研究所員の鳥瞰虫瞰 Vol.4流動化により「賃金交渉」は個人にシフトする──中村天江

三種の神器:雇用・賃金・交渉

日本的雇用が変容している。このことに異論を述べる人はいないだろう。しかし、日本的雇用の三種の神器である、生涯雇用(終身雇用)、年功賃金(年功序列)、企業別労働組合に着目すると(※1)、生涯雇用や年功賃金に比べて、企業別労働組合に関心が払われることは圧倒的に少ない。
実際、セミナーなどで「日本的雇用の三種の神器は何でしょう?」と尋ねると、「終身雇用、年功賃金、新卒採用」という答えが返ってくることの方が多い。組合活動を経験したことのある方を除くと、「労働組合については考えたこともない」という反応をされることもよくある。
しかし、雇用が流動化し、右肩上がりの賃金上昇が約束されなくなった今、賃金交渉や労働条件の改善など、労働組合が担ってきた機能の重要性はむしろ増している。

雇用と賃金の安心をもたらした日本的雇用

日本的雇用の終身雇用や年功賃金は、働く個人に対して将来にわたる安心を提供してきた。ひとたび企業に入り、つつがなく働いていけば、仕事がなくなることも、生計を維持できなくなることもない。それと引き換えに望まぬ転勤や長時間労働を強いられる面はあるものの、人生設計における大きな不安から人々を解放するという点では、日本的雇用は優れた仕組みだった。
組織の構成員が長きにわたり同じで、職務や成果など個人による違いよりも、全社的に整備された資格・等級制度にもとづく硬直的な賃金制度のもとでは、賃金や労働条件について、個人で声をあげるという風土は生まれない。実際、個人で賃上げを求めたことがある労働者は全体の25%に過ぎない。しかもその大半は雑談であり、明確に賃金について声をあげたことがある労働者は非常に少ない(図表1)。

図表1 賃上げの要望nakamura01.jpg出所:中村天江(2019)(※2)

企業別労働組合が、個人の要望を集約し使用者と交渉してくれるなら、個人で労働条件について交渉しようという気など、なおさら起きないだろう。

労使交渉の機能不全

しかし、集団的労使交渉の仕組みは、2つの点で機能不全に陥っている。
第1に、労働組合の組織率は、戦後は55%を超えていたがいまや17%まで低下してしまった(厚生労働省「平成30年労働組合基礎調査」)。組織率低下の背景には、正社員以外の労働者の増加や使用者の組合に対する忌避意識などがある。なかでも4割まで増加した正社員以外の労働者は正社員に比べ、組合加入率が低いこともわかっている(※3)。すでに大半の労働者にとって、使用者との交渉代理機能として労働組合があることは前提とできなくなっている。
第2に、雇用の流動化により、企業別労働組合だけでは条件交渉の機能を果たさなくなっている。転職入職者は1986年の170万人から2016年には294万人にまで増加しているが、転職者の入職時の賃金交渉は企業別労働組合の守備範囲の外にある(※4)。むしろ企業別労働組合はインサイダー(すでに雇用されている社員)を守るためにアウトサイダー(転職者)の受け入れを拒否する可能性さえ指摘されてきた。
第1の点については、労使関係の重要性を理解している人々の間では問題認識は共有されており、さまざまな検討や施策が講じられつつある(※5)。パートタイム労働者の組織率も右肩上がりで上昇している。しかし、第2の点については、正面からほとんど論じられていない。

声をあげる個人の方が高賃金が得られる

現在、職業人生は長期化し、テクノロジーやグローバリゼーションにより企業を取り巻く環境の不確実性が高まっている。今後、職業人生のどこかのタイミングで新たな仕事にチャレンジする人は増えていくだろう。だとするなら、転職や副業を通じて新たな仕事につく場合に納得できる労働条件を獲得することの重要性は増していく。
新たな仕事につく場合の労働条件は、自身と受入れ企業の間で決定される。筆者の分析によれば、賃金について要求したことのある個人の方がそうでない個人に比べ、転職後に高い賃金を得ている(※6)。職種や年齢による求人ニーズの差異を考慮しても、同様の結果が得られる(図表2)。
この結果は、流動的な労働市場のもとでは、個人単位での賃金交渉が重要になっていくことを意味する。

図表2 転職後の年収変化の分析(職種別・年齢別)nakamura02.jpg出所:中村天江(2019)
※「賃上げ_個人公式要求」は図表1で雑談以外の方法で賃上げを要望、「賃上げ_非公式要求」は雑談を通じて賃上げを要望、「労働者利益_交渉組織あり」は転職先に労働組合がある場合

労使交渉は集団から個人にシフト

個人の交渉力によって賃金が変わることは、労働市場が流動的なアメリカでも観察される。図表3は、賃金交渉の仕組みを個人⇔集団の「交渉単位」と、内部労働市場⇔外部労働市場の「労働市場」のマトリックスで整理したものだ。
日本的雇用慣行では、春闘や賃金制度など、左側の内部労働市場の象限の影響が大きい。しかし、労働市場の流動化にともない賃金交渉の仕組みはしだいに、左下の「集団×内部労働市場」から右上の「個人×外部労働市場」の象限に移行しつつある。
雇用システムの変容にともない、賃金交渉の仕組みも変化の過渡期にある。

図表3 労使交渉の仕組みnakamura03.jpg

雇用システムの議論において、雇用保障や賃金制度の変化に比べて、労使関係への関心は非常に少ない。労働組合の果たしている役割は、忘れ去られてしまったのではないかと感じることさえある。しかし、不確実な環境下で個人が長期にわたってキャリアを形成していくためには、適当な労働条件の獲得はなくてはならないものである。従来の集団的労使交渉の仕組みが参考になることも、それとは異なる仕組みを考えなければならないところもあるだろう。
個別的労使交渉のありようについて、議論を始める必要が生まれている。

(※1)経済協力開発機構(1972)『OECD対日労働報告書』日本労働協会
(※2)※リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査」において、2017年調査で民間企業に雇われて働いていた20~59歳のうち、2018年調査で賃上げに関する設問に回答している19763人を集計。賃上げ要求の項目は複数回答。
(※3)2018年の推定組織率は17.0%だが、パートタイム労働者の推定組織率は8.1%に留まる(「厚生労働省「平成30年労働組合基礎調査」」。
(※4)厚生労働省「雇用動向調査」、転職入職者(一般)の値。パートタイム入職者も加えるとさらに多い。
(※5)労働政策研究・研修機構(2013)「様々な雇用形態にある者を含む労働者全体の 意見集約のための集団的労使関係法制に関する研究会 報告書」
(※6)中村天江(2019)「個人の“Voice”と”Exit”と、賃上げ ―賃金に対する風土・感度・制度が乏しいなかで―」『個人金融』2019年秋号