先進各社に聞く、賃金上昇時代の人材戦略賃上げによる定着促進により、生産性向上の実現を

Vol.9 キャン

経営統括本部 人事部 副部長 國井秀夫氏経営統括本部 人事部 副部長 國井 秀夫(くにい・ひでお)氏

アパレル業界は、店舗スタッフの大半をパート・アルバイトが占める外食業界と比べて様相が異なる。企業の人員構成の方針が大きく二極化するなかで、とりわけ店舗で店長職を担う正社員を重視し、その定着に力を入れているのが老舗アパレル企業のキャンだ。パート・アルバイトの賃金体系とともに、社員の定着に向けた取り組み、その意図するところを経営統括本部人事部の國井秀夫氏に聞いた。

パート・アルバイトは評価の仕組みにより年2回昇給。店舗管理業務は主に社員の領域

キャンは、レディースブランドを軸に店舗展開するアパレル企業。自社ブランド商品を製造販売するSPA企業であり、企画から小売まで通貫して行っている。2024年で創業から60年を数え、主力ブランド「Samansa Mos2(サマンサモスモス)」は、立ち上げから40年近くになるアパレル業界ではきわめて歴史の長い老舗ブランドである。現在はレディースで10ブランドを展開し、店舗数は合わせて約450店舗。長年、黒字を継続する安定経営を続けている。

SM2 keittio店舗写真レディースブランドを軸に店舗展開をしている

従業員数は3,000名前後。アパレル業界は女性比率が高く、同社も店舗スタッフの97%が女性である。そのうち社員が6割、パート・アルバイトが4割で、「アパレル業界では、店舗スタッフは社員中心、パート・アルバイトが主力という二極化が進んでおり、当社は明らかに前者です」と國井氏は付け加える。かつては、店舗社員が7割を超えていた時期もあるが、少子化を背景とする新卒採用マーケットの縮小を見越し一時5割まで下げた。しかし、社員の人数を減らすと業務負荷が上がることで円滑な店舗運営が難しくなったことから、現在は再び比率を上げる方針に戻っている。

このあたりに同社の今後の人材戦略を理解するヒントがある。「パート・アルバイトは本人の都合で働く日や時間を選べる立場です。いくら会社がフルタイムを推奨してもコントロールするのは難しい側面があります。一方、店舗社員は当然ながらフルタイム勤務なので、店舗の運営責任を担う店長は、あくまで社員でなければならない、というのが当社の考え方です。店長が休みの時も、店長代理を務めるのは一般社員です。ですから1店舗に複数の社員を配置することが望ましいと考えています」と國井氏。社員を重用する理由は社員ならフルタイムが前提だからということ以外にも理由があるが、それは後述するとして、まずはパート・アルバイトの賃金からみていこう。

パート・アルバイトの業務は、商品陳列や接客、販売等が中心業務。「接客・販売に関しては、もちろん優秀なパート・アルバイトさんもたくさんいますので、そこは評価の仕組みを作っています。優秀な人材の離職を防ぐのが目的です」と國井氏。年2回、評価の機会を設けて時給を見直し、基準をクリアした者は20円、30円と個別に上げていく。小刻みにアップするのは、モチベーションを継続させる意図もある。時給水準はスタート時給の段階で出店する地域の最低賃金より高く、評価にともない社員の時給換算額と逆転しない上限ぎりぎりの範囲まで上げていく。「評価に応じて時給を引き上げているのは、優秀な人材の離職を防ぐことが目的です。数値的な分析はまだですが、見直し評価を始めてから、現場感覚としてパート・アルバイトが定着するようになったという報告を受けています」(國井氏)

昇給システムを構築し、福利厚生の充実も定着策の一環に

こうしたパート・アルバイトの時給の仕組みは、応募者増につながる可能性もあるものの、國井氏が「最大の目的は優秀な人材の離職防止」と明言するように、現状維持に主眼を置いている。一方、正社員については「生産性を上げるために社員の待遇を厚くして定着を図る、という方向に明確にシフトしていきます」と國井氏。まずは2024年2月から、初任給の改定も含めて、社員全員の給与をベースアップした。昇給額は全員同額で、これは昨今の物価上昇を踏まえて社員の生活を守る意図もあり、戦略としては前哨戦である。

本丸は、昇格昇給システムの構築と福利厚生の充実。昇格昇給システムは、一般社員、店長、リーダー役(店長代理)などのポジションに応じて評価を細分化し、給与と連動させる構成になっている。報酬の要件は細かく、昇格すると給与が上がるのはもとより、例えば店長のままでも給与がアップする場合もある。「過去のデータの分析から、最低でも2割近い社員が毎年上がるような仕組みを作り、その原資も予算に組み入れています」と國井氏。同社の店長は約450名だから、少なくとも90名前後が恩恵にあずかる計算である。減額はなく、評価とともに毎年上がり続けるため、社員の定着にかなりの効果が期待できる。ベアとともに2024年2月から導入している。

福利厚生は、女性社員が多いことから時短制度を拡充。妊娠中であっても医師の診断書が不要になり、労働時間の選択肢も増えた。復職後の時短勤務の適用期限は、子どもが小学校6年生までに拡大した。他に、全国勤務の社員には帰省手当を新設。また、社会保険に加入している全従業員を対象に、健康診断の受診日には特別有給休暇を付与している。これら新制度も2月からスタートしている。

Techichi サマンサモスモス姉妹ブランド店誰もが安心して働ける環境づくりを目指している

店舗社員の定着促進により、生産性向上を実現させる

定着に有効なこうした施策を実施することにより、既存社員の質を高めるとともに勤続年数を伸ばす。また、店舗社員の比率を高めるためには、社員数自体も増やさねばならず、同社ではそこを新卒採用で対応するとしている。「即戦力採用の中途社員は獲得競争が激しくなる一方で、賃金がかなり高騰しています。一方で、新卒市場のほうも厳しいのですが、こちらはまだ戦える余地が大きいと考えています。そのため今回、初任給の改定に踏み切りました」と國井氏。

経営統括本部 人事部 副部長 國井秀夫氏國井氏は効率性と業務負荷のバランスが重要と指摘する

計画採用ながら社員を増やす方向もあり、労働分配率の上昇は避けられない。多くの企業は賃金上昇分をカバーする対応策として価格転嫁のほか、業務のDX化を推進しており、同社も経費精算システムや労務管理システムなどを導入して効率化を図っているが、「これ以上は限界かもしれません」と國井氏。「考え方として無駄をなくすことを徹底する、というのは、アパレル店舗にはそぐわないと思います。お客様との会話は当然として、ちょっとしたスタッフ同士のお喋りも定着につながるコミュニケーションの一環ですから、効率性ばかり追求すると、逆に集客の減少やスタッフの士気低下を招いてしまいます」(國井氏)

「ですから意識が向いているのはプラスの方向です。すなわち売上高を向上させるのが最大の対応策です」と國井氏は断言する。各店舗の、人件費以外の住居費、派遣委託費などの固定費を可視化して、売上規模に見合った利益が出る店舗であるかをはっきりさせていく。

何より期待しているのは「店舗社員の生産性」だ。「パート・アルバイトと同じ現場業務をしていても、やはり集客や売上に対する意識、会社へのロイヤリティは、社員のほうが高いことが見受けられます。また、そんな社員同士が助け合える環境も大切です。アパレルで生産性を上げるのに大切なのは、経験値により磨かれる店舗社員のスキルや人間性、そして余裕をもって働ける環境です。したがって勤続年数が長い社員ほど、1人あたりの生産性が高くなるという事実を、私たちは感覚ではなく定量的な各種データを根拠に、それこそ身に沁みて理解しています。今後は、賃金上昇による定着促進によって生産性向上を実現させていく戦略です。今期からの取り組みの成果が当社の今後を左右するものとして、着実に進めていきます」と國井氏。アパレル業界の離職率は高い。生産性向上を見据えた、同社の社員定着の試みがどのように推移するか、離職率改善のヒントを得る意味でも注目したい。
聞き手:坂本貴志執筆:稲田真木子)