極限のリーダーシップ大槌町前町長 碇川 豊氏

急がば回れ。未来を見据えて本当に必要なことを着実に進めることがリーダーの役割

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2011年3月11日の東日本大震災。津波は岩手県の三陸海岸沿いの小さな町、大槌町ものみこんだ。大槌町の死亡者・行方不明者は1286人。町民の1割近くを失った。病院や消防署はがれきの山と化し、役場も住民や町のデータも津波で消失、被害は甚大だった。町役場では職員139人のうち町長と職員の40人が命を落とした。町長不在のなか、残された職員たちで被災した町民の対応にあたっていたが、隣市の釜石や宮古などと比べあらゆる面で復興にはほど遠く、被災地のなかでも「周回遅れのトップランナー」といわれるほどの状況に陥っていた。
2011年8月から4年間、大槌町町長に在任していた碇川豊氏は、もともと町役場職員。前年の12月に41年間勤めた役場を退職して町長選挙に出馬、選挙運動中の震災だった。地震直後に高台に避難して津波から逃れたものの、職員時代は津波警戒本部長を務めていただけに、たくさんの人が亡くなったことが「くやしかった」と振り返る。年内に復興計画をつくることを公約として、8月の町長選に当選。まちづくり政策のコンセプトとして「海の見える、つい散歩したくなるこだわりのある『美しいまち』」を掲げ、町民が海が見える安全な高台に居住し、美しい景観で人が交流する新しいまちづくりを目指した。

住民主体の復興を目指す

町長として真っ先に取り組んだのが、復興計画策定だ。碇川氏が進めたのは、復興案を住民が自ら考えてつくるという手法だった。
「復興計画は上からの押し付けであってはならない。大槌町は岩手県のなかで人口流出が最も多い町です。住民が誇りを持ち、人を惹き付ける町にならなければ未来がない。それだけに、住民が町のエンジンとなり、自分たちの町を自発的につくることが重要だと考えました」
ほかの被災地では、役場がスピード感を持って復興計画をつくり、住民に承諾をとる形が多かった。ただでさえ復興が周回遅れといわれていた大槌町にとって、住民が主体となる碇川氏のやり方はさらに手間と時間がかかる方法に見えるが、「この方法が町のためになると信じていました。『うさぎとかめ』のかめかもしれませんが」という。
具体的には、大槌町を10の地区に分け、それぞれの地区で地域復興協議会を立ち上げて、住民の話し合いで復興案を作成・提出してもらう。たたき台もないゼロからの提案づくりだ。

w161_kyokugen_02.jpg大槌町では地域復興計画を住民主体でつくり上げた。それを可能としたのが、町を10の地域に分けて開催された地域復興協議会ワークショップだ。毎週のように住民が集まり意見を交え、2カ月で方針を決定。その後1カ月かけて町役場がとりまとめ、大槌町の復興計画がつくられた。

枠組みづくりが自分の仕事

w161_kyokugen_04.jpg土地の区分や避難住宅の説明を住民に説明する町長時代の碇川氏

復興計画を住民主体で考える、といっても、住民にとっては初めての経験だ。そこで、碇川氏は各地区の話し合いがうまく機能するように、リーダーとコーディネーターの人材を配置する工夫をした。リーダーには町の復興に自ら動いていた若者を選び、碇川氏が直接依頼した。また、会議の進行を受け持つコーディネーターには、大槌町にあった東京大学の国際沿岸海洋研究センターを通じて東大の教授や研究者に協力を仰いだ。
「住民主体を実現するための枠組みをつくることが町長の仕事なんですよ」
当初、住民たちにはとまどいもあった。「復興計画は町役場の仕事なのに、なんで自分たちが考えなければいけないのか」と反発する人もいた。だが週1回のペースでワークショップが開かれ、住民同士が話し合いを重ねるうちに、議論が活発になっていった。9月にスタートしてから2カ月、各地区から案が提出され、12月にはそれらをとりまとめた「大槌町東日本大震災津波復興計画」が無事に策定された。碇川氏が町長に就任してから実質4カ月。「周回遅れのトップランナー」があっという間にほかの被災地に追いつき、住民主体の復興計画が異例の速さで策定されたと話題になった。「でき上がったときはうれしかった。急がば回れ。かめの作戦のほうが着実に前に進むんです」

心のゆとりと信念のバランス

復興計画ができ、次はその実現プロセスだ。そこでは、人々の思惑やむき出しの感情と対峙しなければならないことも当然出てくる。
「私はもともと打たれ強い。不条理なことがあったときは宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の詩のなかの“でくのぼう”になります(笑)。心がかたくなにならないよう、ハンドルの遊びのように少しゆとりを持たせ、『まあいいか』とつぶやいて乗り切ってきました」
心を柔軟に保ちながらも、誰にも譲らなかったことがある。それは、町長として目指す「防災を文化とした町・大槌」というビジョンだ。
「ところが、それが4年後の2015年の町長選で争点となってしまいました。被災して使えなくなった町役場をシンボルとして後世に残すことを主張したのですが、それを無駄だと考えた人が多かったのだと思います」
町長としての役割は4年で終わったが、住民主体で生まれた活動は碇川氏在任中に大きく育ち、今も続く。避難所の女性たちが始めた「大槌刺し子」、地主不明の山林を手入れする「吉里吉里国(きりきりこく)」など。碇川氏が築いた住民主体の復興の礎はさまざまな活動のなかに息づいている。

w161_kyokugen_03.jpg東日本大震災のとき津波で甚大な被害を受けた大槌町。右の大槌川、左の小槌川に沿った平地の多くが波にのまれた

Text=木原昌子(ハイキックス)

碇川 豊氏
大槌町前町長
Ikarigawa Yutaka 1951年、岩手県上閉伊郡大槌町生まれ。1969年、大槌町役場に入職。総務課長、津波警戒本部長の任務を経験。41年の職員生活ののち、町長選出馬のため59歳で退職。東日本大震災後の2011年8月から4年間大槌町町長を務め、町の復興に携わった。