人事、仏に学ぶ社員を退屈させず、かつ、追い詰めもせず働いてもらうには?

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「退屈」という言葉は仏教用語です。本来は「仏道を求める心が退き屈すること」で、修行の困難に負けて投げ出すことを指していたのですが、いつの間にか暇を持て余すという意味で使われるようになりました。
若い僧侶が厳しい修行に耐えられるのは、一人前の僧侶になりたい、悟りを得たいという目的があるからです。もし目的を見失えば、すぐに「退屈」してしまうでしょう。仕事も同様です。社員が仕事の目的を見失えば、仕事にうんざりして投げ出したくなるでしょう。
つまり、社員が退屈そうに働いていたら、「この仕事は、部署や会社、社会にこんなメリットをもたらしている」など、仕事の意義を理解してもらうことが大切です。仕事の意義を理解し、「だから私はこの仕事をするのだ」と思えば、その人は前向きに働けるでしょう。 
しかし、仕事の意義を追求することは、さじ加減が難しいのも事実です。「なぜ働くのか?」「生活のため」「なぜ生活しなければいけないのか?」「生まれてきたから」「なぜ生まれてきたのか?」……と延々突き詰めると、いつか答えが出ない問いにぶつかります。こうした境地を仏教では「不思議」、すなわち、思ったり言葉にしたりできない領域だとしています。さらにその先には「不可思議」もあります。ここから先は「思議すべからず」、つまり考えてはいけないというわけです。
仏教における「苦」とは、思い通りにならないことです。不可思議の領域についていくら考えても、結局、答えは出ません。つまり思い通りにはならず、苦しむだけなのです。そこで、こうした領域があると認めたうえで、割り切って棚上げするのが仏教の知恵です。
「まあそこは考えても仕方がないから」と笑えるようなゆとりが上司になければ、部下は追い詰められてしまいます。意義や目的をとことんまで突き詰めようという合理的な姿勢が企業では好まれますし、それも重要なことではあるのですが、時にそれが社員にとって多大なる負担となることも理解しておくべきではないでしょうか。

Text=白谷輝英 Photo=平山諭

名取芳彦氏
真言宗豊山派布教研究所研究員
Natori Hougen 大正大学を卒業後、英語教師を経て元結(もっとい)不動密蔵院の住職となる。また、真言宗豊山派布教研究所研究員、真言宗豊山派布教誌『光明』編集委員などとしても活躍中。『般若心経、心の大そうじ―人生をのびやかに過ごす32の方法』(三笠書房)や『ゆたかな孤独―「他人の目」に振り回されないコツ』(大和書房)など、著書多数。