極限のリーダーシップ海洋科学掘削プロジェクトリーダー 稲垣 史生氏

世界中の科学者を 巻き込んだプロジェクト。成否のすべては準備で決まる

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Photo=大平晋也

地球の地殻の下から深さ2900キロあたりまでの固体部分であるマントル。地殻変動や生命の誕生と進化など地球というシステム全体を理解するため、マントルへの掘削到達は世界の地球科学研究者の夢であり、半世紀以上さまざまな挑戦が続けられている。国立研究開発法人海洋研究開発機構、略称JAMSTECは、海洋科学掘削を通じた地球科学の分野で世界でもリーダー的存在だ。稲垣史生氏は、20年以上にわたって海底下深部への挑戦を続け生命圏の探索に携わってきた、マントル到達に最も近い存在の1人である。

稲垣氏の専門は地球微生物学。国際的な海洋科学掘削プロジェクトの推進と同時に、海底下深部にある太古の地層中の微生物の生態系を探り、地球環境と生命圏との相互作用を研究。「地球というのは、表層と地下が結びついたワンシステムで、両方合わせた形で生命を理解することが重要なのです」と語る。

マントルへの距離は、地上よりも海底からのほうが短いため、深海底から掘削する方法が現在とられている。JAMSTECが保有する「ちきゅう」は、世界中の科学者の夢をのせた地球深部探査船だ。探査プロジェクトは規模が大きく、研究者約30名、航海スタッフと掘削スタッフ約150名を含め、最大約200名が乗船。1回の航海は約2カ月におよぶ。稲垣氏は首席研究者(プロジェクトリーダー)としてこの大所帯をまとめ、いくつもの研究成果を上げてきた。

175_kyokugen_01.jpg「ちきゅう」のヘリデッキに集まった科学者たち。稲垣氏が首席としてプロジェクトを率いた国際深海科学掘削計画(IODP)第370次研究航海 室戸沖限界生命圏掘削調査:T‒リミットは、世界から33人の科学者が参加した。掘削するのは水深4776メートルの海底から1200メートル下にある生命の限界温度に近い120℃の地層。この高温・高圧の極限的な環境に、生命の起源や進化に迫る「海底下生命圏」が存在することが明らかになった。
写真提供= JAMSTEC

トラブル時の対応を準備しておく

2012年、稲垣氏が率いる「ちきゅう」によるプロジェクト「下北八戸沖石炭層生命圏掘削」は、海洋科学掘削における掘削深度の記録と海底地下深くにある石炭層のサンプル採取を目指して実施された。ところが掘削調査中にトラブルが発生した。

175_kyokugen_02.jpg地球深部探査船「ちきゅう」内にある掘削作業現場。細い管で海底を掘削し、地層を採取する。地層サンプルは「生もの」。微生物の微弱な生命シグナルをキャッチするため、ただちに科学者の解析の手にかけられる。
写真提供= JAMSTEC

海底地下の掘削には、ライザー掘削という方法がとられ、船上と海底の間をつないだパイプのなかに特殊な泥水を通し、ドリルビット(刃先)から噴出させて掘り進めていく。先端まで送られた泥水は還流して船上に戻る仕組みで、削った岩石の破片などを回収できる。しかしその泥が船上に戻ってこない「逸泥(いつでい)」という現象が発生したのだ。船から送り込む泥水がどんどん地層に吸われていくため、なかなか掘進できない。要所で地層を円柱状にくり抜いたサンプルを採取する作業も不可能になる。プロジェクトの成否に関わる大問題だった。稲垣氏と掘削チーム、航海スタッフたちによる会議がただちに開かれた。

「コンティンジェンシー(代替)プランの準備はしていました。しかしプランBやCでは掘削の世界記録を達成できない。短時間で達成できる違う目標を目指すプランもあった。だが、本来の目標を達成できる可能性はまだ残されていると思いました」

2カ月のオペレーション期間のうち既に3週間が過ぎていた。逸泥の壁を補修するとなると、さらに時間が費やされる。世界各地から乗船した研究者たちは地層サンプルを待っていたが、まだ1個も採取できていなかった。巨大なプロジェクトの成果がゼロになるかもしれない。

稲垣氏が出したのは、「この深度ではサンプル採取はできなくてもいい。逸泥の壁をふさいだら、ケーシング*をしてドリルダウンしましょう。この半世紀で達成した掘削距離2111メートルを突破する能力を発揮してほしい」という結論だった。

「頭がフル回転しました。巨大なプロジェクトを失敗させるわけにはいかない。目先のサンプル採取を優先する方法もありました。ですが、『ちきゅう』を信じて世界記録更新を目指しました。最終的な意思決定にかかった時間は10分程度でした」

船上の研究者チームには丁寧に状況を説明し、この深度ではサンプル採取を行わずに、海底下2000メートル付近の石炭層を目指すことを全員に理解してもらった。

「基本的な方針を明確に乗船研究者に話した結果、『掘削がうまくいくのを信じて楽しみにしている。そして、私たちが世界記録を更新することを願っている』と言ってくれました」

その後無事に逸泥は解消され、掘削は順調に記録を伸ばし、2466メートルを達成。当時の海洋科学掘削における掘削記録を355メートル更新し、世界記録を達成した。最終的にサンプル採取もでき、世界最深部の海底下微生物生態系の発見など大きな科学的成果も残すことができた。

175_kyokugen_03.jpg写真提供= JAMSTEC

*ケーシング/掘削孔を保護するための鋼管を差し込むこと。孔壁の崩れを防ぐことができる。

幸運は準備した人に宿る

未知の海底下フロンティアに挑戦する大規模なプロジェクトには、このような物理的なトラブルだけでなく、研究がうまくいかないなど、さまざまな問題が発生する。稲垣氏は、常に問題を事前に防ぐべくベストの態勢を準備し、それでも現場で起こったことはその場で解決してきた。そうして得たさまざまな研究成果について、稲垣氏は「自分はラッキーだった」という一言で表現する。これを聞いたある研究者が、稲垣氏にこう言った。

「幸運は準備した人に宿る」。フランスの細菌学者パスツールの言葉だ。

稲垣氏のビジョンと目的を叶えるための緻密な準備がプロジェクトを実現に導き、新たな発見という「ラッキー」につながっている。

Text=木原昌子(ハイキックス)

稲垣史生氏
Inagaki Fumio

海洋研究開発機構 研究プラットフォーム運用開発部門 マントル掘削プロモーション室室長・上席研究員。東北大学大学院 理学研究科地学専攻教授。九州大学農学部、大学院にてバイオテクノロジーを研究。博士課程修了後、海洋研究開発機構に入所。有人潜水調査船「しんかい6500」による深海底熱水噴出孔などの調査に従事。その後、地球深部探査船「ちきゅう」での下北八戸沖石炭層生命圏掘削プロジェクト、および室戸沖限界生命圏掘削調査:T-リミットなど大規模プロジェクトにて首席研究者を務める。地球生命科学分野の第一人者。