賃金上昇が企業活動に与える影響を探る ―有識者へのインタビューを通して―賃金・物価の好循環は実現するか 人手不足が過剰なインフレ招く恐れも

政府・日銀は物価と賃金が2%程度、定常的に上がり続ける「物価と賃上げの好循環」を生み出すことを目指している。しかし人手不足が深刻化すれば、政府の制御を超えて物価と賃金が急上昇する可能性もあると、東京大学経済学部教授の渡辺努氏は指摘する。好循環はどうすれば実現するのだろうか。

Tsutomu_Watanabe

渡辺 努 氏
1959年生まれ。東京大学経済学部卒業。ハーバード大学Ph. D (経済学専攻)。
日本銀行勤務、一橋大学経済研究所教授等を経て、現在、東京大学大学院経済学研究科教授。
株式会社ナウキャスト創業者・技術顧問。
専門はマクロ経済学(特に物価と金融政策)。

現状は物価上昇が先行、賃上げが物価上昇を追いかけている

渡辺氏は物価と賃金の動きを考える前提として「物価高による賃上げと、労働需給の逼迫による賃上げは性質が異なるため、区別する必要があります」と語る。

まずは2022年の春頃から、ロシアのウクライナ侵攻による燃料価格や原材料価格の上昇で、物価高が先行して始まった。物価上昇から労働者の家計を守るため、最低賃金の大幅な引き上げや2023年春闘による賃上げが行われた。
「物価と賃金がともに緩やかに上がる状況を作り出すことは、デフレから脱するメカニズムを生み出すうえで、非常に重要です。ただ物価を追いかける形で賃金が上がるだけでは実質賃金は上昇しないため、2023年の実質賃金はマイナスで推移しています」

一方労働市場では、物価を起点とする名目賃金の上昇からやや遅れる形で、人手不足による賃上げも進み始めているという。
特に非正規のパート・アルバイトは、おもな担い手である女性・高齢者の労働参入が天井に達しつつある。一方で、需要はコロナ禍からの回復や、外国人旅行客の増加によって強まる傾向にある。これによって労働需要に供給が追いつかなくなり「物価上昇より賃金の上げ幅のほうが大きくなる、つまり実質賃金の上昇が始まっていると考えられます」。

物価高への対応がメインテーマだった2023年春闘の際も、労働組合の多くは人手不足のため人が集まらず、現場が回らない実態を経営側に訴えていた。この頃から物価高による賃上げと労働需給の逼迫による賃上げが、同時並行で進みつつあったと、渡辺氏は分析する。
「需給の逼迫に対する課題感を労使が共有したからこそ、約30年ぶりの高い賃上げ率を達成できたと考えられます。逆に言えばもし需給が緩んでいたら、この水準は実現できなかったでしょう」

人手不足による賃上げは、オーバーシュートのリスクをはらむ

渡辺氏は早ければ2025年頃にも、賃金と物価が定常的に2%程度上昇する「好循環」の状態を達成できると予測する。ただ人手不足を起因とする賃金上昇は、その後も長期化する可能性が高いとみている。
「労働供給は簡単には増えず、むしろ来年よりも再来年のほうが、人手不足が深刻化する恐れもあります。そうなれば上昇する賃金を追いかける形で物価が上がるという、これまでとは逆のサイクルに入る可能性があります」

米国では、コロナ禍を機に多くのシニアが早めに退職し、自動車産業など特定の業種で人手不足が深刻化した。こうした産業では人を集めるため賃金を上げ、その結果、別の産業にも次第に賃上げが波及した。
企業が人件費の上昇分を商品価格に転嫁したことで物価が上がり、それを追いかける形で賃金もさらに上がった。こうして結果的に、米国では賃金を起点とした物価高のサイクルが生まれ、全面的なインフレ・賃上げに移行した。

日本でも現在、サービス業や運輸、建設など人手不足感の強い業種で、賃上げの動きが力強さを増している。いずれは米国と同じように賃上げが全産業へ波及し、物価も特定の品目に限らず全般的に上がるだろうと、渡辺氏は考えている。

また物価上昇を起点とした賃上げは、逆に言えば物価の上がった分しか賃金は上がらず、上昇幅に限りがある。しかし人手不足による賃上げには天井がなく、「企業の許容範囲を超えてパワフルに賃金が上がる可能性もあります」。
「そうなれば企業も本気で人件費を価格に転嫁せざるを得ず、物価も驚くほど上昇する恐れがあります。今は金融緩和によって緩やかなインフレを引き起こそうとしている日銀が、物価のオーバーシュートを防ぐため金利を引き上げることも考えられます」

実際に欧米の中央銀行は、過去1年ほど金融引き締めによって過剰なインフレを抑制し、その後で労働集約的な業種を個別にサポートする施策をとってきたという。日本も欧米を追う形で、こうした施策を迫られる可能性は十分にあると、渡辺氏は予想した。

中小企業のプライシングパワー回復が課題

一方、日本経済はデフレに足をとられて好循環にうまく進めない、という逆のシナリオもまだ存在する。企業各社、特に中小企業は長期にわたるデフレで、原材料費や人件費などのコスト上昇分を価格に転嫁する「プライシングパワー」が衰え、賃上げの原資を確保しづらくなっているためだ。
「中小の多くは、顧客である大企業からの取引を失うことを恐れ原油価格すら転嫁できない、といった状況が長く続いてきました。特に労務費については取引先も、企業努力で解決するよう求めがちで、交渉の議題にもなりませんでした」
中小企業がこのプライシングパワーを回復できるかどうかが、持続的な賃上げと好循環のカギを握ると、渡辺氏は指摘する。

公正取引委員会が2023年11月、労務費を適切に価格に転嫁するための指針を出し、不適切な取引をした企業については、社名公表などの厳しい対応をとり始めている。経団連も2024年1月、「労務費を含む適切な価格転嫁の推進」を打ち出し、少しずつ適正価格による取引の枠組みは整えられつつある。
ただ今後、価格転嫁を進めやすい環境が整ったとしても、なかには経営者の力不足などによって、賃上げできない企業が出てくるだろう。こうした企業は、市場からの退出を迫られることになる。
「賃上げできない企業からは、より高い賃金を求めて労働者が社外に流出することになります。このため、最終的には労働者がいなくなってビジネスを維持できなくなり、廃業に追い込まれることになるでしょう」

これまで日本は労働者の雇用確保のため、政策的に事業継続の難しい「ゾンビ企業」をも延命させる傾向があった。しかし人手不足による廃業の場合、労働者の大多数は流出し、残っていたとしても「売り手市場」で他の企業に受け入れてもらいやすいため、雇用への影響は少ない。企業が一定程度淘汰されることで過剰な価格競争も是正され、中小の価格転嫁も進みやすくなるという。
「淘汰が始まることで、労働市場は一時混乱するかもしれませんが、方向性としては望ましいと思います。政府は無理に淘汰を促す必要はないですが、不用意に補助金を支給するなどして、淘汰すべき企業の生き残りを図るべきではありません」

最賃引き上げは必要であるが 不況期に健全経営の企業も脅かす可能性も

渡辺氏は、近年の最低賃金の大幅な引き上げも「デフレ脱却の1つのツールとして、効果を発揮した」と評価する。

2023年8月には、岸田首相が2030年代半ばまでに、最賃の過重平均額を現在の1,000円超から1,500円に引き上げるとの目標も打ち出した。こうした発言も、政府が中長期にわたって賃金引き上げをサポートするという「アナウンス効果」をもたらした。
「労働組合は、2024年の春闘ですでに『最賃1,500円』を旗印に掲げ、正社員についてもそれに見合う給与水準へ引き上げる方向で交渉しています。このことが前年以上に高い賃上げ率を達成する追い風となっています」

ただ最賃があまりに急激に上がると、不況などで経済環境が悪化した時、ゾンビ企業だけでなく適正に経営している中小企業まで生存を脅かされかねない。
「私自身は当面、最賃の引き上げを続け、賃金・物価上昇の流れを力強いものにすべきだと考えています。しかしただ最賃を上げればいいという単純な話ではなく、企業側からの反対意見なども踏まえて、バランスのとれた水準を模索する必要もあるでしょう」

聞き手:坂本貴志小前和智執筆:有馬知子)