人事、仏に学ぶ人事評価にAIを導入するのは正しいのか


w160_hotoke_01.jpg私はお寺の長男として生まれましたが、幼少期は僧侶になるのがいやで、最初の大学では情報工学を専攻しました。しかしお寺を継ぐことになって仏教系の学部に入り、そこで仏教のとらえ方が変わったのです。
お釈迦様は人の心や世界のあり方をさまざまな形で説いていますが、その手法は非常に科学的・論理的です。たとえば、すべては原因と結果で成り立つとする「縁起」という概念は、理系でITを学んだ私にとって、なじみやすいものでした。
人の心を科学的にもとらえようとする仏教に携わる私にとって、近年、多くの人事が興味を持つ「AIによる人事評価」に違和感はありません。ただし、AIが下す評価に従業員が納得できるかどうかは別の問題です。
先日あるお寺に「アンドロイド観音」が登場したそうです。しかし、過去の法話データを詰め込んで立派な説教をしても、アンドロイド観音がそこにいるだけでは「観音様」にはなれません。その言葉に感動し、心から拝む人が登場したとき、はじめてアンドロイド観音は「本物の観音様」になり得るのです。
同じことは人事評価にも当てはまるでしょう。AIには客観的で公平な判断が下せる半面、思考の過程がわかりづらいという欠点もあります。「どういうプロセス・根拠で私への評価を下したのかわからない」と不満を感じる部下が続出するようでは、AIによる評価は成立しません。
では、部下を納得させるにはどうすべきでしょうか。AIだけに頼らず、しっかり人を見ることです。
禅ではよく「看脚下(かんきゃっか)」という言葉を使います。足元を手で触るようにじっくり見よ(=看よ)という教えです。人を評価するときは、この精神を忘れないようにしたいものです。己の五感をフル活用して注意深く評価すれば、部下も心から納得して受け入れてくれるはずです。
「得魚忘筌(とくぎょぼうせん)」という教えも重要です。魚をとったら、道具である「筌」は忘れなさいという意味で、目的と手段を取り違えるなという戒めです。AIは人をしっかり見るための道具の1つにすぎないと承知したうえで、うまく活用すべきでしょう。

Text=白谷輝英

泰丘良玄氏
臨済宗妙心寺派寶雲山泰岳寺 副住職
Yasuoka Ryogen 慶應義塾大学理工学部情報工学科を卒業後、花園大学文学部国際禅学科に進んで仏教を学ぶ。卒業後、愛知県の徳源寺専門道場にて禅修行。現在は臨済宗妙心寺派寶雲山泰岳寺にて副住職を務めるかたわら、ブログ執筆、テレビ・ラジオ出演、講演活動などを通して布教を行っている。著書に『身の回りには奇跡がいっぱい! 一日一禅 禅に学ぶ幸せの見つけ方』(セルバ出版)、『理工学部卒のお坊さんが教えてくれた、こころが晴れる禅ことば』(学研プラス)などがある。