半歩先の人事を考える視点現場に人事権を委譲し、人事部は「コーディネーター役」へ 社員の意思をベースに配置・育成を(八代尚宏氏)

八代 尚宏 特命教授昭和女子大学現代ビジネス研究所
八代 尚宏 特命教授

昭和女子大学特命教授で、規制改革推進会議の委員なども歴任した八代尚宏氏は1998年、著書『人事部はもういらない』で、人事部に採用や異動、昇進などの権限が集中していることの弊害を指摘した。あれから25年、八代氏は現在の人事部について、どのような認識を持っているのだろうか。

強権を行使してきた人事部 25年前と「あまり変わらない」

「集権的に人を動かす点において、現在の人事部も1998年当時とあまり変わっていないように思います」と、八代氏は語り始めた。
公募など社員主導の異動の仕組みが整い始めたとはいえ、日本企業は依然として人事部が異動を命じ、ジョブローテーションでゼネラリストを育成する形が主流だ。日本経済が上げ潮だった時代は、どのような職務でもこなせる社員が主体で、事業が成長した面もあった。しかしその後、少子化に伴う労働力人口の減少やDX(デジタルトランスフォーメーション)などで経営環境は激変し、社員の「個」の力を引き出すことが重視されるようになった。
「生産性が高まらず、イノベーションも生まれづらいという苦境を脱するには、社員個人が営業や経理など各領域で、能力を高め専門性を発揮しなければいけない。そのためには本人が『成長しよう』という自発的意思で行動することが不可欠です」

本人がキャリアの主導権を持ち、身につけるべきスキルを決めるからこそ、学びへのモチベーションも高まる。そのためには「採用や昇進等の人事権を各事業部に分散させ、現場のニーズと社員の希望をすり合わせて、個別に人を配置できるようにする必要があります」。
採用などの権限も現場に移すことで、たとえば対人交渉力等には乏しくても、各々の部署が求める能力は突出している、といった「尖った人材」も迎え入れやすくなり、人材も多様化すると期待する。
「人事部は各事業部の人事情報を把握した上で、組織全体として人材配置の整合性を確保するために、上から目線で人事権を発動するのではなく、部署間の異動を希望する人材と現場のニーズをマッチングさせ『人材サービス機能』としての役割を果たすべきです」

同時に、社員の人事に関する不満・不安を管理職や経営幹部へ伝える「代弁者」や、社員のキャリア相談を受けて必要な研修などを紹介するアドバイザーとしての役割も求められるという。
「時には管理職に対して『その振る舞いはパワハラです』『このままでは優秀な人材が失われますよ』などと苦言を呈し、嫌われ役も務めなければいけません」

学びは社員の義務でなく権利 活躍の場づくりは人事部の責任

八代氏は人材育成も、企業主導から社員主導へとシフトする必要があると主張する。
「学ぶことは社員の権利なのに、多くの企業は義務として、本人のニーズに合わない、一律の研修などを押し付けてきました。育休ならぬ『教育休業制度』を設け、雇用保険で休業中の賃金を一定程度保証することで、社員が企業外で自発的に学び、学位や資格を取得することをサポートする役に回るべきです」
なかには上司が「この人は優秀だから、抜けられると現場に大きな穴が開く」「スキルを高めたら離職してしまう」などと考え、社員の「学ぶ権利」を阻害してしまう組織すらある。こうした上司の「部分最適な判断」をチェックし、企業全体の長期的な利益のために、意欲の高い社員に学ぶ場を提供することも、人事部の大きな役割だ。

また「学んだ人が会社を辞めてしまうのは、人事部の責任」とも話し、社員が身につけた知識やスキルを生かして、活躍できる場を用意することの重要性も訴える。
「海外留学などに送り出すのを『ご褒美』のように考え、社員が戻ってきたら『次は会社のために汗をかいてもらおう』と、取得した学位等を生かせない部署やポジションに配置する企業も少なくありません。これではせっかくの学びが無駄になり、社員の意欲も低下し、転職を促すことになりかねません」

社員間の平等性に配慮するあまり、スキルの有無と配置を切り離して考える企業も見られる。しかし八代氏は、社員間の競争を促し組織を活性化するためにも、スキルや能力に応じて処遇に差をつけることは必要だと考えている。ただ、それには目先の賃金上昇ではなく、社内の良いポストへの配置で報いる、「仕事競争モデル」の活用が効果的という。これは、社内で重視されている部署へ優先的に配置されれば、そこには「『エース級』の上司や社員が集まっており、そうした人材と一緒に働くことで貴重な企業内訓練を受け、さらに成長する機会が得られます」

組織も雇用慣行も変えられない 過去の成功体験が障壁に

経営層の多くは、既存の制度でトップへ上りつめた「成功体験」があだとなり、組織を抜本的に変えることをためらいがちだ。この結果、ジョブローテーションや一律的な研修など、日本型の雇用慣行も温存されてきた。人事部が社員を問答無用で転勤させたり、配置転換したりする人事権の代償として、不況や事業再編の際も雇用維持に努める法的な義務も生じる。
「多くの経営者は、不況時の雇用確保に備えて、平時から労働時間の削減余地を広げるため、慢性的な残業を前提とした働き方を選択します。このことは、特に共働き夫婦にとって子育てとの両立が困難となり、女性の活躍を阻害する要因となっています」

近年、大企業で導入が相次ぐ職務等級制度、いわゆる「ジョブ型」雇用も、雇用契約を結ぶ時点で職務が限定されている欧米企業とは、似て非なるものだ。「日本企業が職務無限定のままジョブ型を導入しても、欧米の制度をできる範囲で『つまみ食い』しているにすぎません」と指摘する。
本来、最も重要な職種である管理職に、正社員の多くがいずれ昇進できるという慣行が、限られた管理職ポストに中高年層が滞留し、有能な若手を抜擢できない結果も招いている。「管理職は、限られた人にしか務まらない厳しい仕事と位置づけ、ピラミッド型の組織に変える必要があります」

欧米企業では、管理職は率いる部下の職務をすべて把握し、必要な場合は部下に代わって仕事を担える「最も優秀なプレーヤー」であることが求められる。また「モノ申す」ことを良しとする文化もあり、部下は評価に不満があれば、どんどん疑義を申し立てる。管理職は管理と実務、いずれについても高い能力と責任が求められる難しい仕事なのだ。
このため、一部のワーカホリックな社員だけが管理職に応募し、大部分は専門職のままで満足するため、人事部が中高年者の処遇に悩まされることは少ない。
「限られた優秀な人材だけが管理職に就くようになれば、人事評価もより公正に行われるようになり、組織も変わるはずです」

日本では、管理職がキャリアの「王道」であるがゆえに、非管理職に留まる道が仕組み化されていないことも課題だ。高い技能を持つ社員が望んでもいない管理職を務めたり、管理職を希望しない技術者がジョブ型の外資系へ流出したりと、「有為な人材が無駄になっています」と八代氏は嘆く。
「選抜を潜り抜けた管理職ら優秀な人材には、高い賃金を支払える仕組みにする一方、自発的に非管理職としてワークライフバランスを維持する専門職人材が、相応の賃金を得られる道も整える。こうした社員の意思を尊重した組織変革は、従来の雇用慣行を打破することにもつながるでしょう」

密度濃く働き、定時で帰る組織へ 上司の意識改革が人事部の役目

八代氏はまた、雇用慣行が女性の労働参加を阻害する要因にもなっているとも指摘する。
「政府が男性育休などの制度を整備しているにもかかわらず、いまだに多くの女性が出産を機に退職しています。残業が常態化し、同僚がみな就業時間後も働き続けるような職場で子育てと仕事を両立するのは、特に女性にとって心身の負担が大きすぎるのです」
とりわけミドルシニアの管理職の一部ではいまだに、長く働くことを評価する意識が強い。こうした管理職の意識改革も、人事部の大事な役割だ。
「業務時間内で密度濃く働き、仕事を終わらせることを評価するよう、人事が意識づけを行うのです。管理職が、部下に残業ありきで過剰な業務を負わせないよう、仕事の範囲を明確化する必要もあります」

女性が働きやすい職場は、男性にとっても魅力的な職場といえる。男女問わず若い優秀な人材が集まれば、業績にもポジティブな効果が期待できる。
「これからは育成や配置、評価や両立支援などあらゆる場面で、社員個人という『主体』に紐づいた人事の在り方が求められるようになります。人事部が果たすべき役割は、人事権の行使ではなく、コーディネーターとしての領域にあります」

聞き手:千野翔平(研究員)
執筆:有馬知子