知的ランダムウォークの軌跡Cour1「学び」を歩く-1 Random WalkのStyle:課題図書を読み合う

知的Random Walkersのメンバーたちが最初に歩く知の領域として、「学び」を選択した。知を獲得していく本サロンでいかに学んでいくのか。また、人事として人々にどのような学びの場を提供していくのか。こうした問いに向き合った。「学び」を「学ぶ」課題図書として選んだのは、『江戸の読書会』。日本思想史を研究する前田勉氏による名著である。『江戸の読書会』を事前に精読し、参集して繰り広げた対話による示唆を紹介する。
江戸時代の藩校や私塾では、儒学の教書を読むことが1つの学問として行われていた。学問の方法として大きくは「素読(そどく)」「講釈」「会読(かいどく)」の3つがあった。このうち自由で平等な「会読」で培われた経験と精神こそが、明治維新を、近代国家を成り立たせる政治的公共性の準備となったことを明らかにする名著である。

「江戸の読書会」の基礎知識

梅崎氏、メンバーたちの対話を読む前に、最低限、知っておきたいことは下記の2つ。

●江戸時代の学問の方法

素読:『論語』などの本を声に出して読み、丸暗記する(7、8歳から)
講釈:内容を理解するために、一斉授業の形式で先生が解釈を講義する(15歳くらいから)
会読:講釈によって理解を深めた後、10人程度が集まり、自ら本を選び、皆で討論しながら読む。予習をし、自分なりの疑問や意見を出し合う

●会読の3つの原理

相互コミュニケーション性:参加者の「討論」を積極的に奨励する
対等性:参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとで行う
結社性:読書を目的とし、期日を決め、一定の場所で行うことを規則に定めて、複数の人々が自発的に集会する

*出典:『江戸の読書会』よりリクルートワークス研究所作成

『江戸の読書会』の手法に、グループでの学びを高めるヒントはあるか

発見1
ケースメソッドも、アクティブラーニングも日本にあったのだ!

日本の学校教育は、基本的に「講釈」がメインでした。しかし、日本の大学や大学院で今、アクティブラーニングやケースメソッドが盛んに行われています。教授から教わるということがほとんどなく、ディスカッションを続けるこの学び方は会読に近しい。こうした学び方は、「海外からの輸入もの」だと思っていましたが、江戸時代から日本にあったのだ、と発見できました。

発見2
いきなり会読、では機能しないのかもしれない(梅崎)

たしかに会読は有効かもしれませんが、その分野の基礎的な語彙や概念を理解していないと、討論にならない。ゼミの運営をしていても、議論が盛り上がらない場合、少し知識を入れた方がいいな、と思うことがあります。素読があって、講釈があって、初めて会読にいける。そこには順番性があるのかもしれません。ただ、基礎的な知識を入れることに時間をかけると講釈だけで終わってしまうリスクもあります。どこで講釈から会読にいくのか、場を作る側、教える側の力量が問われるところです。

発見3
「今、講釈に戻っていない?」。イケてないアクティブラーニング(梅崎) 

逆のパターンもあります。上司と部下がいて、上司が「自由に語ろう」と言う。でも、上司の方が知識があるから、気がつくと講釈している。知識の非対称性によって会読が講釈に戻ってしまうのです。会読は最高のアクティブラーニングであっても、ケース・バイ・ケースで失敗することがある、ということもこの本の中で語られています。

発見4
ルールがある。だから誰でも入れる

その一方で、会読はどんな人でも入ってこられる面白さがあります。会読は基本的に古典を読みます。古典というコンテンツは、時代や人によって、あるいは同じ人でもその時々で読み方、引っかかり方が変わるからこそ、読み継がれます。だから自身の体験や知識によって解釈が、そして会読で語るコメントが変わり、他の参加者も「なるほど、そういう考え方もあるのか」という新たな発見につながります。誰でも入れて、自由な発言を担保する場にするために、堅固な身分制度があった江戸時代にあって「参加者の貴賤尊卑の別なく、平等な関係のもとで行う」というルールがあるのではないでしょうか。

なぜ、組織の「企み」の場はうまくいかないのか

発見5
「いいね!」の「仲良しグループ」と「結社性」の間にあるもの

江戸の読書会で培われた経験と精神こそが、明治維新を、近代国家を成り立たせる政治的公共性の準備となった、そこには結社性があったと著者の前田先生は書いています。この結社性とは、根本的に仲がいいこととは意味合いが異なり、何か「企み」のようなニュアンスがあります。「いいね!」し合って仲がいいけれど、議論はしていない。批判も出てこない。そんな仲良しグループを作ることとイノベーティブな集団を作ることとはイコールではないのです。その間にある違いは何でしょうか。1つは、その場に、「会社を良くしたい」「何かを生み出したい」というような共通の目的があること。もう1つはその目的に対する主観をそれぞれ述べて、それが集合体となって目的への強い意識が醸成されること。しかし実際は、どこかで聞いたような理論や、第三者的に一般論を語り合うばかりの場が増えています。

発見6
開示しにくいことを開示してこその結社性(梅崎)

「主観」といっても、好きなポテトチップスは何か、好きな音楽は何かという主観は述べやすく、コミュニケーションにはなるけれど、いくら趣味嗜好を全力で語り合っても、そこに「企み」は生まれません。個人の開示しにくいことを開示しなければ、共通目的の醸成までは至りません。公共性の高い課題に対する意見、働き方や組織の方針に対する疑義、自らのこだわりなどを開示することが会読のような議論の第一歩。しかし、それを開示すると意見が違う人に距離を置かれてしまう。「意見」と「個人」をうまく切り離せず、皆が主観を開示できないことが、オープンイノベーションを志す場作りに失敗する1つの要因ではないでしょうか。

発見7
「結社性」と「縦割り」はやはり相性が悪い?

主観を述べる、ということのリスクも感じます。受け入れられず「叩かれる」こともある。現代社会の会社で主観をさらさないのは、皆、「これを言ったら外される」「昇進に響く」という不安があるからだと思います。この本の中でも、心理的安全性の重要性に言及していますが、現代社会の中では、率直に話せるのは直接の利害関係のない人が集まる場に限られます。会社は縦割りなので、結社性のある、つまり1つの目的に向けてフラットに議論できる場というのは、非常に相性が悪いのかもしれません。

発見8
自らの主観を最大多数にすり替えていないか(梅崎)

江戸の読書会では主観を開示し合って、それが最大多数の目的となり、明治維新へとつながっていきました。しかし、開示する前に現代的には全員がその場における最大多数の「主観」を先読みして、それに自らの主観を合わせてしまう。すると、組織の合意形成は容易になりますが、多様な主観を持ち寄るダイバーシティの本質とは乖離していきます。自らの主観を最大多数にすり替えていないか、合わせていないか。この問いかけを続けることが、明治維新のような大きな変革を起こすきっかけとなるのかもしれません。

執筆:入倉由理子