新しいキャリア論の“仮説”たちなぜ今「新しいキャリア論」が必要か ―私たちの反省と立脚点

キャリア論研究をしてきた私たちの反省

個人のライフスタイルが多様化する一方、日本の労働時間は縮小傾向にあり、人生のうち仕事が占める時間的・心理的な割合は低下しつつある。個人と会社の関係性も変わらざるをえず、不安や戸惑いの声が聞かれるようになった。私たちは新たな職業社会にどう向き合えばよいのか。

実はこう考えたときに、人と組織の研究機関であるリクルートワークス研究所のメンバーの間で最初にディスカッションがあったのが、「既存のキャリア論が届いている範囲」の問題だった。

そんな議論が起こったのは、リクルートワークス研究所の研究機関としてのメンバー構成に理由があるかもしれない。バックグラウンドとする学問は様々で、本稿を書いている古屋は組織行動論を専門とする経営学寄りの学問領域だが、社会学を専門とする者、心理学を専門とする者もいる。さらにアカデミズムとして特徴的なのは、そこに経済学をバックグラウンドとする者が混ざっていることだろう。これは学問領域の違いの問題にとどまらない違いだ(専門的な言葉を使えば、基礎づけ主義と反基礎づけ主義(※1)という学問の基本姿勢の相反する立場があるが、この2つが混在しているということ)。

学問の根幹にある存在論をご存じの方からすれば、これは社会科学における根っこの分岐点であり、その両方の立場が混在して研究が成立するはずがないと考えるだろうし、それは概ね当たっている。リクルートワークス研究所の調査設計においては、「そんな人の気持ちや認識みたいな曖昧なものを聞いて意味があるのか」という基礎づけ主義の立場からの指摘と、「そんな外面の数値だけを調査しても何もわからないだろう」という反基礎づけ主義の立場からの指摘が入り乱れている(※2)。しかし、この点に人と組織の研究機関である私たちの強みがあると感じる。社会科学を横断するバックグラウンドを持つ研究員が所属するからこそ、上の問い、つまり「これまでのキャリア論が届いている範囲は広くないのではないか」という問いが出てきたのではないか。

きっかけは、とある研究員の「“キャリア論”がそんなにあるなんて知らなかった」という言葉だった。さらに「そういう研究は誰を助けてきたのか」「どんな人たちに知られているのか」と続いた。

筆者の身からすると信じられない言葉である。シャインも、スーパーも、パーソンズも、ブルームも、ホールも、クランボルツも、サビカスも、金井も知らないというのだ。“働くこと”に関わる研究者であっても、領域が違えばキャリア論を知らないこともある。ならば、一体キャリア論は社会のどこまで浸透できているのか。

後述するが、確かに直近実施した調査で、何も他の情報を与えないなかで、
――あなたが「キャリア」という言葉を聞いて、想像することを自由に答えてください。
と聞くと、「車の天井についてるもの」(筆者注:ルーフキャリアのことと考えられる)や「携帯電話の通信回線業者」、はたまた「荷運び」といった回答が見られるのも事実だ。また、この質問に対しては大きな回答傾向として、自分のこととして回答した人と、自分以外の人のこととして回答した人が見られた。もちろん回答に正誤はない前提でご覧いただきたい。

●自分のこととして回答された例
「仕事をする上で重要なもの」「若いうちから考えていったほうがいい」「自分の経験からくる能力」「自分が生活するための糧」「役職や昇給、経験といった仕事により得られることがら」「将来的な自分の働き方」「学歴など自分で作っていくものだと思います」「あればよいがどうしたらついてくるのかわからないもの」

●自分以外の人のこととして回答された例
「経験値とか仕事ができる人のイメージ」「官僚、経営陣」「正社員のなかで昇給することを望んでいる人」「国家公務員上級職」「頭の良い人。でも仕事はできない」「バリバリ現役お堅い社員」「すごい人だと思う」「自分とは関係ないと思ってる」

こうした結果を見ると、自分のキャリアを考えている、キャリアを考えたいと思ってきた人の数は必ずしも絶対的なマジョリティではない。私たちがキャリア論を提唱した際に、それが届いた範囲は決して広くはないのではないか。こうした反省が本研究の立脚点にある。

多様化する不安

もちろん、人と仕事の関係を豊かにするための「キャリア論」は経済社会の変化に対応し様々な恩恵を生み出してきたと筆者は考えている。ただ届けられた人々が必ずしも多くなかったことに問題意識を持ち、キャリアを考える研究の裾野を広げること、そして、より多様なライフキャリアの状況に対して実態を把握し仮説を構築すべく、調査を行った(※3)。本コラムシリーズではこの調査(以下、プレ調査と呼称する)に基づいて、各研究員が仮説を提示していく。

筆者からも、総論だけでなくいくつかポイントを紹介したい。

例えば、ライフキャリアが変化するなかで、人々が仕事に対して感じる不安が多様になっていることがある。プレ調査結果を分析する(※4)と図表1の結果となる。最も多いのは「金銭、経済的に不十分、不安定なこと」39.3%、続いて、「現在や将来の自分の健康状態」31.1%と、この経済的不安定・健康不安が日本の職業生活における2大不安だろう。他方で、「将来の仕事・生活が明確にイメージできないこと」が22.3%いるが、「仕事・生活の将来が、想像・予想ついてしまうこと」も13.3%いる。想像できないことが不安な人と、想像できすぎてしまって不安な人が混在しているのだ。

もちろん世代別で結果はかなり異なる。20代では「周りと比べて、自分の成長速度が遅いように感じること」が22.5%と図表1の全体結果の11.4%の倍近かったし、「スキルや技能の獲得ができていないこと」も26.7%に達していた。他方で、「会社の都合等で仕事がなくなることによる離職の不安」は9.1%と全体結果の12.3%より低かった。50代では、「現在や将来の自分の健康状態」が37.6%に達し、他方で「周りと比べて、自分の成長速度が遅いように感じること」は5.0%にすぎなかった。こうした世代別の傾向はあるが、複合的な不安、そしてその不安の在り処は多様だ。

図表1 設問「あなたの職業生活において、現在不安なことはなんですか」への回答(複数回答)

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「つらい仕事」観と、それをどうしのいでいるか

また、筆者が注目しているものとして、「つらい仕事観」がある。

端的に言えば、仕事はそもそもつらく苦しいもので、それをどうしのぎながら給与を確保するか、という労働観・キャリア観のことで、日本社会の就業に通底する価値観なのではないかと考える。傍証はいくつもある。日本の就業者の仕事のエンゲージメントサーベイが著しく低いことは周知のとおり(エンゲージメントが高い就業者はわずか5%だが、全世界で最低水準の割合である。なお世界平均は23%)だし(※5)、「楽しい仕事」というオピニオンが“炎上”することすらある(※6)。

もちろん、ここで言いたいのはこうした言説の好悪でも善悪でもない(筆者はその気持ちの両方がわかるときがある)。筆者が注目するのは、そのつらい仕事を日本の就業者がどう“しのいでいるのか”ということだ。この点もプレ調査では聞いた。この領域についてはコーピング研究という先行研究の蓄積があるが、それを踏まえつつもフリーワードで回答を収集している。その回答結果を分類したものが図表2である。

図表2 設問「これまで、仕事がつらかったり大変だったりしたとき、そのストレスやネガティブな気持ちをやわらげてくれたものにはどんなこと・ものがありますか」の回答分類別回答者割合

1 家庭関係(両親・夫・妻の優しさ・子どもの笑顔・パートナーと過ごす・ペットとの触れあい等) 31.3%
2 仕事関係(上司からの言葉・上司のフォロー・ぐちが言える仕事仲間・お客様からの一言・同期の励まし等) 13.3%
3 趣味(趣味・スポーツをする・サイクリング・ちょっと手の込んだ料理を作る・音楽を聴く・映画・旅行等) 30.2%
4 仕事や家庭以外のコミュニティ(別の居場所・ただ聞いて、隣にいてくれる友人・別の居場所があること・仲間とおしゃべり等) 25.8%
5 娯楽(おいしいものを食べる・食べること・カラオケで発散・グルメ・テレビ・マンガを読む・動画の視聴等) 41.6%
6 飲酒・賭け事等(飲酒・アルコール・賭け事・パチスロ・タバコ・ギャンブル等) 15.2%
7 休むこと(寝る・一人の時間・仕事以外のことを考えること・自分の時間・休む・休日・休暇等) 14.7%
8 お金(報酬・成果を踏まえた給料の額・投資・散財・貯金・買い物・ショッピング等) 6.3%
9 その他(辞めるしか方法がない・自傷行為・薬・学生時代の野球部の練習のつらさ・憧れの人物ならどう考えるか思う・時間が解決する・特になし、とにかく我慢・言葉にする、声に出す等) 4.2%
10 なし(なし・特になし・ストレスは感じない・ストレスがない等) 6.8%

※( )内は実際の回答例

つらい仕事をやわらげてくれるものとして、回答者が最も多かったのは「娯楽」41.6%であった。この「娯楽」と似たものとして「趣味」30.2%を挙げる回答者も多い。加えて「家庭関係」を挙げる人も31.3%に達している。娯楽、趣味、家庭でつらい仕事をしのいでいる人が多い様子だ。

続いて、「仕事や家庭以外のコミュニティ」が25.8%と多く、別の居場所の存在で助かっている人が多い。この別の居場所という観点では、就業者の活動空間を仕事+家庭+別の居場所と考えた際に、趣味や娯楽による誰かとの関係性がその別の居場所になっている可能性も高く、その重要性はなお大きいことが示唆される。「仕事関係」は13.3%と少数派であった。仕事や職場のストレスを解消してくれるのは、職場の外側の何かなのだろう。こうした異なる居場所の重要性、さらに言えば、異なる居場所で異なる自分として過ごすことの重要性をこの結果から感じている。

本稿では筆者がプレ調査を分析するなかで見えてきたいくつかのポイントを示したが、リクルートワークス研究所の多様なバックグラウンドを持つ研究員がそれぞれ着眼しているポイントは遥かに大きな広がりを持っている。

それでは、これからの職業人生を豊かに過ごすため、誰かが意思決定をはじめる「補助線」となりうるエビデンスを提示するための仮説たちをご覧に入れよう。

執筆:古屋星斗

(※1)基礎づけ主義は研究を成立させる普遍の基盤となる事実が存在するという立場。経済学などがバックグラウンドとする。反基礎づけ主義はそれを批判する立場で、普遍の基盤は存在せずあくまで人間の認識の問題であるとし、社会学や心理学などがバックグラウンドとする。例えば、仕事の満足度を調査する、という際に前者の立場では年収など事実となる数値でしか比較ができないと考え代理指標として取得しようとするが、後者の立場では(その年収が与える満足度は人によって異なると考え)「あなたは今の仕事にどの程度満足していますか」などと回答者の認識を聞く。もちろん、こうした立場は現在では混ざり合っているが、常時この2つの前提が異なる立場の研究員が混在する組織で研究を行ってきた筆者は、ときとしてバックグラウンドによる意見対立を痛感しながらよりよい研究を模索している。
(※2)なお、リクルートワークス研究所で基礎づけ主義の立場から実施されている代表的な調査が全国就業実態パネル調査(JPSED)であり、反基礎づけ主義の立場から実施されているものは、大手企業管理職の若手育成に関する定量調査https://www.works-i.com/research/works-report/item/youngtrainingsurvey.pdf などがある。
(※3)「キャリアに関する実態プレ調査」。2023719日~721日、インターネット調査。サンプルサイズ1414。性別・年代・就業形態によって均等割付を行い回収した。フリーワード設問を中心としている。
(※4)フリーワード設問を中心として生の声を収集することを主眼に置いたため、人口動態に合わせた割付をしておらず、統計的なプロセスを踏んだ結果ではないが仮説生成上の参考として提示している点に注意いただきたい。
(※5)https://www.gallup.com/394373/indicator-employee-engagement.aspx
(※6)
例えば、「今日の仕事は楽しみですか」と書かれた広告が批判を浴び広告主が謝罪したり、とある漫画で会社が大好きな人物(“会社推し”)が特集された際に批判を浴びたりといったことが挙げられる。もちろん、それぞれは掲示された場所やSNSで注目を集めやすかった文脈が存在するが、日本社会における労働観・キャリア観への言説の事例として紹介する。