成功の本質第106回 Ontenna(オンテナ)/富士通

聴覚障害者と健聴者が振動と光で音を楽しむ「新しい未来」をつくる

音の大きさを振動と光の強さに変換し、音の特徴を伝える。長さ約6.5センチの手のひらサイズのデバイス「Ontenna(オンテナ)」が、ろう学校の授業の光景を大きく変えようとしている。取材に訪れたのは、茨城県水戸市にある県立水戸聾(ろう)学校。幼稚部から高等部まで、聴覚障害のある幼児、児童、生徒80名が通う。小学4 ~ 6年生合同のオンテナを使った音楽の授業を見学した。児童は14名。オンテナにはクリップがついており、髪の毛や耳たぶ、服の襟など思い思いのところにつけることができる。
オンテナはマイク、バイブレーター、LEDを内蔵。マイクが音を感知すると同時にブルブルと振動し、チカチカ光る。コントローラーと呼ばれる装置と複数のオンテナとを通信で結んで使うこともでき、コントローラーのボタンを押すと複数のオンテナが同時に振動する。
また、コントローラーにマイクを接続すれば、マイクが感知した音を複数のオンテナにリアルタイムで伝達することもできる。たとえば音楽に合わせて集団でダンスをするときなど、従来は先生の動きをずっと見ていなければならなかったが、オンテナを使えば、目を離しても振動を感じながら動きを合わせることができる。
この日の授業の課題は、さまざまな打楽器を使ったアンサンブルだ。大きな音から小さな音へといった具合に、音の強弱をオンテナで感じながら、リズムに合わせて合奏する。14名が4チームに分かれて練習し、いよいよ発表タイム。真剣に演奏する児童たちの表情が印象的だ。
オンテナを使った感想を児童に聞いてみると、「前はリズムが合わなかったのが、オンテナがあるとリズムが整ってくるようになりました。すごくうれしかった」(小学6年生女子)。音楽担当の小畑由紀子教諭も、「リズムが複雑な曲でもコントローラーのボタンを押してリズムを伝えながら合唱したら、初めての曲なのに一発で揃って感動したこともありました」。
中学の体育の授業。バドミントンでシャトルを高く遠くに飛ばすハイクリアという打ち方の練習だ。落下してきたシャトルを打つ打点の判断が難しいが、先生がコントローラーで合図を送ると、次々にうまく打てるようになっていった。「オンテナを使うと打つタイミングがわかるのですごく面白い」と中学3年生男子。オンテナの効果を岡村正洋校長はこう話す。
「オンテナを使って、できなかったことができたと実感すると、次はこんなことをやってみようと目標が立てられる。技術が障害を補完することで、子供たちが自己肯定感を持てるようになれば、大きな成果だと思います」

大学時代に聴覚障害者と出会う

w158_seikou_003.jpg本多達也 氏
富士通 
テクノロジーソリューション部門 ビジネスマネジメント本部 事業推進統括部 グループ経営推進室
Ontennaプロジェクトリーダー
Photo=勝尾 仁

富士通がオンテナを開発したのは、1人の若手人材が入社したことがきっかけだった。水戸聾学校を訪ねた日は、その開発者も同行した。テクノロジーソリューション部門Ontennaプロジェクトリーダーの本多達也だ。「この人がオンテナをつくったんだよ」と紹介すると、子供たちは大喜び。「オンテナをつくってくれて、ありがとうございました」と笑顔を送った。本多が言う。
「僕はこの笑顔のためにオンテナを開発したのです」
オンテナの開発は本多と2人の人物との出会いから始まる。1人目は大学1年生のとき、学園祭で道に迷っていたのを案内した相手だ。先天的に聴覚障害のあるろう者で地元のろうあ団体の会長を務めていた。これが縁で、本多は手話を習い始め、手話通訳ボランティアや手話サークルなどの活動をしながら、会長と一緒に手話教材を作成するNPO法人を設立するなど交流を深めていった。
もう1人は、アルバイト先の家電量販店でテレビを売った相手で、キャンパスで偶然再会したら自身が通う大学の教授だった。教授は視覚障害者に身体感覚を使って情報を伝える方法を研究していた。テクノロジーを使った「身体感覚の拡張」に興味を覚えた本多は教授が指導するコースへと履習を変更すると、自身は聴覚障害者に音の情報を伝える方法を研究テーマにした。大学4年生のときだ。
最初は光の強弱で伝える装置を考案したが、会長にダメ出しされる。「耳が聞こえない分、視覚情報に頼っているわれわれにとって新たな視覚情報が加わるのは負担になる」。そこで、光に加えて、バイブレーターによる振動で音を伝えるという今の設計の原型が生まれた。音とアンテナを足してオンテナと命名した。
問題は、どこに装着するかだった。腕や手は手話や家事の邪魔になる。肌に直接貼る方法はかぶれや蒸れが懸念された。そんなとき会長がヒントをくれた。「風が吹くと髪がなびいて、風の方向がわかるよね」。振動を感じやすい髪にとめられるデザインにたどり着いた。

w158_seikou_002.jpgPhoto=富士通提供

富士通の役員と出会う

大学院2年目の2014年、その研究が一躍脚光を浴びることになる。25歳未満の若手IT人材を発掘育成する「未踏プロジェクト」(独立行政法人情報処理推進機構主催)に応募。「独自性・革新性があり、将来社会的インパクトを与えイノベーションを創出する可能性を秘めたテーマ」にオンテナの開発が採択されたのだ。約230万円の研究資金が支給され、本多自身も「スーパークリエータ」に認定される。実用化を求める声が内外から寄せられた。
卒業後はあるメーカーに就職。個人で研究を続けたが限界もあった。そんなとき、未踏プロジェクトの関係者から富士通の役員を紹介される。「オンテナを製品化したい」「特にろう学校の子供たちに届けるための開発をしたい」と思いを伝えた。その理由を本多はこう語る。
「リズム感は人間にとってとても大切で、エスカレーターで足を踏み出すのもリズム感です。リズム感を身につけるにはできるだけ年齢が早いほうがいい。未来ある子供たちの可能性を伸ばしてあげたかったのです」
役員は「うちに来てやらないか。自由にやっていい」と即答。就職したメーカーは8カ月で辞め、2016年1月、富士通に転じる。プロジェクトが組まれ、聴覚障害者も参加し、プロトタイプづくりが始まった。ここで注目すべきは、開発と並行して、本多が各種メディアを介して情報発信に力を入れたことだ。「社内より社外に向けて発信し、富士通がオンテナをつくっていることに関心を持ってもらって協力者を増やし、戦略的にまわりから足場を固めていった」という。

ビジネスの可能性を模索

特に注力したのは、エンターテインメント分野でのオンテナの活用というビジネスの可能性を模索することだった。たとえば、オンテナを装着して映画を観るとBGMや効果音を音だけではなく振動でも楽しめる。スポーツ観戦では場内の歓声を振動で体感できる。その背景には、オンテナに込めた本多のもう1つの思いがあった。
「聴覚障害者のための福祉機器ではなく、健聴者も使いたくなる製品をつくり、聴覚障害者と健聴者が一緒に音を楽しむ。それがオンテナがもたらす新しい未来の形になる。僕がオンテナを装置や機器ではなく、『ユーザーインターフェイス』と呼ぶのも、誰もが隔たりなく楽しめるような音との接点になればという意味を込めたからでした」
情報発信の成果で、テレビ局や旅行代理店などから「イベントで使いたい」といった案件が寄せられるようになった。福祉機器ならば市場は限られるが、用途が広がれば事業として成り立つ。社内には事業性を不安視する声もあったが、「中間層を飛び越え、できるだけ上層部と会って、『大丈夫です』と言い続けました」(本多)。
2018年7月、事業化が決定。製造は、電子デバイスの設計・開発・販売を手がける富士通エレクトロニクスが請け負うことになり、エンジニア、デザイナーなどからなる量産開発チームが発足した。なかでも最も重要なソフトウェアの設計は石川貴仁・同社ソリューション技術本部プロジェクトリーダーが担当することになった。ただ、石川は当初、乗り気ではなかった。
「開発者の障害者に対する目線がどんなものかよくわからなかったからです。でも、本多さんに会い、障害のあるなしに関係なく一緒に音を楽しめる未来をつくりたいという思いを知って、共感した。最後には、ぜひやらせてほしいと私のほうから頼んでいました」(石川)
期限の2019年3月まで9カ月しかない。石川はメンバー全員でろう学校を訪ね、製品を使うことになる子供たちの姿を目に焼きつけると、短期決戦に挑んでいった。オンテナの構造はシンプルだが、小さな筐体のなかに数千もの部品を組み込む。音の感知と振動の間にはわずかな遅れも許されない。価格を抑えるためコストにも配慮する。
「最大の課題は、マイクがバイブレーターの振動音を拾わないようにすることで、これは困難を極めました」
プロトタイプづくりで本多がつかんだ振動の感覚を石川がスペック化する。試作をろう学校で使ってもらい、フィードバックを受ける。このサイクルを繰り返し、最終的に60~90デシベルの音圧の音を256段階の振動と光に変換するのが、音のパターンを最もよく表現できることをつかんだ。光の質にもこだわり、中心部は明るく、外側は柔らかい光になるように工夫を凝らした。
「超短期の開発で苦労の連続でした。でも、試作をしてろう学校に持っていくと、子供たちが喜んでくれる。その笑顔が見たくて無理をしてでも頑張りました。13年間開発を続けてきて、最高に幸せな開発でした」(石川)

w158_seikou_005.jpg2019年7月末、国立能楽堂で行われた、能のバリアフリー対応公演にて、オンテナを髪にとめ、能楽鑑賞を楽しむ人たち。富士通はファンの拡大を情報通信技術(ICT)を通じて支援すべく、能楽協会とパートナーシップ契約を締結した。
Photo=富士通提供

大企業だから実現できた

w158_seikou_006.jpg石川貴仁 氏
富士通エレクトロニクス
ソリューション技術本部 エンジニアリングセンター システムソリューション部
プロジェクトリーダー
Photo=勝尾 仁

2019年6月、一部のろう学校で体験版の無償提供を開始。「声を発するのが苦手だった児童が積極的に発話するようになった」「打楽器に興味がなかった子供が夢中になって叩き始めた」といった反応が返ってきた。全国には118校のろう学校があるが、希望する学校へのオンテナ10台とコントローラー1台の無償配布も決定した。
翌7月、通販サイトで個人向け販売が始まる。オンテナの価格は税別で2万4800円、コントローラーは2万9800円。イベントでの利用を想定し、スポーツ・文化団体向けの貸与サービスや企業向けの複数台数のセット販売も始めた。
卓球のTリーグの試合で卓球台の近くにマイクを設置し、聴覚障害者と健聴者がラリー音を振動と光で共有して観戦する。能の舞台を振動と光で鑑賞する。東京モーターショーではエンジン音を体感する等々、各種イベントも企画されるようになった。現在、AIを使い、使用目的に合わせて特定周波数にだけ反応する技術開発を国の研究プロジェクトとして進めている。
本多が個人での研究に限界を感じたとき、起業の誘いも寄せられたが、独立の選択はとらなかった。その理由をこう話す。
「もし富士通という企業に入らなければ、これほど短期間で完成度の高い製品をつくることはできなかったでしょう。日本の大企業には、製品化の多様なノウハウが財産として蓄積されています。自分の研究を実現したいという目標を持った若者が大企業の力を借りながら、思いを形にして社会実装していく。そういう動きがどんどん広まっていけばいいと思います」(文中敬称略)

Text=勝見 明

大企業こそリソースを活かし若手のイノベーション実現を支援すべきである

野中郁次郎氏
一橋大学名誉教授
オンテナのようにエッジの効いたイノベーションはたいてい、ベンチャー企業から生まれる。大企業の場合、革新的で独自性のあるアイデアが生まれても、さまざまな部署や人間からの圧力によりエッジが削られ、凡庸化してしまう。
では、富士通という、グループ総従業員数が13万人を超える巨大組織で、なぜ、オンテナをつくり出すことができたのだろうか。第1に、「何がよいことか」という共通善(コモングッド)に根ざした目標を持った異能のリーダー人材を外から取り込み、プロジェクトを発足させ、発想と行動の自由度を保証したことだ。本文では触れられていないが、プロジェクトにはプロダクトデザイナーやクリエーターなどアナログ人材を投入した。イノベーションはアナログから生まれる。
ただ、それだけでは、社内の圧力により、プロジェクトは思うようには進まなかっただろう。ここで第2の条件として重要なのが、リーダーの動き方だ。本多氏は組織の内部だけに頼るのではなく、自ら外に向けて働きかけた。そして、オンテナの社会的認知度を高め、ビジネスでの活用の可能性を開拓し、外から内へと攻める戦略をとった。
一方、内部に対しては、オンテナ事業のリスクを危惧する層とは距離を置き、一定の階層以上の人間にアプローチし、いわゆる“握る”関係を結んだ。「聴覚障害者と健聴者が一緒に音を楽しむ新しい未来」という理想を追求しつつ、組織を動かす政治的センスも駆使する。理想主義的プラグマティズムがここにある。
3つ目に着目すべきは、量産化の段階で、コンセプチュアルなリーダーである本多氏と製品化の技術と経験を積んだ現場リーダーの石川氏という、異質な人材同士のペアが生まれていることだ。本多氏が蓄積した心地よい振動の暗黙知を、石川氏がスペック化して形式知に転換していく。同質な人間同士では忖度以上のものは生まれないが、異質であるがゆえの知的バトルは、さまざまな矛盾や課題を克服していく。個人の思いを組織化し、実現するときの人間関係におけるペアリングの重要性を認識すべきだろう。
オンテナは小さなイノベーションだが、振動と光により五感の感覚質の質量を豊かにするオンテナ・ワールドへの共感が広がれば、大きなイノベーションに転じる可能性を持つ。「夢をかたちに」とは富士通のスローガン。大企業こそ、意欲ある若手に夢をかたちにする場を提供すべきだ。
野中郁次郎氏
一橋大学名誉教授
Nonaka Ikujiro 1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学経営大学院博士課程修了。知識創造理論の提唱者でありナレッジマネジメントの世界的権威。2008年米経済紙による「最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にアジアから唯一選出された。『失敗の本質』『知識創造企業』など著書多数。