「働く」の論点働く人のための人的資本経営 キャリアオーナーシップを尊重して価値創造を推進する人材戦略とは 大久保幸夫

ポイント

✓企業から見た人的資本とは、従業員一人ひとりがもつ多様な知識やスキルなどの能力の集合体である。それらの能力の所有者である従業員に共感を得て、支持される人材戦略でなければ、価値創造という成果を上げることはできない

✓人的資本経営とこれまでの日本型雇用との違いは、従業員を大切にする方法の違い。雇用を守ることが大切にする方法だと考えるか、それとも一人ひとりの思いや強みを尊重することが大切にする方法だと考えるのか、が異なる

私が人的資本経営という言葉と出会ったのは1999年だった。1992年にノーベル経済学賞を受賞した故ゲーリー・ベッカー博士が、1964年に発表した『人的資本(Human Capital)』を発想のベースとして、人材をコストではなく資産・資本としてみなす新しい経営のコンセプトであった。興味をそそられて、海外に視察に行くとともに、これを日本で広めようとWorks誌で特集を組み(※1:ただし当時は知的資本経営という言葉が一般的だった)、シンポジウムなどを開催した。当時の関心は人的資本をどのように評価するかということにあり、残念ながら方法論が難しく、ブレイクスルーするには至らなかった。

そのような経験があったので、令和の時代になって政府が人的資本経営を旗振りしたときには、懐かしさを覚えつつ大きな期待をもって見守っていた。2020年に「人材版伊藤レポート」で人的資本経営の考え方が発表されると、経営者およびCHROに大きなインパクトを与え、機関投資家も含めた大きなうねりになっていったのである。

しかし今度は人的資本や人材戦略の情報開示に関心が集中し、やはりブレイクスルーには至っていないように思う。あと何が必要なのか。思考を巡らせていたときに、一般社団法人日本経済調査協議会の人材委員会で主査をやらないかというオファーをいただいた。これを機会として、CHROや専門家の皆さんにお集まりいただき(※2)、約1年にわたって人的資本経営に関する議論を積み重ねてきた。

投資家のための人的資本経営から働く人のための人的資本経営へ

私がこだわったのは、働く人を主役にすることだった。投資家の視点を組み込んだことは大きな成果だったが、やはり人的資本の本来のオーナーは働く人々であり、その人々に伝わり、共感されなければ運用に乗らないと考えた。そこで人的資本経営の定義を肉付け(※3)して、「人的資本経営とは、従業員一人ひとりが思いをかなえる経営であり、人材に投資することを通じて持続的に企業価値を高める経営である」とした。従業員一人ひとりが、というように働く人々を主語にした文章を組み込んだのである。この定義が決まると、人材戦略のつくり方の方向性が明確になってきた。

人材戦略のABCDEパッケージに込めた従業員に対する約束と期待

CHROの各委員から自社の取り組みを発表していただき、それを分類・編集した結果、1つのフレームが浮かび上がってきた。それが図に示す人材戦略のABCDEパッケージだ。企業戦略や業種によって具体的な施策は異なるが、ABCDEという5つの方向の施策群をセットで導入することで、人的資本を通じて価値創造を推進していく道筋が見えてくる。

図表 人的資本経営を実践するための人材戦略の5つの次元 ―ABCDEをつなげて体系的に取り組む

図表 人的資本経営を実践するための人材戦略の5つの次元 ―ABCDEをつなげて体系的に取り組む

A: Attraction
Aは採用・リテンションに関する戦略である。豊かな人的資本をもつ人材、具体的には「専門的かつ体系的な知識」「業務遂行に必要な対人能力や思考力」「ものの見方・考え方」「慮る力やサービス精神」「創意工夫する行動特性」などであるが、そのような人材を惹きつけるための金銭的報酬・非金銭的報酬をどのように設計するかということ。囲い込むのではなく、Win-Winな関係を築くための道筋を考えた。

B: Bridge
Bは経営の思いと従業員一人ひとりの思いをつなぐ方法についてである。企業が掲げるパーパスや経営理念、中期経営戦略などと、個人がもつ価値観や信念をつなげるために、対話を促進しつつ、目標管理制度などの制度面の見直しをすることが必要だと考えた。一人ひとりの思いを把握し、実現に向けて思う存分働けるポジションへの異動を司る機能も欠かせない。

C: Career ownership
Cはキャリア形成の主導権は個人にあるという前提で、キャリアオーナーシップを尊重し、いかに人事がそれを阻害しないかという視点で議論した。個人選択型の人事異動やプロとして頂点を極めることが奨励される体系など、人事制度の根幹を見直す要素が盛り込まれている。

D: Diversity
Dはダイバーシティ戦略だが、はっきりと価値創造を目的としたダイバーシティと言い切っている。女性活躍にフォーカスした話ではなく、一人ひとりの経験と知識の多様性こそ価値創造の源泉だと考えた。経験と知識の多様性からは、多様な「仮説」が生まれる。それが活かされる風土、企業文化の醸成までが視界に入る。

E: Equity & Engagement
Eは働きやすさと働きがいを両立させて、無駄な時間を徹底的に省き、自らの仕事に没頭できる環境をつくるという方法について考えた。異なる一人ひとりに対する支援や配慮。それを実行するマネジメントスキルの向上までを議論した。

ABCDEはできる限り短期間に集中的に展開することが望ましい。何をしようとしているのかを従業員にストーリーで説明し、コミットメントを引き出す。
経営戦略と人材戦略が対になって全体が見えるようになると、人的資本経営はいきいきと動き出す。

従業員を大切にする方法が変わる

人的資本経営は、これまでの日本型雇用と違うものなのだろうか。人的資本経営の話をするとき、長く人事に関わってきた人からは「うちは昔からやってきた」という声が聞こえてくる。しかし、従来の日本型雇用とは大きく違うところがあるのではないかと思っている。

それは従業員を大切にする方法が違うということ。日本型雇用の原点は「雇用を守る」ということを通じて従業員を大切にしてきた点にあると考える。雇用を守るために強い人事権を発動してきた。そして公平・平等を重視して、標準化されたルールで管理・処遇してきた。

一方で人的資本経営は、「従業員一人ひとりの思いを尊重」し、「強みを活かして働きがいをもって働ける環境を整備すること」が従業員を大切にすることだと考える。従業員の主体性を重視し、公正であることを大事にしている。

この違いは大きな違いである。おそらくこれから長期にわたって人材不足の環境が続くと思われるが、そこで重要度が増してくるのは、個が活きるということであり、それは企業価値の持続的向上につながる。

今までの延長戦上のことと捉えるとうまくいかない。哲学はかなり異なると考えた方がいいのではないだろうか。

人的資本経営の実践的ストーリーブック

日経調人材委員会での議論の結果は、2つのレポートにまとまった。1つは「人的資本経営と人材戦略―人的資本経営の実践的ストーリーブック」と題した経営者向けのレポートである。人材戦略ABCDEの具体例を豊富に盛り込んである。

そしてもう1つは、これがユニークなのだが、働く個人向けにつくった、「人的資本経営と『働くあなた』」、と題した解説書である。この解説書では、従業員に対する約束と期待を強調する形をとった。

これらは日本経済調査協議会のサイト(https://www.nikkeicho.or.jp/result/jinzai/)からダウンロードできるのでぜひご覧いただきたい。
また2024117日にはオンラインシンポジウム(無料)(※4)も予定されているので、興味があればご参加いただきたい。

参考文献
島貫智行「「人的資本経営」と人的資源管理」一橋ビジネスレビュー(711号)特集:日本企業の人的資本経営p42-55(東洋経済新報社)
有沢正人,石山恒貴著『カゴメの人事改革:戦略人事とサステナブル人事による人的資本経営』(中央経済グループパブリッシング)
経済産業省「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書~ 人材版伊藤レポート ~」令和29

(※1)Works 42 特別編集「知的資本とナレッジワーカー」(200010-11月)など
(※2)ヤマトホールディングスの木川眞委員長のもと、カゴメの有沢正人氏、富士通の平松浩樹氏、サイバーエージェントの曽山哲人氏、プロテリアルの中島豊氏というCHROの皆さんと研究者である中央大学ビジネススクールの島貫智行氏にご参加いただいた
(※3)経済産業省は、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方、と定義している
(※4)オンラインシンポジウムでは、ABCDEパッケージのフレームに合わせてパネリストのCHROに自社の人材戦略を語っていただくことになっている

大久保幸夫

※本稿は筆者の個人的な見解であり、所属する組織・研究会の見解を示すものではありません。