賃金上昇が企業活動に与える影響を探る ―有識者へのインタビューを通して―パート・アルバイトも「人的資本」の一員 投資対象と認識を

非正規労働者はこれまで、低コストの労働力、雇用の調整弁と捉えられてきた一面がある。しかし人的資源管理を研究する中央大学大学院教授の島貫智行氏は、人手不足が深刻化するなか、企業は非正規の働き手も「人的資本」と認識し、育成などに投資する必要があると指摘する。島貫氏に、今後の非正規労働者の人事・賃金制度の在り方を聞いた。

shimanuki_tomoyuki.jpg

島貫 智行 氏
中央大学大学院戦略経営研究科(中央大学ビジネススクール)教授
慶應義塾大学法学部卒業。総合商社人事部門勤務を経て、慶應義塾大学大学院経営管理研究科修士課程修了(MBA)、一橋大学大学院商学研究科博士後期課程単位取得退学。一橋大学博士(商学)。一橋大学大学院経営管理研究科准教授・教授等を経て現職。
専門は人的資源管理論。主な著書に『グラフィックヒューマン・リソース・マネジメント』(共編著、新世社、2023年)等。「戦略人事の考え方」を『一橋ビジネスレビュー』に連載中。

金銭的・非金銭的インセンティブを効果的に組み合わせる

企業側が労働者に提供する報酬は、金銭的なものとそれ以外に二分される。
「金銭も大事ですが、非金銭的な要素も含めて『トータルリワード』で考え、金銭的・非金銭的インセンティブを効果的に組み合わせることが、人材マネジメントの基本的な考え方です」

金銭的な報酬には、基本給やボーナスに加えて福利厚生的な「フリンジ・ベネフィット」、さらに広い意味では、賃金換算が可能な有給休暇なども含まれる。一方、非金銭的な報酬としては、職場にハラスメントがないことを含めた良好な人間関係や、多様性を尊重する風土、それによって醸成される組織の一体感などが挙げられる。

「インセンティブの効果的な組み合わせは、働き手の置かれた状況などによっても異なります。例えば金銭的志向が強い人には賃金で報いる割合を高め、ワークライフバランスを重視する人には働く時間と場所の自由度の高い制度を提供するといったイメージです」

さらに、非金銭的な報酬は、旧来の労働時間の柔軟性や休日・休暇といった限られたメニューだけでは不十分だという。教育研修やジョブローテーションを通じて成長の機会を提供する、仕事が社会にもたらす意義を説明し、「社会の役に立てた」という達成感や満足感を高めるなど、労働者のエンゲージメントやウェルビーイングにまで踏み込むことも求められるようになっている。やりがいのある面白い仕事を提供し「内発的動機」を高めることも、重要なインセンティブの一つだ。

「提示された報酬とは何か」 社員への説明が相乗効果を生む

企業経営者からは「賃金に魅力を感じる人より、企業理念に共感した人に来てほしい」という声がしばしば聞かれる。報酬として「賃金の高さ」を強調しすぎると、労働者が「さほど努力しなくても高い賃金を得られる」と考え、内発的動機が薄まってしまう、との懸念もしばしば提示される。

「仕事に面白さを感じればやる気が出て、成果も高まり離職率が下がるのは事実です。しかしこうした非金銭的な要素に重きを置くあまり、『賃金を上げても、モチベーションを高める効果はあまり出ない』と考えるのは早計です」

確かに、単に賃金を上げるだけでは仕事への意欲は高まりづらい。しかし職場のマネジャーが、成果を出した部下に対して報酬の意味づけをすることで、金銭的インセンティブが内発的動機づけにつながるという。さらには、賃金に加えて、成長機会のような賃金以外の要素をセットで提示し、会社の人材育成の考え方や部下社員への期待を説明することが、賃金によって効果的にモチベーションを高めるうえでのポイントだという。

「金銭的な報酬と、内発的動機や成長機会、社会貢献に対する意識など非金銭的な報酬との『つながり』を説明することによって、2つのインセンティブが正の相乗効果を持つのです」

正規と非正規の線引きが変わっていく可能性

しかしこうしたインセンティブの仕組みは、中核的業務を担う正規労働者に対してのみ提供され、非正規労働者は対象から外されてきた。
「企業は従来、中核的業務と周辺的業務を区分し、中核的な仕事を正社員へ、周辺的な業務を請負や派遣も含めた非正規労働者へ振り分けてきました」と、島貫氏は説明する。

その後次第に、正規は中核、非正規は非中核と単純に区別するのではなく、仕事の特性に応じて適切な就業形態の人を充てるという人材ポートフォリオの考え方が提示されるようになった。しかし、広まりはじめた当初のポートフォリオでは、非正規の仕事は高度化しても、正規の雇用形態へ移行することが少なく、賃上げや待遇改善にはつながりづらかった。

「企業は非正規労働者を、雇用のフレキシビリティを確保するための調整弁、またコスト削減のための労働力として捉えがちでした。そうした考え方が、雇用形態を移るという発想を阻害する壁になったと考えられます」
非正規と正規の間のギャップは大きく、働き方改革のなかで、同一労働同一賃金が論じられるようになっても、両者をうまく接続するという議論は不十分なまま終わってしまったという。

「労働需給が逼迫するなか、非正規の基幹化に伴い適切な賃金・処遇を提供するだけでなく、働き手を有期雇用から無期雇用へ、正規へと就業形態を移行させる企業が出てきました。限定正社員のような中間形態を設けるケースもありますが、非正規から正規へ移行するモデルは着実に広がりつつあります」

「都合の良い」非正規がいなくなる 問われる企業の育成投資

非正規から正規への移行が進むなか、「これからの企業は、非正規労働者を正社員と同様に、投資すべき人的資本と捉える必要性が高まるでしょう」と、島貫氏は話す。
なぜなら今後、現在と同じ賃金水準で、従来と同じ能力を備えたパートや派遣労働者を確保するのは難しくなると予想されるからだ。

例えば主婦パートの多くは学校卒業後、いったん正社員として能力形成をしたものの、出産・育児で労働市場から退出せざるを得なかった人たちだ。
「かつて企業は主婦パートという形で、一定の能力形成が済んだ人材を低賃金で採用できていました。さらに彼女たちは賃金が低くても『家庭と両立するため、本人が望んでパートで働いている』という理由すら立つ、企業にとって『都合の良い』存在だったともいえます」

しかし企業は、両立支援制度や転勤回避の仕組みなどを整備し、女性の正社員が出産後も離職せず働き続けられる体制を整えている。退職者をアルムナイとしてプールして、再雇用する動きも広がっている。正社員として働き続ける人が増えれば、能力を蓄積したパートや派遣労働者は減っていくだろう。

「そうなれば企業は、雇用リスクの回避やコストメリットを享受するために非正規労働者を活用するのではなく、人的資本として育成などに投資する必要性が高まります。人材育成投資の効果を高めるために正規雇用との接続を前提とした人事制度を構築することも、ますます求められるでしょう」

賃金水準だけでない、賃金制度が労働者の呼び込みに影響

賃金といえばインセンティブばかりが重視されるが、働き手が企業を選ぶ際の基準となる「ソーティング(選別)」の役割もあるという。その際賃金水準そのものはもちろん、賃金制度も判断材料になりうる。

例えば、2社の求人を考える。A社は募集時の時給が高いが、その後のスキルアップは限られ賃金上昇も小さい。他方、B社は募集時の時給こそ低いが、スキルアップによる賃金の伸びが大きく、正社員への転換制度も設けられている。この場合、労働者は当初の賃金が低くても、能力を蓄積することで収入拡大を期待できるB社を選ぶ可能性がある。

企業が非正規労働者のマネジメントを考える際、コストと人材確保とのせめぎ合いのなかで、募集時の時給などの「金額」を重視しがちだ。非正規から正規へ接続した賃金テーブルを設ける場合も、同一労働同一賃金の観点から、同じ仕事をする正社員との賃金額の比較がフォーカスされることが多い。しかし「どのように賃金が上がっていくか」という賃金制度や昇給制度を通じたソーティング効果も、企業は考慮する必要がある。

「勤続年数に伴って賃金が上がる制度なら、長く働きたい人が応募するでしょう。勤続年数にかかわらず、高度な仕事を担い能力を伸ばした人の賃金が上がる制度なら、難しくともやりがいのある仕事や、自身の成長を動機づけされた人が集まる。インセンティブとソーティング、両方の効果を考える必要があります」

聞き手:小前和智、坂本貴志執筆:有馬知子)