頂点からの視座中村壽男氏(ハイヤードライバー)

ネクスト・ワンの心持ちで、
毎日楽しんでいるうちに35年

世界に冠たる観光都市・京都でハンドルを握って35年。中村壽男氏は、タクシー会社MKで、「ファーストハイヤー」という要人担当車両の乗務員として名を馳せる。世界各国の政財界VIP、ハリウッドスターたちからの指名が絶えず、時に「日本一予約の取りにくいドライバー」と称されるほどだ。中村氏はお客さまをご案内することを「お供する」と表現する。その言葉に込められたプロフェッショナリズムを探る。

1952年生まれ。MKのハイヤー課に所属。高度な運転技術と卓越した「おもてなし」で、国内外問わず多くのVIPを魅了している。

― 現在のご活躍からすると意外ですが、中村さんは、最初から志を持ってドライバーになられたわけではないそうですね。

実は、継ぐつもりで携わっていた家業が傾き、短期間でお金を稼がなくてはならない事情があったのです。車の運転には自信がありましたし、たまたま目にしたMKの「高給優遇」という新聞広告に惹かれて、この道に入ったのは29歳のときでした。なまじ業界のことを知らず、ここで頑張っていれば道が開けるかもしれないと、素直に仕事に臨んだのがよかったように思います。乗務員に対するMKの教育は厳しくて、たとえば、気持ちのいい「はい」を言えるまで訓練を繰り返したりする。なかには「ばからしい」と辞めていく人もいましたが、私にとっては、やること見ることすべてが新鮮で。お客さまにどう向き合うか、その哲学のようなものは、私が更地だったから真っ直ぐに入ったのでしょう。

― 入社して間もなく観光部に配属となり、10年後に海外語学研修にも参加されるなど、順調にキャリアを積んでこられました。

まだタクシーやハイヤーで観光をするというシステムが確立されていなかった時代に、MKで観光部が新設されることになり、先輩が「試験を受けてみないか」と勧めてくれたのです。ベテランに交じって、運良く合格してしまって(笑)。英語習得のためにイギリスの語学学校に行かせてもらったのは1992年です。業界の取り組みとしては早かったし、これも1期生。本当に、私は機会に恵まれてきたと思いますね。初めてお供した外国のお客さまはフランスの政府要人でした。急に回ってきた仕事だったので、私は緊張して臨んだのですが、結果気に入っていただいて、再訪日の際にも「中村で」と呼んでくださった。ご指名やご紹介を受ける喜びを早くに知り、私は褒められることで育てられたのかもしれません。

サービスの評価はお客さまがするもの

― たとえば、手描きの地図を作成するなど、お客さまを喜ばせるための工夫をたくさんされています。それらは、ご自分で考えるのですか?

そうです。お供するまでに、できる限りの準備はするように努めています。英語の勉強を続けてきたとはいえ、当初は海外のお客さまを案内するには拙(つたな)さがあったので、せめて回ったルートはわかりやすいようにと、文字や絵に残すようにしました。手描きの地図に、拝観したお寺、食事をしたお店など、お客さまがお食事をされている間に描き足したりして、当日のルートを完璧に再現して、お渡しする。これは、続けて30年以上経ちます。
お客さまがハリウッドスターであれば、事前に出演映画は観ますし、当日、私の携帯電話の着信音を映画の主題曲にしておくこともあります。万が一鳴ったとき、喜んでいただけるのではないかと思って。そんな具合に、毎晩寝る前の数時間を準備や情報収集に充てています。本番で、それらがわずかでも役に立てばいいのです。

― サービスを極めるのは本当に大変なことですね。

日に2件以上のご指名があるときなどは労力もかかりますが、苦に感じたことはありません。とにかく楽しいのです。ただ、気をつけているのは、独りよがりのサービスにならないということ。観光タクシーの場合、ドライバーは得てして知識を長々と披露しがちですが、それがお客さまの満足につながっているかどうか、考えなければいけない。またコースについても、内心で「観光にもっといい場所があるのに」と思っても、お客さまがそれを希望されるのなら、決して出しゃばってはいけません。サービスの評価はお客さまがするものです。それをはき違えないよう、お客さま一人ひとりと向き合うことを、常に肝に銘じています。

いちばん怖いのは慣れてしまうこと

― 中村さんにとって、この仕事の喜び、醍醐味とは何ですか。

ハイヤードライバーをしていなければお会いできないような方々と、同じ空間、時間を共有できることでしょうか。とくに印象に残っているのは、スティーブ・ジョブズ氏を龍安寺の石庭にお連れしたとき。ずいぶん感銘を受けられたご様子でした。そういう"とき"をご一緒できるのは尊い経験です。そして、お客さまのお供を無事に終えたときの達成感は何ともいえません。「楽しかった」と満足なお顔で帰っていただけたら、疲れなど吹っ飛びます。以前、お客さまから「世界中を回って多くの素晴らしい景色を見てきたけれど、人がいちばん美しいのは日本だ」と言われたことがあります。日本のホスピタリティはまだまだ向上できる、私はそう信じています。

― 「まだまだ」という言葉は、中村さんのご著書のなかにも出てきます。完全ではない、まだ進化できると思い続けていらっしゃるのですね。

長くやっていて、いちばん怖いのは慣れてしまうこと。経験から身についたテクニックに頼ってしまうと失敗します。どこまで自分がお客さまの立場になれるか、心を向けられるか。本当に必要なのはそれだけです。だから完成はない。チャップリンは、「あなたのベスト作品は?」と聞かれたときに「ネクスト・ワン」と答えたそうですが、私もそういう心持ちでいたいのです。視野を広げれば、タクシー業界はサービスの世界においてまだまだ後進的です。私はその底上げにも貢献したいですし、運転技術に自信を持てる限り、お客さまのご要望のために全力疾走できる体力がある限り、この仕事を続けていきたいですね。

Text=内田丘子 Photo=和久六蔵

After Interview

龍安寺の石庭には、もう4500回はお客さまをご案内しているのだという。どの位置から見ても15ある石のうち1つは見えないという通説を引いて、「お寺のなかにあるミニチュアの石庭を上から覗き込めば、全部見えるのですよ。生きているうちにはすべては見えない。亡くなって天から見たときに、初めてすべてが見えるようになる、という意味だと私は思っているのです」と言う。だからこそ、これまでにお供をしたなかではこれが一番、とどれかを理想形に位置づける心境にはならないのだそうだ。今の自分にはまだ、見えないはずだし、わかっていないはずだと思うのだという。
毎朝、緊張しながらその日のお客さまをお迎えに上がり、最後に車から降ろしたときにようやくほっとして、また翌日に備える。この繰り返しの日々を、今なお中村さんが過ごしておられるという事実こそが、この方のサービスが人を魅了し続ける真の理由だろう。
どこまでも柔和な表情で険しい道を進んでおられる中村さんの、可愛らしい手描きの地図を私もいただくべく、近い将来に京都を再訪することを決意した。

聞き手=石原直子(本誌編集長)