野中郁次郎の経営の本質デマント・ジャパン 代表取締役社長 木下 聡氏

聞こえに悩む人の人生を変える製品を

w175_keiei_main.jpg川崎市にあるデマント・ジャパンの本社にて。木下氏の趣味はランニングで、フルマラソンにも出場している。
Photo =勝尾 仁

経営においていちばん大切なことは何か。経営とは人間が行ういかなる行為なのか。これらの問いに対し、経営者はおのおの、思索と実践から紡ぎ出された持論を備えているはずだ。今回は、デンマークの補聴器メーカーの日本法人代表、木下聡氏に登場してもらった。

デマント・ジャパン 代表取締役社長 木下 聡氏
Kinoshita Satoshi 
1959年大阪府生まれ。1982年日製産業(現日立ハイテク)入社。米系プリンターメーカーなどを経て、2009 年、取締役副社長としてオーティコン(現デマント・ジャパン)に入社。2011 年より現職。

高齢化率約30%と世界一の水準をひた走る日本。加齢とともに起こるのが認知症であり、患者も急増の一途をたどっている。 

認知症を発症させる要因の1つが難聴である。音の刺激は脳への入力を意味し、その入力が途絶えることが発症リスクを高めるのだ。そこで出番となるのが、補聴器である。視力が弱ったら眼鏡をかけるように、聴力の減衰をカバーしてくれる。

世界には補聴器を扱う5大メーカーがあるが、うち3社がデンマーク企業で占められている。なぜデンマークなのかといえば、その背景には、歴史的にオーディオなど音に関する企業が多いことや、高福祉国家であるがゆえに難聴者に対する公的支援が行き届いているといった事情があるようだ。

そのデンマーク企業3社のうちの1社がデマントで、1904年に創立された。デマント・ジャパンはその日本法人であり、2023年に創立50周年を迎える。

同社社長、木下聡が、商品の特徴をこう説明する。「雑音と会話を分け、雑音を抑制し、指向性の強いマイクで会話をしっかり拾い耳に届ける、というのが従来の補聴器の設計思想でした。でもこのやり方だと、車の走行音など、周囲の重要な雑音を拾い逃したり、頻繁に話者が変わると、冒頭部分が抜けてしまったりする。私たちの今のアプローチは違います。最新の製品ではAIを使い、1200万もの実際の音を学習させたうえで周囲360度、すべての音を高速でスキャン・判別し、騒音を抑えて耳に届けています。これによって、従来の補聴器が苦手としていた騒がしい環境での聞き取りが容易になりました。音や耳ではなく、まず脳を優先し、疲れさせないという設計思想であり、これを『ブレインヒアリング』と呼んでいます」

同社は補聴器業界では唯一、本社とは独立した「聞こえ」に関する研究を行う部門を持つ。そこから上がってきた最新の成果がこのブレインヒアリングの技術だ。

経営史に名を残す「スパゲッティ組織」

デマントの社名は、創業者、ハンス・デマントから来ているが、創業以来、1997年まで、現在は商品ブランド名となっているオーティコンを社名としていた。そのオーティコンといえば、「スパゲッティ組織」を実践した企業、として経営史にその名を残している。

同社では、1990年代初め、各社員に開発プロジェクトを立ち上げる権限を与え、組織の壁を取り払ったのだ。傍から見ると、誰と誰がつながっているのかがわからない、極めてフラットで無秩序な状態となったため、「スパゲッティ組織」と誰かが命名した。「おかげで画期的な製品が生まれ、業績も上がりましたが、10年ほどで従来の組織に戻りました。当時の社員数は約1000名でしたから、そんなことができたのです。今やグローバルで1万8000名おり、この大所帯でやると大混乱になるでしょう。ただし、各自の自由な発想を大切にする、というその精神は今でも脈々と息づいています」

日本における難聴者の補聴器使用率は14%と、欧米に比べて低く、たとえば、デンマークは53%、英国は48%、米国は30%となっている(日本補聴器工業会、欧州補聴器工業会などの調査による)。デンマークなど、特に欧州の高普及率の背景に手厚い公的支援が存在することは前述した通りだが、それ以外にも日本での普及を阻む大きな問題がある。

それは、聴覚を専門的に勉強する場や資格が乏しいことだという。欧米においてはオーディオロジー(聴覚学)が発達しており、オーディオロジストと呼ばれる「聴覚ケアの専門家」の資格があり、職業としても成り立っている。たとえば、補聴器ショップに勤務し、医師と相談しながら、一人ひとりのお客さまに合った補聴器をセッティングするという重要な役割を果たす。「普及率も低いと同時に、満足度も低いというのが日本の補聴器市場の特徴です。海外で補聴器を使用している人のうち7、8割は満足しているのに対し、日本では4割に満たない。その理由の1つが、そうした専門家の不在なんです」

こうした状況を改善するため、2019年からデマント・ジャパンがスタートさせたのが、「みみともサマーキャンプ」という取り組みであり、2022年で4回目の開催となる。言語聴覚士の養成学校に通う学生向けに、補聴器や聴覚ケアに対する理解を深めてもらう2泊3日のプログラム。「欧米のオーディオロジストに近い資格として、日本では言語聴覚士がありますが、取得者の就労率は10%以下と非常に少ない。サマーキャンプは、業界への理解を深めてもらいながら、今後のキャリアパスを紹介したり、VR(バーチャルリアリティ)技術を使った難聴体験をしてもらったり、われわれの補聴器工場をオンライン見学してもらったり、グループ課題に取り組んでもらったりと、盛り沢山の内容です」

w175_keiei_01.jpgPhoto =デマント・ジャパン提供

日本式の補聴器フィッティング

現在、デマント・ジャパンに勤務する社員は約250名、新卒は採らず、全員が中途採用だ。外資系の現地法人というと、本社の力が強大なトップダウン組織を思い浮かべがちだが、デマントはどうか。「私は米国企業と英国企業で働いた経験があります。いずれも上意下達型でしたが、デマントは違います。各国の事情やマーケットに対する認識が深いと思います。大括りの戦略は提示してきますが、日本における戦略はわれわれに任せてくれます。上下というより対等な関係で話ができます」

そうした関係から出てきたのが、日本語の特性を生かした補聴器フィッティングの手法である。「日本語の特徴は子音より母音が強調されることです。国内の音響学の先生に調べてもらったところ、補聴器を通じて聞き取りやすくするためには、周波数の中低域に強みを持たせて音を増幅させたほうがいいということがわかり、それをモデル化したものです」

同じアジア圏、特に韓国支社とのつながりも密接だ。デマントは補聴器のほかに、医療機関向けの聴覚診断装置も手掛けている。「コロナ禍で中断していますが、日本と韓国、双方の聴覚分野の研究者に集まっていただき、彼らの知見も共有しながら、装置の臨床応用の新たな可能性を考え、模索する場をこれまでに2回、設けています。お互いに学ぶことが多く、刺激を受けます」

韓国支社とは社員相互の行き来もある。お互いの仕事のやり方を学び合うワークショップもさることながら、目玉はスポーツイベントだという。「トロフィーをつくり、その年、勝ったほうが所有できる。いちばん盛り上がるのがサッカーです」

w175_keiei_02.jpgPhoto =勝尾 仁

補聴器専門店と理念を共有

デマントの当面の目標は、グローバルで圧倒的なナンバーワンになること。先のグローバル5社のうち、3社が飛びぬけつつ互いに拮抗し、世界市場の4分の3を押さえているのが現状だ。

そのゴールに対し、いかに全員が同じ方向を向きながら進み、なおかつ新しい挑戦を続けていくか。そのための旗印となるのがパーパス(存在意義)だ。それは「ライフチェンジング・ヒアリングヘルス」という言葉で言い表される。「聞こえに悩む人の人生を大きく変えるもの。私たちが提供する製品はそういうものでありたい」という意味が込められている。

興味深いのは、木下は、そうした自社の方向性を社外のパートナーにも広めようと考えていることだ。都内中心で首都圏に計9店舗を構え、デマントの製品を販売しているヒヤリングストアという補聴器専門店がある。「昨年は私が先方に赴き、社員の方々に私たちのパーパスやビジョン、バリューのお話をさせていただき、今年は先方の社長が弊社を訪れ、自分たちの考え方や取り組みをうちの社員に話してくれました。結果として、すごくうれしいことがあったんです。ヒヤリングストアのお客さまが店頭で、『あなた方はデマント社の製品をお勧めするけれど、なぜですか』と質問したら、店員が『私たちの企業と基本的な理念が同じで共鳴し合っているからです』と言ってくれたそうです」

木下は「経営の本質」をどう考えているのだろうか。「自分たちの価値をわかりやすく表現すること」と言ってから、こう続けた。「われわれは単に補聴器をつくって売っているわけではありません。われわれが行っているのは『聞こえをよくする』という聴覚ケアの提供であり、その手段としての補聴器の対価をいただいていると。そうだとすると、補聴器を買っていただく瞬間だけではなく、店舗に来る前や購入して帰った後も、お客さまとの関係は続く。しかも、ご本人だけではなく、周りの家族も含めて、ということです。社員には自分たちの提供価値をこう理解したうえで、各自の持ち場で求められることをよりシンプルに実行してもらいたい。そのための体制づくりが、経営にとって重要ではないかと」

木下のキャリアは日立製作所の関連会社でスタートし、そこから2つの外資系企業を経て、今がある。「補聴器の仕事やデンマークの企業に関わるとは夢にも思っていませんでした。キャリアの終盤にいい会社、いい仲間に巡り合えたと思っています」と微笑んだ。(文中敬称略)

Text = 荻野進介

Nonaka's view
聞こえの本質を解明 人間が主役の企業

スイスのビジネススクールIMDが毎年発表している世界の競争力ランキングで、2022年、デンマークが初めて首位を獲得した。2位はスイス、3位がシンガポール、4位はスウェーデンと続き、8位にフィンランド、9位にノルウェーが入った。米国は10位だ。いずれも小国ながら、強い経済を持つ北欧4カ国の力を改めて感じたものだ(日本は前年から3つ下げ、過去最低の34位だった)。
デマントはそのデンマークの企業である。私は1990年代後半にひょんな縁があって、フィンランドにあるヘルシンキ・スクール・オブ・エコノミクスのなかに設立された研究機関、センター・オブ・ナレッジ・アンド・イノベーションの客員ディレクターを務めていた。フィンランドとデンマークは近く、デマント(当時はオーティコン)のスパゲッティ組織も知っていた。その行方も聞きたくて取材をお願いしたのだが、本文にあるように、仕組みは消えたものの、精神は脈々と息づいていることを知り、なるほどと思った。
今回、印象に残ったのは、音と脳の関係といった「聞こえの本質」を科学的に突きつめて解明し、その成果を製品開発に応用しようという姿勢だ。そのための研究機関も用意している。そこに日本や米国の企業にはない欧州企業の強さを感じた。
もう1つ感じたのは、人間が主役、ということだ。人間には顧客はもちろん、その家族、社員、社外のパートナー、将来、同じような仕事に携わるかもしれない若者も含まれる。創業者、ハンス・デマントは難聴の妻のために、英国まで足を延ばして買い求めた補聴器の性能に驚き、国内の難聴者に同じような製品を届けるべく、デマントを設立したという。事業のきっかけが技術や機械ではなく、人間だったのである。
昨今の日本では人的資本経営という言葉が飛び交っている。つい最近までは資本ではなく、資源と言っていたはずだ。資源が資本、つまり銭(ぜに)になったのである。私は人的資源、人的資本、どちらの言葉も好まない。人間は資本でも資源でもない。未来に向かって意味や価値をつくり出す主体なのである。

野中郁次郎氏
一橋大学名誉教授
Nonaka Ikujiro 1935年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。カリフォルニア大学経営大学院博士課程修了。知識創造理論の提唱者でありナレッジマネジメントの世界的権威。2008年米経済紙による「最も影響力のあるビジネス思想家トップ20」にアジアから唯一選出された。『失敗の本質』『知識創造企業』など著書多数。