賃金上昇が企業活動に与える影響を探る ―有識者へのインタビューを通して―人手不足で問われる事業継続のあり方

短時間労働者の名目賃金は、2012年から2022年の10年間に約2割増と、フルタイム労働者に比べて大きな伸びを示した。最低賃金引き上げや「年収の壁」解消に向けた取り組みといった政策も進められている。こうしたなか、短時間労働者の働き方や、人材を確保するための企業戦略はどのように変わるだろうか。北海道大学教授で、女性の就労や最低賃金などを研究する安部由起子氏に聞いた。

安部由起子氏

安部 由起子 氏
東京大学経済学部卒業。プリンストン大学博士課程修了(Ph.D.)。専門は労働
経済学。名古屋市立大学助教授、亜細亜大学助教授等を経て現職。

深刻化する人手不足に処方箋はあるか

企業や労働者が、税や社会保険料の負担が生じない収入や労働時間の範囲での就業に抑える、いわゆる「年収の壁」が昨今話題になっている。こうした働き方について安部氏は、「年収の壁の内側で働くことは2010年代半ばまで、有配偶のパートタイマーと勤め先企業の双方にとって、税や保険料を負担しなくてすむ『都合のよい』働き方でした。当時はまだ、低賃金で社会保険もなしで働いてくれる主婦層も、大都市圏を中心に相当数存在しました」と語る。

しかし2010年代後半以降、女性の就業率は天井に近づき、主婦を中心としたパートタイマーの労働市場参入も頭打ちになりつつある。このため企業側は、必要な人員を確保しづらくなったうえ、既存のパートタイマーが就業調整によって働く時間を減らすと、シフトが回らなくなるという悩みも抱えるようになった。特に飲食業は、コロナ禍で離職した人材の一部が職場に戻らず、需要の回復とともに人手不足が深刻化した。求人時給を上げても必要な人材を確保できず、セルフレジやテーブルオーダーシステムなどへの資本代替や、営業時間・営業日の短縮といった対策がみられる。
「今後、女性のパートタイマーがかつてのように増えるとは考えづらく、企業がニーズを満たせるほどの人材を雇い入れるのは、さらに難しくなるでしょう」

政府は2023年、「年収の壁・支援強化パッケージ」を打ち出し、壁を越えて働く労働者の勤め先企業に、助成金を支給するなどの対策を講じ始めた。しかし安部氏は「年収の壁のせいで労働時間を増やさないというよりも、生活のために確保したい時間や生活スタイルがすでに定まってしまっているので、(使用者から)長く働いてくれと言われても長く働こうとは思わない場合もあるのではないか」と述べ、政策効果は限定的ではないかと推測する。
「彼女たちの多くは育児・介護や家事を抱え、勤務時間を延ばしてくれと言われても生活設計上、時間の融通がききません。子どもが成長するなどの環境変化で勤務時間を延ばせる人は出てくるかもしれませんが、労働時間を延ばせる人ばかりではないでしょう」

ただ今後、時給が急激に上がったら、今まで通りの労働時間をキープしているだけで年収の壁を越えてしまう人が出てくる。そうなった場合、働く時間をこれ以上削るより、壁を越えて働くことを選ぶ女性が増える可能性はあるという。

女性の正社員化は進むも、層によって分かれる

統計(就業構造基本調査)を見ると、配偶者のいる25~54歳女性の非正規割合は2012~2017年、減少傾向だった。安部氏はこの現象を「女性労働者が正社員化されて非正規が減り始めるという、転換期にさしかかっているのではないか」と捉えている。
「大学卒業者の若いコホートを中心に正社員化が進んでいます。企業側からすると、これまでのように欲しいだけの非正規の労働力を確保できなくなるかもしれません」

他方、安部氏が懸念するのが、高卒・短大卒で配偶者のいない女性の非正規比率が、若年層を中心に主婦層に劣らず高いことだ。特に若い世代ほど学校卒業後、初職の段階で非正規の仕事に就く割合が2010年くらいまで高まっており、その後人手不足が顕在化してきたなかでも、非正規が減り正規が増えるという傾向は、高卒・短大卒の無配偶女性についてはこれまでのところはみられない。
雇用が不安定な非正規の仕事に就き、家計を分担する配偶者もいない働き手は、失職などの際に生活不安に陥るリスクが高まってしまう。

「高卒・短大卒の女性は、男女雇用機会均等法前は正社員として雇用されていました。しかし企業が、結婚までの短期間正社員として働いていた層を、正社員として採用しなくなる動きが少しずつ進み、そのような仕事は非正規や派遣に変わりました。そのため、高卒・短大卒の女性が、有配偶になって、あるいは子どもを出産するタイミングで無業や非正規雇用になるのではなく、無配偶者でも非正規雇用として働く人の割合が増えている要因となっています」

女性の就業を左右するものとは

政府の後押しによって、最低賃金は過去数年間で大きく上昇した。最低賃金引き上げによって、無職の主婦らが「時給が高いから働かなければ損だ」と考えて働き始めたり、パートタイマーが「時給が上がったから働く時間を延ばして、収入を増やそう」と考えたりするようになる「効果」は生まれたのだろうか。

安部氏は「働いていなかった有配偶の子育て中の女性が働く傾向は、以前よりも高まってきたとみています。ただ、時給が上がったことが原因かというと、それよりも夫の収入が伸びない、伸びが期待できない、子どもにお金がかかるといったことのほうが影響としては大きいのではないでしょうか。直観的には、最低賃金が数%高くなったことによる効果が大きいという感じはしません。有配偶女性の就業率はデフレ下も含めて長期的に上昇し続けています」と指摘する。

ただ、これも層によって状況が異なってくる。「夫婦ともに正社員で働いているのであれば、夫の要因が妻の就業に大きく影響するとは考えづらい。こうしたケースでは、共働きをするという夫婦間での合意になっているはずであり、妻がどこかの段階で仕事を辞めていたりする場合には、夫の収入がかかわってくることが多いのではないでしょうか」

人材難が生む新たなフェーズ 集約化・省人化も加速

労働需給の逼迫を背景とした賃金上昇トレンドは、今後も続くのだろうか。安部氏は「小規模な事業者を中心に、人材確保に必要な賃金を賄えなくなり、後継者難や人材難で廃業を選択するといった淘汰が進むのではないでしょうか」と予想する。
「従来のデフレ下では、生産性が低く本来市場から退出すべき企業も存続できたため、モノやサービスが一種の供給過剰に陥っていた。その結果、過当競争が物価上昇を抑制するという『負のスパイラル』も生まれていました。ただ、今後人手不足や賃金の上昇によってモノやサービスの供給過剰の状態が解消されていけば、高い賃金を払える生産性の高い企業のみが残るという側面もあるかもしれません」

パート・アルバイトの求人時給は、最低賃金に近い金額で設定されていることも多く、一見すると企業にこれ以上の賃上げ余力は残されていないように見える。しかし安部氏は、企業の多くは利益を拡大しており、今後も経営効率化や規模拡大によって、賃上げの原資を確保することは可能な場合もあると考えている。

「例えば、北海道で酪農を続ける場合、規模を大きくして技能実習生を含む外国人を雇って存続しています。一方、小規模でやっていた酪農家で牛の数も少ないとやめところも多いです。大きいところが残ってくるので、平均的規模は上がっていきます。そうした酪農家ではAIやロボット化などの省力化が進んでいるのではないでしょうか。
人手不足が長期にわたって続くなかで、今後も賃金は上がらざるを得ないでしょう。現在の賃金も、ぎりぎりまで上げた結果これ以上は『できない』のではなく、多少の余地は残しつつ賃上げを『していない』といえるかもしれません。人手不足なら賃金を上げてはどうか、と思いますが、それでも最低賃金にはりついているような場合もあります。なんとか労働力が確保できてしまえば、最低賃金を超えて賃金を上げるという判断にならないようです。」

聞き手:小前和智坂本貴志執筆:有馬知子)