頂点からの視座戸田奈津子氏(字幕翻訳家)

「わからせてあげたい」というお節介

「字幕・戸田奈津子」。映画好きならエンドロールに流れるこの名を目にしなかった人はいないだろう。少女の頃から大の映画好き。長い下積み期間に独学で力をつけ、この世界に入った。これまで彼女が字幕を手がけた映画は1500本以上。頂点に至るまでの道のりを支えたものとは。

1936年生まれ。『地獄の黙示録』(日本公開1980年)で字幕翻訳家として本格デビュー。『ハリー・ポッターと賢者の石』など作品多数。

― 戸田さんはお父様が戦死され、母一人子一人の生活で戦時中は疎開も経験されたとか。焼け野原の東京で出合ったのが、戦後大量に入ってきた洋画だったとうかがいました。

幸い焼け残った母の生家で、物のない戦後生活を送りました。日本人の娯楽は映画だけで、私も母に連れられて映画館通いを始め、生涯の道を決める映画の洗礼を受けました。何もかもを失った日本で観る華やかな洋画の世界は、本当にカルチャーショックでしたね。『キュリー夫人』『チャップリンの黄金狂時代』『石の花』『荒野の決闘』......。それまで本を読んで想像するだけだった外国の世界がスクリーンの向こうにある。たちまち夢中になったのです。

― 英語が好きになったのはいつ頃ですか。

中学2年のときの英語の先生がとてもレベルの高い授業をしてくださったんです。和文英訳の宿題を必ず出しては次の授業で生徒に黒板に書かせ、ほかの生徒に間違いを指摘させるんです。私は英語という別の言語でも文章を作ることができるのが嬉しくて、一気に英語が好きになりましたね。大学進学時も英文科を選び、津田塾大学に入りました。大学入学後の楽しみも映画です。映画館に入り浸って、『ローマの休日』や『エデンの東』などに心を震わせました。

― ご幼少の頃から字幕翻訳にご関心があったのでしょうか。

字幕というわけではありませんが、家には祖母も同居していて、定期購読していた英文雑誌の『LIFE』の写真についているキャプションがわからず、「どういう写真だろうね?」と私に言うわけです。そこで私が翻訳した文章を書いて、全部の写真のそばに貼り付けてあげたんです。当時から私には、わからない人にはわかるようにしてあげたいというお節介なところがありましたね。
字幕翻訳の道を考えるようになったのは就職が近づいた時期です。周囲から「就職はどうするの?」と言われても、同級生が目指すような教師や公務員の仕事にはまったく興味が持てない。何がやりたいかと考え続けて思いあたったのが、字幕翻訳でした。でも、どうしたら字幕翻訳家になれるのかといった知識も、映画界のコネもゼロでした。

組織不適応を自覚したOL時代

― 字幕翻訳の第一人者だった清水俊二さんに手紙を出されたそうですね。

電話帳で住所を調べて、お手紙を出したんです。先生は優しい方で会ってくださいましたが、もちろん弟子にしましょう、などと言われるわけもなく、字幕翻訳を職業にするのがいかに難しいかがわかっただけでした。当時、字幕翻訳を仕事にしているのはわずか十数人。でも、それで十分足りるくらいの業界だったのです。仕方なく大学から紹介された生命保険会社に、英文書類を扱う役員付の秘書として就職しました。

― 会社勤めはいかがでしたか。

退屈でした(笑)。大して仕事もなかったし、私には人間関係が苦痛で。結局、組織にはまったく向いていないということがわかり、1年半で退職しました。それからは今でいうフリーターです。当時は高度成長期でしたからなんとかなるという気持ちもあり、あちこちで翻訳の仕事をいただいて、ちゃんと生活できるくらいには稼いでいました。もちろん字幕翻訳家の夢は諦めていませんでしたよ。清水先生には時候の挨拶のハガキを出し続け、「字幕への夢は捨てていません」と書き添えてはさりげなくアピールしていました。熱意を買ってくださった先生のご紹介で、洋画配給会社からあらすじをまとめる仕事をもらったり、通訳や翻訳の仕事をしたり。そんな下積みの期間が20年近くありましたね。

字幕の仕事は習うではなく盗む

― それだけ長い下積みの間、諦めなかったのはなぜですか。

会社勤めを経験したことで、「好きなこと以外、私にはできない」と覚悟が決まったんです。私は、とにかく映画が好き。たとえお金が入らなくてもいいから、字幕の仕事がしたかった。もちろん、映画界には宣伝担当者や評論家などいろいろな仕事があります。でも、私は自分でもドラマのなかに入りたかったんです。かといって、一からシナリオを書くほどの才能が自分にないことはわかっていました。そんな私でも映像を見て登場人物のキャラクターを理解し、それにふさわしい字幕をつけていくことはできます。それで観客が楽しめればいい。祖母のために『LIFE』のキャプションを翻訳してあげたのと似ています。自分にとって洋画はこれだけ楽しいんだから、英語がわからない人にもこの楽しさをわからせたかったんです。

― 「好きなことを仕事にするとつらくなるから、やめたほうがいい」と言う人もいますね。

あら、そんなことはない、最高よ。仕事って生活の中心だもの、好きなことをやったほうがいいと思います。私の場合は、「映画が好き」「字幕翻訳の仕事が好き」という気持ちが常にモチベーションを上げてくれました。週に3本の翻訳が重なっても、全然つらくなかった。この仕事をやめたいと思ったことは一度もありません。

― 後継者を育てようというお気持ちはありますか。

私がやらなくても、後続は自分たちの力でちゃんと育っています。私がそうであったように。そもそも字幕翻訳の仕事は教えられるものでもないですしね。盗むものよ。大変でも、1人で勉強していくしかない。今活躍している字幕翻訳家は全員一匹狼だし、この仕事をするようになった道のりもそれぞれ違います。共通するのはとにかく映画が好きだということ。まさに、「好きこそものの上手なれ」ですね。

Text=千葉 望 Photo=橋本裕貴 取材協力=八芳園、双葉社

After Interview

今年80歳になられる戸田さんだが、すこぶるお元気で、テンポよくシャキシャキとお話しになる姿は年齢を感じさせない。
英語を多少なりとも理解できる日本人が増えた今、「誤訳の女王」などと心ない揶揄を受けることもあるが、ご本人はまったく動じない。そもそも字幕とは、たった10数文字、わずか2秒でそのシーンを理解してもらわねばならぬもの。完璧な訳など、求められてもいないのだ。そして、映画を愛する人であればこそ、スクリーンで繰り広げられるドラマと映像を"邪魔する"字幕は許せないのだという。これこそがプロフェッショナルの覚悟というものだろう。
戸田さんのキャリアの軌跡を、「お嬢さんが好きなことをやっているうちに運よくプロになった話」などと、総括することなかれ。ご本人は微塵も素振りを見せないが、たった独り、英語と日本語の間を行ったり来たりしながら、技術と能力を積み上げてきた日々が、気楽なだけのものであったはずがない。
今も趣味は映画。好きなのはやはりヒューマンドラマだという。私も、戸田さんが字幕を担当した映画を観に、久々に映画館に足を運ぼうと思う。

聞き手=石原直子(本誌編集長)