人事トップ30人とひもとく人事の未来伊藤忠商事 代表取締役 専務執行役員 CAO 小林文彦氏

日本一いい会社にする 定性的なメッセージで社員の心に火をつけろ

聞き手/奥本英宏(リクルートワークス研究所 所長)

奥本 コロナ禍の緊急事態宣言解除後、御社では原則出社の方針を出されました。現在はいかがでしょう。

小林 全国で感染拡大の傾向が出てきたので、11月から出勤率を下げていますが、社員の安全安心の確保を最優先にした上で、原則出社のルールは変わりません。我々のお客さまは日々の暮らしに欠かせない生活産業が中心で、そこで働く社員の人たちが、わが身を危険にさらして日夜、現場で働いているのに、我々が在宅勤務で現場に足を運ばない、というのはあり得ないだろうと。
だからこそ、本社では防疫体制に万全を期しています。社員の入り口を分け、社内に遮蔽板を設置し、消毒をこまめに実施する。万が一に備え、大学病院と連携し、必要なときにいつでも検査と治療が受けられるようにしました。幸い当社は2013年に朝型勤務に移行しており、また、帰宅時間も大きく融通が利くようにしているため、感染のリスクが高い通勤ラッシュも避けられる。そういった対策のもと、これまで当社館内で、感染が確認された例は1つもありません。

人間関係の機微消失など 在宅勤務には問題もある

奥本 朝型勤務は有事にも効果的だったということですね。

小林 しかも、我々が社会生活を営む上で必要不可欠な仕事に就いている人は、伊藤忠のグループ企業にもたくさんいるのです。社屋の清掃や消毒に携わる人もそうですし、医療用防護服や遮蔽板の生産従事者も、コールセンター、コンビニ、ガソリンスタンドで働く人たちもいる。
そこで、そうした当グループ内のエッセンシャルワーカーへの感謝の気持ちを表す5分間のビデオ映像を本社の若手が制作し、この9月、イントラネットで公開したところ、予想外のアクセス数を記録しました。この映像を通じ、我々全員がエッセンシャルワーカーなのだという認識を共有し、グループ内に一体感が生まれました。この動画は大変好評を博し、関係各所からの要望もあり、10月より当社のホームページ上でも公開しています。

奥本 4、5月の在宅勤務期間は、現場に出向くことが難しい状況でしたが、その経験は活かされましたか。

小林 そこでわかったのは、在宅勤務には利点もある一方、失うものも大きいということです。文字と記号のやり取りで仕事が終わり、会話も画面越しですから、人間関係の機微が失われてしまう。誤解も発生しやすく、社員同士の信頼感が失われ、仕事に対するモチベーションが毀損されるリスクもある。さらに在宅になると残業時間が明らかに増えました。在宅勤務では無駄な仕事がなくなるというのは必ずしも正しくないと。

奥本 そういう意味では働き方改革の実験でもあったわけですね。

小林 はい。働き方改革については既に、多くの専門家が持論を唱え、企業もそれぞれ実行する施策を固めています。しかし、先行き不透明な現状を考えると、これからも想定外のことが様々起こり得ます。ですから「うちはこれでいく」と施策を決め打つのではなく、何が起こったとしても、臨機応変に次の手を考えて実行できる態勢こそ必要です。コロナに打ち克つのではなく、共生する、レジリエントな対応力が求められるのです。

奥本 それは、よりしなやかで強い会社になっていくための挑戦ですね。

ダイバーシティ推進に がん支援策が不可欠な理由

itochu_sub.jpg小林 実は当社は「日本一いい会社」になるべく、全社一丸で取り組んでいる最中なんです。きっかけは、2017年2月、ある経済誌が発表した、社員が評価する「幸せな会社」ランキングで2位になったこと。当時の社長の岡藤正広(現会長CEO)がその結果を見て嬉しかったとイントラネットに書いたところ、がんで闘病中の旧知の社員からメールが来た。「がんになり、上司や同僚、会社が自分に対して尽くしてくれたことを考えると、自分にとっては伊藤忠が日本一いい会社です。ぜひ、病気を克服して、もう一度会社に戻りたいという気持ちでいっぱいです。そのときは、また、ご挨拶に伺います」と。これに岡藤は喜び、本人の許可を取りイントラネットに公開したんです。
ところが2週間後に彼は亡くなってしまった。岡藤は故人の霊前で涙を流しながら、「絶対、日本一いい会社にしてみせる」と誓ったのです。
その年の7月、岡藤は「がんに負けるな」というメッセージを社内に発し、会社として「がんとの両立支援施策」を発表しました。国立がん研究センターと提携し、通常の健康診断に加え、がん特別検診を定期的に実施しています。検診結果にがんの疑いがある場合には、精密検査を受けられ、治療の際にもがんの先進医療を会社負担で受けられるようにしました。上司が中心となり、当事者と相談の上、がんと仕事の両立に関する個人目標(MBO)を設定し、うまく働ける体制を作ります。万が一ですが、本人が亡くなってしまった場合、残された配偶者が希望すればグループ内での就職を斡旋し、 子供に対しては十分な育英資金を提供します。

奥本 極めて手厚い内容ですね。

小林 背景にあるのが、人は「自分の居場所はここだ」と思ったときに大きな力を発揮できる、という考え方です。それまでと変わらず、思う存分に働き続けられる環境を整えていく。それは本人のやる気を喚起させ、病気に打ち克つ力を授けるだけではなく、周囲がそれを支援することにより、組織の連帯強化、活性化につながると考えています。

奥本 素晴らしい施策ですが、大きな費用がかかりそうです。

小林 会社としての経費増はがん保険代くらいで、社員1人当たり7000円ほどの負担増で済みます。でもお金の問題ではないのです。本人の生きる気力が増すこと、組織力の向上につながることが重要です。
がんの罹患には男女差があり、男性は高齢期に、女性は就労期に罹りやすい。当社でも、罹患者の半数以上が女性社員です。つまり、女性活躍の側面からも、がんへの対策やがんとの両立支援施策は重要なのです。

コロナ禍で噛み締めた「ひとりの商人、無数の使命」

奥本 御社は2020年4月から「三方よし」を企業理念に掲げています。

小林 これはコロナ禍とはまったく関係なく進めたことです。「三方よし」は近江商人の理念としてよく知られている言葉ですが、この言葉の起源は、当社の創業者、伊藤忠兵衛なのです。SDGsが重要な経営指標となり、サステナビリティの担保が必須条件となった現在、「売り手よし、買い手よし」だけではなく、「世間よし」が入るこの「三方よし」は内外に伊藤忠の存在意義を知らしめるメッセージになると考えました。これと以前から標榜していた「ひとりの商人、無数の使命」を、あらためて我々の企業行動指針に位置付けました。

奥本 いい言葉です。コロナ禍で噛み締めた社員も多かったでしょう。

小林 その通りです。今回、企業理念や行動指針は最も苦しいときに社員が寄り添えるものであるべきだということを実感しました。

奥本 ここに来て御社は数々のメッセージを通じ、理念と組織運営の統合に見事に成功していますね。 

小林 企業の実力は売り上げや利益などの定量データによって示されますが、社員の心に火をつけるのは、定性的なメッセージだと思います。

伊藤忠商事 代表取締役 専務執行役員 CAO 小林文彦氏
1980年4月伊藤忠商事入社。2010年4月執行役員総務部長、2011年4月人事・総務部長、2013年4月常務執行役員、2015年4月CAO、2015年6月代表取締役常務執行役員、2017年4月代表取締役専務執行役員、2018年4月 CAO・CIO、2019年4月より現職。

text=荻野進介 photo=刑部友康