極限のリーダーシップ

国境なき医師団 村田慎二郎氏

リスクを限りなくゼロに近づけていくために
あらゆる策を講じる

2019年06月07日

Photo=刑部友康

国境なき医師団(以下、MSF(*))は、紛争や災害、感染症、栄養失調などで危機に瀕している人たちに医療を提供する国際NGOだ。MSFで日本人初の「活動責任者」となった村田慎二郎氏が赴任していた某国でも、紛争のただなか、比較的安全な地区に病院を設置し、医療活動を展開していた。だが、あるときから病院の周辺への砲撃が頻発し始める。次第に病院の近くにも着弾することが増え、激しい爆音や爆風が病院を襲うようになった。MSFから派遣された15人のメンバーと現地スタッフの100人は、いつ病院に砲弾が命中してもおかしくない、というなかで活動する事態に陥ったのだった。
「何か手を打たなければいけない」。村田氏は難しい判断を迫られていた。「現場の人々の安全をどう守るか。病院を放棄して全員撤退するのが最も安全な策でした。しかしそれでは紛争で傷ついた人たちが医療を受けられなくなってしまいます」

安全な医療活動の基盤をつくる

MSFのスタッフの約半数は、医師や看護師ではない非医療従事者で構成されている。村田氏も医師ではない。活動責任者は、派遣国におけるMSF代表として、紛争地で敵対する双方の勢力に病院を攻撃しないよう交渉し、活動の安全を守る責任を負う。「交渉相手は政府の指導者や警察、保健省、軍の関係者、そして武装勢力組織や紛争の利害関係に関わる重要人物などです。MSFは武器を持ちません。話し合いで信頼を得ることが武装するよりずっと安全を確保できるからです。経験上、これが最もリスクを下げられます」

すべての対策を俎上に載せる

Photo=国境なき医師団提供

冒頭の某国の病院を設置するときも、当然村田氏は対立する双方の勢力から病院を攻撃しない約束を取りつけていた。しかし砲撃は現実として起きた。「何らかの手を打って病院を存続させるか、撤退するか。スタッフや患者の命に関わる難しい決断でしたが、存続への道を探ることを決めました。そのためには、ゼロにできないまでもできる限りリスクを減らす必要がある。すべての対策のオプションをテーブルに並べて考えました」
存続させるための方法として、村田氏は「交渉」「移転」「防御」という順で対策を講じた。すべてがだめなら、最後は撤退しかないと覚悟した。最初は「交渉」。砲撃してくる組織に病院周辺への砲撃中止を要請しようと考えた。しかしその組織とどうしても直接交渉ができない。「現地のネットワークも使って情報を集めて分析しましたが、彼らが何を標的に砲撃しているのか、このときはついに突き止められませんでした」
次の手段は病院の「移転」だ。村田氏はより安全なエリアに病院を移す案を欧州のMSF本部に提案。しかし砲撃の目的がわからない以上、移転してもその場所が狙われたら病院は運営できなくなると却下された。
交渉も移転もできない。村田氏は、「防御」によるリスク回避の模索を始めた。「スタッフから出た案を採用して、ヘスコで防御壁をつくって砲撃から病院を防ぐことにしました」。ヘスコは高さ5mほどある軍事用の巨大な土嚢(どのう)だ。「病院を囲むように設置すれば、銃撃や爆弾の衝撃から建物を守ることができる。すぐに本部に提案し、ヘスコ設置の追加予算の承認を取りつけました」。存続のための方法を検討し始めて1カ月、病院の周りに防壁が完成した。

リスクを減らし撤退を免れる

防壁はできたものの、もし病院を直接爆撃されたらスタッフや患者の命を保証できないことに変わりない。村田氏は最後に、病院に残るか避難するか、全員と個別に面談し、意思確認をした。「残るかどうかはそれぞれの意思を尊重する、と話しました。全員が、『続ける』と病院に残る道を選択してくれました」。でき得る限りリスクを回避して、病院は撤退を免れることができた。防壁に囲まれた病院は現在も活動を続け、毎月数千人の命を救っている。
村田氏は2019年の夏から1年間、ハーバード大学の公共政策大学院へ留学する。「人道援助活動を守るためには派遣国のトップに立つ政策決定者の意識を変えることが大切だと感じています」。村田氏は、かつてある国のキーマンから十分な信頼が得られず、MSFのメンバー全員のビザを停止させられたことがある。政策決定者との対話や関係性構築の重要性を痛感した経験だ。「世界中の官僚、軍人、政治家が集まる学校で、彼らが何を考えているのかを知り、より実践的なMSFの政策提言戦略を描きたいのです」。紛争地での交渉や作戦実行という経験を数多く積んでもなお、村田氏のより大きな課題への挑戦は続いている。

 

 

(*)MSF:Médecins Sans Frontières

Text=木原昌子(ハイキックス)

村田慎二郎氏

Murata Shinjiro 静岡大学人文学部経済学科卒業後、外資系IT企業で3年間営業職として働く。2005年、医療・人道援助を行う国際NGO「国境なき医師団」に参加。現地の医療活動を支える物資の輸送や水の確保などを行う「ロジスティシャン」として経験を積む。2012年、派遣国の全プロジェクトを指揮する「活動責任者」に日本人で初めて任命される。援助活動を国レベルで交渉。これまで8カ国の紛争地や自然災害の被災地で支援活動を続けてきた。