研究所員の鳥瞰虫瞰日本の採用を進化させるために不可欠な両輪 田中勝章

8月7日~8月12日までバンクーバーでAcademy of Management(AOM)の第75回年次大会が開催された。採用に関する研究は、最近日本でも増えてきたと感じるが、ほかの経営関連のテーマに比べてまだ数は多くない。実務上で経験的にわかってはいるが、実証されていないということが多いように思う。とはいえ、この印象は比較論であって、今回の年次大会においてもいわゆる採用関連のセッションが複数ある。ひとつのセッションは5つ程度の講演を含むので、それなりの数になる。
AOMで発表された世界の採用研究の紹介と、戦術レベルの採用活動における科学的検証の重要性は、「世界の経営学者が注目する採用戦略と戦術とは?」を参照頂きたい。
ただ、非常に参考になる研究もいくつかある一方、手法だけを持ってこようとしてもどうもしっくりこない、というものもある。そのような思いになるのはなぜなのか?本稿では研究者としてよりは採用実務と人事業務としての育成に長く携わってきた者の視点から、日本の採用の独自性をもう一度整理し、米国と日本の人材戦略における採用の位置付けの違いを俯瞰しながら、これからの日本の採用を考えてみたい。

日米の採用の違いと現在起こっていること

よく言われるように、米国の採用は、ある職務・ポジションでの採用が主で、その選考基準は職務要件を満たすかどうかである。宗教や民族が多様であるという自覚のもとに、それ以外の要件をできるだけ排除しようとする社会的な意識が働いているようにも思える。つまり、職務遂行能力以外のことを選考時に問うことは「それは任された職務で成果を上げることに関係ないはずだ」となるのである。最近は、PJ-Fit(職務適応)のみならず、PO-fit(企業適応)、PG-Fit(部署適応)を重視した研究も増えてきているが、それらはあくまで「ある職務・ポジションでの成果」を(比較的短期に)最大化するための要素としてとらえられている。前提はあくまで職務毎の成果の積み上げが企業の成長という考え方なのだ。だから合理的・戦略的な役割分担を重視するし、機能する。

一方日本の場合は企業での採用であり、企業の一員としてふさわしいかどうかが選考の主な基準であった。だからこそ選考基準はあいまいになりがちだ。極端な話、配属時点で職務の要件を満たしていなくても、仕事に取り組みながら成長し要件を満たしていくことを期待する。仮に一定期間成果が上がらなくても、その場合には異動という手段で解決する。むしろ積極的に複数のポストを経験させながら本人と会社にとって最適な職務やポジションを探したり、全社的な視点を持った経営者を育成する。長期的に企業が存続することを前提にして人を育成し、成長に合わせて仕事を変え、企業の屋台骨となる人材を育てていったのである。
その背景にはさらに、企業も、企業を取り巻く環境も変化するという前提が組み込まれている。人の変化・成長によって、変化する企業環境を乗り越えていくという考え方なのだ。そのような前提の中で、企業は個人の雇用を保証し、生活を保障し、個人は企業という共同体に仕事の成果以上にコミットしてきた。

不確かな未来を前提にした採用のあり方は?

しかし今、企業を取り巻く環境は、長期育成を前提としていた時代には想定していなかった速さで、劇的に変わってしまう。こうなるともはや企業自身が将来を見通せない。OJTを通して複数年かけて身につけてもらおうとしていたスキルがその途中で陳腐化してしまい、一人前になったころには競争優位にならないという事態が起きはじめている。人の成長のスピードを、環境変化のスピードが大きく上回ってしまうため、日本従来型の採用と育成モデルでは破たんする分野が増える可能性がある。
中には米国型の職務重視、短期成果主義に転換する企業も増えるかもしれない。しかしそれは、企業のリスクを個人に負担させる形の短期契約の積み重ねでしかないのだ。

ならばどうするのか。
個人が企業にキャリア設計を委ね、年金も含めて生涯を保障してもらうということが現実的ではなくなってきているとするのであれば、やはりキャリア形成のオーナーには個人がなるしかないのだろう。少なくとも、ある程度以上の知識とスキルを身に付けた個人であるならば。企業にとって、利益を上げてくれる一人前になるための期間は、投資の期間である。この間は、その企業にとって最適化されたスキルを最短で身に着けてもらいたいと考えるはずだ。それはある程度企業内で確立され、効率的に学べるスキルとなる可能性が高い。それは過去の蓄積の継承である。継承には一定の時間と経験が有効であるから、一定期間は職能資格型制度にひもづく成長支援が有効だろう。一方個人にとっては、すぐに他の企業でも通用する汎用的なスキルが身に付くわけではないが、効果的に効率的に一定のレベルに引き上げてくれるという意味ではとても恵まれた環境で成長することになる。事業によって、担当領域によって一人前と呼ばれるレベルとそれになるための期間は異なるだろうが、その間は腰を据えてじっくり取り組むことが、結局は自身のスキルを短期間で高めることになる。

しかし、変化に対応し、さらには変化をリードしていくためには、その企業が現時点で求める最適以上の知識とスキルを身に付ける必要が出てくる。そのレベルになれば、今度は個人が主体的に身に付けるべき専門性を選び、磨くことが必要になる。つまりプロになる必要があるのだろう。プロになったら企業と縁が切れるということでもない。企業はプロを抱えていかないと自事業の未来を切り開いていけないし、すぐに競争力を失ってしまう。とはいえ、拘束することもできない。企業ができるのは、プロが専門性を磨く支援をしながら、期待する役割を求め、そして成果に報いていくことだけだ。

これらのことは、入社後の話であって、採用と切り離して考える話だろうか?
私はそうではないと考える。日本の採用活動は歴史の中で、その後の人事施策、もっと言うと企業と個人の一生の関係の入り口として設計、最適化されてきている。その前提を置きなおしてみれば、採用時に求める基準も、新卒採用と中途採用の区分も、そのための採用手法も、あるべき姿は変わってくるのではないだろうか?
一例として挙げれば、スキルによっては、身に付けるのに時間がかかるが簡単には陳腐化しないものがある一方、そうでないものもある。自社の業界、事業モデル、競争優位の構築の仕方を考え合わせれば、採用時に見極めるスキルとポテンシャルのバランスは企業ごとに異なるはずだ。その基準で人事は採用活動を振り返っているだろうか?
採用は、整合性のとれた人事―採用戦略と、それに沿った採用手法の科学的検証の両輪が揃ってはじめて進化していくのである。

田中勝章

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