賃金上昇が企業活動に与える影響を探る ―有識者へのインタビューを通して―人手不足は、パート・アルバイトの賃上げや人材活用に変化をもたらすか

パート・アルバイトをはじめとした非正社員の賃金水準は、最低賃金の大幅な引き上げなどで近年、上昇を続けている。一方で正社員に関しては、これまでは外部労働市場の影響を受けにくく、賃上げへの圧力が働きづらかったと、慶應義塾大学経済学部教授の太田聰一氏は指摘する。今後さらに人手不足が深刻化した際に、正社員の賃金を決める構造や、正社員・非正社員のタスクの在り方はどのように変化していくだろうか。

慶應義塾大学経済学部教授 太田聰一氏

太田 聰一 氏
1964年生まれ。慶應義塾大学経済学部教授。1987年京都大学経済学部卒業、ロンドン大学にてPh.D. 取得。名古屋大学大学院経済学研究科教授等を経て2005年より現職。京都大学経済研究所客員教授、内閣府経済社会総合研究所主任研究官などを歴任。著書に『若年者就業の経済学』(日本経済新聞出版、2010年)など。労働経済学専攻。

最低賃金の評価 景気状況にも依存

2023年の改定によって、最低賃金の全国加重平均は1,000円を超えた。時給で働く層の多くが引き上げの影響を受ける。企業にとって最低賃金の引き上げは、一部の従業員の人件費増につながる。人件費総額が固定されているとすれば、雇用する人数や投入する労働時間を減らさざるを得ない。つまり、最低賃金の上昇は求人数を押し下げる効果をもつことになる。

太田氏は、「既存の研究成果から、最低賃金の上昇は求人を減らす傾向がみられます。ただ、実際には景気動向に左右される面も大きいです」と指摘する。つまり、好景気で労働需要が多ければ、最低賃金が上昇しても求人数はあまり減らない。実際、最低賃金額の決定では景気動向も判断材料とされるため、景気拡大期には比較的大きく引き上げられる一方で、景気後退期には据え置くこともある。

それでは、景気がよければ最低賃金を大きく引き上げてもよいのだろうか。最低賃金を急速に引き上げた場合のリスクについて太田氏は、「最低賃金が高すぎる場合、景気後退期における雇用情勢の悪化がより大きくなる可能性はあります。今後、景気後退局面が発生して初めて、近年の大幅な引き上げの評価が下されるのかもしれません」と指摘する。

「今の賃金で人が集まらない」から人手不足? 働きづらい賃金上昇圧力

企業の雇用判断DIでは、大企業・中小企業ともに人手不足感は強まっており、太田氏も企業経営者から「採用に苦慮している」という声をしばしば聞いている。しかし企業各社は、あくまで現在の賃金を基準として「人手不足」と判断している節もあるという。
「企業経営者の嘆く『人手不足』は、『払いたい賃金では人が集まらない』ことから起きているのであって、賃上げすれば解消する可能性もあります。このため、本当に労働需給が逼迫しているのかどうか、判断が難しい面があります」

社員の採用難についても、多くの場合「賃金が低いから集まらない」という議論に至らないために、不足感が持続しているという。
「理論上は人手不足なら賃金は上がり、労働者が集まって不足感が解消するはずです。しかし正社員については、人手不足のプレッシャーが賃上げに直結しづらい構造になっているため、賃金がなかなか上がらない状況が続いてきました」

太田氏はその理由として、長期雇用を前提とする日本企業では、社員を組織のなかで育成・評価する内部労働市場が発達し、賃金決定に当たっても外部労働市場の影響が及びにくくなったためだと説明する。
「教科書的には、同じスキルをもっている人の賃金は転職を通じて平準化します。ある企業で働いている労働者が、他の企業でも通用するスキルを十分にもっていてその労働者の賃金が低いのであれば、他の企業からの誘いに応じて引き抜きが起きるからです」

「これに対し、日本の場合、賃金が外部労働市場を通じて決まるのが一部の産業や職業に限定されているのかもしれません。多くの労働者が、企業内での訓練を受けたうえで、人事制度上、大体このくらいの賃金が妥当であろうというように決定されているようにも見受けられます」

「スキル形成も組織内で行われるため、労働者は転職しようにも、自分のスキルが社外ではどう評価されるかがわかりづらいのです。また企業が外部の優秀な社員をヘッドハンティングしようにも、労働者のスキルが自社のニーズに見合ったものかの判断が難しいでしょう。結果的に、外部労働市場で生じている賃金上昇圧力が企業内に及びにくい環境が作り出されているのではないでしょうか」

そのほかにも、インフレ率が高かった1970年代、1980年代における労働組合の強い交渉力が徐々に弱まってきていることや、中小企業の場合、下請け構造で労務費などのコストを価格に転嫁するのが難しいことなども労働市場全体の賃金上昇圧力が企業内に伝達されにくい要因ではないかという。

他方、採用に関して一部で競争的な動きもみられると指摘する。
「初任給が上昇していることは観察されています。人手を獲得するための企業の自然な対応として表れていると考えています。ただ一方で、それが他の労働者にどこまで波及していくかということに関してはいろいろと議論があろうかと思います。ある程度波及していくとなれば、賃金の上昇圧力につながっていくのかもしれません。労働供給側の制約が今後強まりますので、賃金上昇への外部からの圧力が強まるなかでの変化は注視したいところです」

賃金上昇にともない、非正社員の正社員化も選択肢に

パート・アルバイトの賃金は正社員のそれと異なり、外部労働市場に影響される面が大きい。労働需給や最低賃金の動向によってパート・アルバイトの賃金水準が上がった際に生じる内部労働市場(社内)への影響はどのように考えられるのだろうか。

太田氏は、「パート・アルバイトの賃金が正社員に比べて上昇することで賃金差が縮小した場合、これまでパート・アルバイトだった人が正社員に転換されやすくなる可能性も考えられます。その際、正社員と非正社員との仕事上の代替関係が1つの論点になります。代替性が高ければ、賃金差の縮小が正社員へのシフトを引き起こす可能性が高いです」と指摘する。

さらに、正社員とパート・アルバイトとの代替性も、パート・アルバイトの賃金が相対的に上昇することで変化するという。
「これまでにも、非正社員が増えていった際に、正社員のタスクの一部分を切り分けていく時期があったように思います。その意味で、正社員と非正社員のタスクの振り分けの見直しも起こりうることです。その結果、今後非正社員のタスクが正社員に寄っていくような現象がみられるかもしれません」

聞き手:小前和智、坂本貴志執筆:有馬知子)