプをすると、限られた範囲ですが自分で判断すべきことが出てきます。そういう経験を意識的に増やしていくといいですね。ビジネスの場でいえば、小さくても会社を経営すると学べることが多い、という感覚に似ているかもしれません。

山本:ぜひ日常のなかで実践してほしいと思います。一方、熟議への批判として出てきたのが、「闘技民主主義」です。代表的な提唱者が、ベルギー出身の政治理論家であるシャンタル・ムフです。

梅崎:闘技、つまり敵対することに意味があるという考え方ですよね。この発想は意外でした。普段、私たちは合意を得るために苦労しているわけですから。

山本:まさにコンセンサスありきなのが問題だ、というのが闘技モデルの立場です。結局は声の小さい人に空気を読ませているだけではないか。そこから排除された人たちの感情的な要素を取りこぼしてきた結果、生活の苦しい人たちの怒りの矛先が、移民などのマイノリティに向かってしまうのだとムフは主張しています。熟議に対して闘技は、合意ではなく対立、理性より感情が大切だと訴えます。異なる意見をぶつけ合う、対立することこそ民主主義の本質ではないかという考え方です。

梅崎:実感としてよくわかります。市民主体の街づくりをしようとしても、コミュニティカフェに集まるのは意識の高い一部の人ばかり。その他大勢の人の意見は反映されません。企業のなかでも、ダイバーシティ&インクルージョンを掲げて、多様な意見を取り入れようとしていますが、実際は合意が取れる範囲内で、似たような人を集めているだけかもしれない。これでは革新的なイノベーションは期待できそうにありません。包摂しているつもりが排除しているというのは皮肉ですね。

山本:包摂と排除はしばしば同時に起こるということです。言い換えれば、包摂することが新たに異質なものを生み出している。だとすると、民主主義の可能性を考えるうえで、同質性ではなく、もっと異質性に目を向けることが重要ではないかと思います。

w167_acade_02.jpg出典:取材をもとに編集部作成

社会は不安定なもの 不確実性を恐れるな

梅崎:異質性に目を向けるという点で、山本先生が注目されているのがエルネスト・ラクラウです。アルゼンチン出身の政治理論家で、闘技を提唱するムフの公私にわたるパートナーでもありました。ポピュリズムを肯定する立場ですね。なかなか難解ですが、非常にラディカルで興味深い思想です。

山本:左派ポピュリズムの理論的支柱となっています。民主主義理論は明確な政治的アイデンティティを持つ人を対象としてきましたが、現実にそれほど強い個は存在せず、状況によっても揺れ動きます。ラクラウのポピュリズム論は、そういう不確かな人たちを考えるためにうってつけの理論だと思います。

梅崎:一般的にポピュリズムといわれると、大衆迎合というマイナスイメージがありますが。

w167_acade_03.jpg出典:『現代民主主義』(山本圭/中公新書)より
ラクラウとムフが提唱する社会を構成する2つの論理。「差異の論理」は、それぞれのアイデンティティが独立して存在し、社会を安定的に閉じようとする。「等価性の論理」は、共通の敵に対して「私たち」という集合的アイデンティティを構築する。空虚なシニフィアンによって、利害などを異にする諸集団を結びつけ、より大きな運動を形成することで社会の変革を目指す。

山本:人々が排外主義に走るのは、ポピュリズムが原因なのではなくて、むしろポピュリズムが足りないと考えているのです。ラクラウとムフは「ポスト・マルクス主義」を標榜しています。伝統的なマルクス主義では、人々の考えやアイデンティティは階級や経済によって決まるとされたのに対して、彼らはそれらが関係性のなかで決まると考えます。これが彼らの「言説理論」と呼ばれるもので、たまたまどういう関係性のなかに置かれたかによって、意味やアイデンティティが変わってくるというのです。
政治はヘゲモニー(主導権)をめぐる闘争であり、環境保護やジェンダー平等など、今の社会にさまざまな異議申し立てをしている人たちをまとめあげ、より大きな社会運動を形成することで、次のヘゲモニーを構築していく。これによって民主主義を深化することを目指すのが、彼らのラディカル・デモクラシー論です。

梅崎:つまり社会というのは、決して絶対的なものではないということですね。もともとが偶発的に生まれたものだから、常に不安定で永遠に完成しないのだと。

山本:そうです。ただし、普段は意識していませんが、何かの拍子に、この社会の偶然性が露わになることがあります。東日本大震災や新型コロナウイルスの蔓延のような大きな出来事が起こると、これまで当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったと突きつけられますよね。そのときに、どう振る舞うかが重要だと思っています。

梅崎:本質が露わになり、「これはおかしいのではないか」と気づくきっかけにもなる。ところが日本では、そのままやり過ごして結局元通りにおさまることも少なくありません。すべては偶然なのだから、変化を拒否するだけでなく、不確実性の波をうまく乗りこなしていきたいですよね。

山本:そうすることで、また違ったヘゲモニーが生まれるかもしれない。不確実性を受け止め、何とか折り合いをつけながら前進していくことで、新しい未来が開けていくのではないでしょうか。

Text=瀬戸友子 Photo = 刑部友康(梅崎氏写真)、本人提供(山本氏写真)

山本圭氏
立命館大学法学部准教授
Yamamoto Kei 名古屋大学大学院国際言語文化研究科単位取得満期退学。博士(学術)。岡山大学大学院教育学研究科専任講師などを経て、現職。専攻は現代政治理論、民主主義論。

◆人事にすすめたい本
『現代民主主義』(山本圭/中公新書)現代デモクラシー論の潮流と可能性を考える。『不審者のデモクラシー』(山本圭/岩波書店)ラクラウのポピュリズム論から新たな政治主体を導き出す。
梅崎 修氏
法政大学 キャリアデザイン学部 教授
Umezaki Osamu 大阪大学大学院博士後期課程修了(経済学博士)。専門は労働経済学、人的資源管理論、労働史。これまで人材マネジメントや職業キャリア形成に関する数々の調査・研究を行う。