労働需給は短期的要因、長期的には生産性の向上で賃金が上がる「成長シナリオ」へ
人手不足が深刻化する中、企業に賃上げの動きが広がっている。労働需給が賃金を押し上げるトレンドは今後も続くのか。また労働人口が減少する中で、生産性を高め経済成長に結び付ける「シナリオ」をどう描くのか。経済産業研究所で生産性などを研究する森川正之所長(一橋大学経済研究所特任教授)とリクルートワークス研究所坂本貴志研究員・アナリストが、賃金と生産性の「これから」について対談した。
需給逼迫が足元の賃上げ要因 女性・高齢者の労働参入には限界も
坂本:近年の労働市場で起きた最も大きな変化は、言うまでもなく人手不足の深刻化です。2010年ごろまでは、業況判断DIと雇用人員判断DIは概ね連動し、景気が上向けばビジネスが拡大して人手不足感が強まる構図になっていました。しかしその後、DIに乖離が生じ、現在は景気変動と関係のない、構造的な人手不足の様相を呈しています。失業率も2%台の低水準が続き、ほぼ完全雇用の状態にあると考えられます。
(出所)日本銀行「全国企業短期経済観測調査」
人手不足を背景に、過去10年間で時間当たりの名目賃金は約1割上昇しました。最低賃金(最賃)の大幅引き上げなどで短時間労働者の時給が約2割増えたことが、賃金上昇率を押し上げた形です。こうした事象をどのように捉えていますか。
森川:最賃引き上げは、短時間労働者の賃金を押し上げていますが、賃上げ全体については労働需給の逼迫という内生的な要因の方が大きいと考えています。最賃を引き上げても、正社員の配偶者を持つパートタイマーは世帯年収の減少を防ぐため、パート収入が一定の枠内に収まるよう労働時間を調整してしまいます(※1)。このため1人当たりの労働時間は減り、総労働投入量は就業率の上昇ほどには増えません。したがって、需給のタイト化を促してしまう面があります。
また労働需給の逼迫で賃金が上がる中、コスト上昇分が物価に反映されている面もあるため、実質賃金の伸びは抑制されています。
坂本:過去10年に起きたもう一つの変化は、女性・高齢者の就業が進んだことです。女性の就業率は男性に近いレベルにまで上昇し、高齢者の就業率も高まりました。賃金と就業率との関係を考えると、少しでも賃金が上がれば就業率は大きく上昇する状態になっており、労働供給は弾力的な状態にありました。つまりこれまでは女性や高齢者に労働参加の余地が残されていたため、賃金上昇が抑制されてきたと考えられます。
森川:女性・高齢者の就業率上昇は賃上げだけが原因ではなく、働き方改革が進んで育児と仕事を両立しやすい環境が整ったことや、年金支給開始年齢が引き上げられ高齢者雇用を促す制度改正が行われたことなどもかなり寄与しています。高齢者に関しては健康寿命が伸びる中、労働参加拡大の余地はまだ残っていますが、女性については、働ける人の多くはすでに労働市場に参入しているため就業率はかなり天井に近づいており、これ以上の押し上げには限界があるでしょう。
実質賃金の伸びは生産性が決める イノベーションも貢献
坂本:就業率が天井に近づく中で労働供給が賃金に対して弾力的でなくなれば、賃金上昇が加速する可能性もあります。そうなった時、企業が賃上げに引っ張られる形で省力化に取り組み、結果的に生産性が高まる、というシナリオは考えられますか。
森川:労務費の増加を抑えるために業務の無駄を見直して不要な仕事を省いたり、人の担っていた業務を自動化したりすることで、結果的に企業の生産性が高まることは期待できます。生産性と賃金は表裏一体なので、賃金が上がると生産性を高める努力が促されるという方向と、生産性が高まるとそれが賃金に分配されるという方向の両面があります。
付加価値のうち労働者に賃金として分配される割合、つまり労働分配率は景気局面や労働需給によってかなり変動しますし、技術の変化や労働組合の交渉力などによって変わりますが、大局的に見れば実質賃金の伸びは生産性の上昇率と連動します。また、クロスセクションで見ても、生産性の高い国は賃金が高く、また、生産性の高い企業ほど賃金が高いという関係が明瞭に観察できます。両方向のメカニズムではありますが、長期的には、働き手の生産性をどれだけ高められるかが、実質賃金の上昇を規定すると考えています。
坂本:働き手の生産性が高まることで初めて企業が成長し、得た利益が労働者に分配されてさらに賃金も上がる、というサイクルですね。
森川:日本の潜在成長率は2020年以降、年率0.5%を下回っており、成長率を高めるには生産性の向上が不可欠です。労働力人口の減少や長時間労働の是正による労働時間の短縮などによって、労働投入量は2000年以降、ほとんどの時期で成長率を押し下げる「マイナス寄与」となっており、人口減少が続く中、今後も基本的にはこのトレンドが続くでしょう。
ただし、画期的なイノベーションが起きて、それらが多くの企業に普及したりすることで、生産性が飛躍的に高まる可能性もないとは言えません。
AIが効率化に威力発揮 代替できない仕事もある
坂本:イノベーションという面では、企業は労働力を機械やデジタルツールに置き換える資本代替を進めています。かつて生産能力増強のために行われていた設備投資も、現在はDXによる業務の自動化・効率化を目的として行われるケースが増えています。特に昨今、注目を集めているAIは、生産性にどのような影響を与えるとお考えでしょうか。
森川:AIが生産性上昇にポジティブな影響を与える可能性は大きいと思います。私が最近行った調査によると、AIを業務で使っている人は就労者全体の6%程度ですが、使っている人の主観的な生産性は平均32%向上していました。生産性が30%上がるというのは計算上、10人必要だった仕事を、7人でできるようになることを意味します。
仕事以外ですでにAIを利用している潜在利用者も10%程度存在するので、企業内にAI活用の環境が整えば、業務で使う人が2倍に増えてもおかしくありません。そうなれば日本経済の生産性が約2%高まる計算になり、数年分の生産性向上が、AIによって引き起こされる可能性を示唆しています。また、これは個々の労働者の効率向上だけを見ているので、AIによって業務の仕組みをトータルに変えることで、生産性への効果はずっと大きくなるかもしれません。
ただ昨今ブームの生成AIは、事務処理、通訳や翻訳、調査・研究活動などホワイトカラー業務を効率化できても、人手不足感の強い運輸、建設などの現場には導入しづらいことに注意が必要です。
坂本:国勢調査を見ると、就業者人口は専門技術職で増加する一方、生産・販売工程の働き手は減っています。一方で運搬・清掃の仕事に就く人は増えるなど、ロースキルとハイスキルの領域が伸びる二極化の様相を呈しています。労働集約的な仕事、体を使った仕事の中には、AIへの置き換えが難しい作業もあることがうかがえます。
森川:完全な自動運転車ができたり、セルフレジがさらに普及したりすれば、人手不足が解消に向かう職種も出てくるでしょう。しかしマルチタスクの仕事や、器用な手作業が求められる仕事を機械で代替しようとした場合、高い機能が求められる分費用も高くなり、技術面からもコスト面からも実現が難しくなります。介護スタッフの仕事をすべて担えるロボットを作ることを想像すると、代替がいかに難しいかが理解できると思います。
坂本:難しい領域も残る中、傾向として人口減少の状況下で、自動化・省力化に向けたイノベーションは今後もかなり起きると考えられますね。
森川:かつて鉄道の改札が自動化されたように、着手しやすい領域からどんどん代替は進むでしょう。ただAIによって事務作業の効率化が大幅に進んだとしても、知的労働のすべてを担えるようになるとは考えづらく、新しいアイデアを生み出す仕事など、人にしかできない仕事の賃金はむしろ高くなることが考えられます。
後編「人手不足が深刻な飲食・宿泊や介護、人材の再配置で「現場」はどう変わるのか」に続く
(※1)正社員の配偶者を持つパートタイマーの多くは、パートの年収が106万円、130万円など一定額を超えると配偶者の所得が税制控除を受けられなくなるなどして世帯年収が減ってしまうため、収入が枠内に収まるよう労働時間を調整してしまう。政府はこうした就業調整が女性の労働参加を妨げる一因になっているとして、2023年から助成制度などを設けるなどして、年収が枠を超えても世帯減収が生じない環境の整備を始めている。
執筆:有馬知子
撮影:平山諭